異法人の夜-Foreigners night-

-日常編-
木の枝のように――――その3
「さーて、これからが忙しくなるわね」
 卒業式は無事終了した。
 だがこの後に演劇を控えている演劇部は、まだまだ気を休めるわけにはいかない。
 今、涼子は志乃と一緒に背景を塗ったベニヤ板を運んでいた。
「ふぅ、ふぅ……」
「大丈夫? なんか疲れてるみたいだけど」
「つ、疲れてるというか……緊張してしまいました」
 志乃はあまり大勢の前に立つことが得意ではない。
 さほど長い付き合いと言うわけではないが、それくらいは涼子にも分かった。
 では、そんな志乃がなぜ演劇部に入ったのか。
 それとなく尋ねてみたことはあったが、志乃は適当な答えを用意してごまかしているようだった。
「冬塚さんは凄いですねー……送辞、ちゃんと言えてました」
「緊張してなかったわけじゃないけどね。でもま、緊張に慣れたというかなんというか」
 ある意味開き直っているようなものだった。
「それでも凄いです。私にはとても……」
「こらこら、これから大舞台の主演になるのにそんなこと言ってちゃ駄目でしょ」
「それはそうなんですけど」
「先輩にいい演技見せたいんでしょ?」
 梢のことを話題に持ち出すのは少し卑怯かもしれない。
 だが、それくらいしなければ志乃の背中を押すことは出来そうになかった。
「それは……はい。絶対に良い思い出にしてもらいたいです」
「だったらシャキッとする。今日まで演劇部を引っ張ってきたのは間違いなく志乃なんだから、やって出来ないことはないわよ」
「そうでしょうか」
「そうよ。練習とかでは凄かったじゃない。迫真の演技、ここにあり! って感じで」
 大袈裟ではなく、本当に涼子はそう思った。
 一生懸命頑張って、頑張りぬいた証ともいえる演技。
 あれを見れば、志乃が演劇部部長であることに異論を挟むものはいないだろう。
 それは、誇っていいことだとさえ思う。
「それに大丈夫。舞台に立つのは志乃だけじゃないし、私たちだって側にいるから」
「はいっ。それは本当に助かります。冬塚さんや遥先輩がいなければ、今日こうして舞台に向かうことも出来ませんでした」
「あははー。ま、大船に乗ったつもりでいてちょうだい」
 その大船を動かすのは志乃だけどね、と胸中で付け足す。
 二次会まで残り一時間。

 何人かのクラスメートは二次会に参加せず、自分たちで集まって遊ぶか、家に帰るかするらしい。
 そんなクラスメートを見送りながら、零次は自分の席に腰を下ろした。
 他のとあまり変わらない、平凡な机と椅子。
 机のほうは脚のバランスが悪いのか、傾いてしまうのが嫌な特徴だった。
 中身は空っぽ。
 既に荷物は家へと持ち帰っている。
 座りながら、零次は黒板の方を見た。
 そこに普段は教員が立ち、授業を進行していた。
 今は教員はおらず、ただ寄せ書きのような落書きが書かれているだけ。
 視線を窓の外に向ける。
 窓は開いていたらしく、零次が視線を向けると同時に春の暖かな風が吹き込んできた。
 外には校庭と正門、離れたところに部室棟や体育館が見えた。
 今は校庭で走り回る姿はない。
 空は徐々に陽が沈んでいる。
 赤く染まった夕焼け空。
 雲一つない鮮やかな赤の空を、零次はじっと見続けている。
 やがてこの教室には新しい生徒たちが入ってくるのだろう。
 その風景の中に自分はいない。
「まったく、短い夢のような時間だった」
 暗い夜が明けて。
 その後、陽の下で生活を始めた。
 それはとても短く、あっというまに終わってしまった。
 だが、楽しかった。
 最初は疎遠だったクラスメートに誘われて、ボーリングに行ったこと。
 休み時間に、漫画雑誌やゲームのことなどを語り合ったこと。
 イベントにおいて、協力し合ったこと。
 とても、楽しかった。
「久坂ー」
「……む」
 教室のドアに立つ、学生服の少年。
 吹奏楽部の元部長である、増田という少年だった。
 おおらかな性格で、二学期になった頃孤立していた零次の世話を焼いてくれた。
 彼がいなければ、零次はクラスメートと今ほど打ち解けてはいなかっただろう。
「どうかしたか?」
「ああ。ほら、皆で寄せ書きやってんだ」
 そう言って増田は色紙を零次に差し出してきた。
 既に多くの書き込みがある。
「これ、なんか一言でもいいから書いてくれないか? んで、今度手紙とかファックスで皆の家に送る予定」
「なるほど、こういうものもあるのか……」
 書き込みの内容は様々だった。
 親しい友人への呼びかけのようなものから、当たり障りのないメッセージまである。
 零次は増田から受け取ったマジックペンで額を突付きながら思案した。
 が、どれを参考にしていいのか分からない。
「何を書けばいいのだろうか」
「んー、そうだな。思ったことそのまま書けばいいんじゃないか?」
 そう言う増田は『楽しかったぞー!』と書いている。
「正直な気持ちで書けばいいと思う。あんまり空々しいこと書かれてもつまんないしな」
「それもそうだな」
 言われて、今度は迷うことなくスラスラと書いていく。
 零次は書き終えると、色紙とマジックペンを増田に返した。
「サンキュ。で、久坂はなんて書いたんだ?」
 増田は興味深そうに色紙を覗き込む。
 やがてその顔は、納得の表情に変わった。
「――――『ありがとう』か。なるほど、なんか分かる気がする」
「変ではないだろうか」
「変じゃない変じゃない。お前からその言葉が聞けて、少しホッとしたよ」
「そうか」
 良かった、と零次は胸を撫で下ろした。
 こういったことを気にすることも、以前の零次にはなかったことだった。
「久坂は、朝月大学だっけ」
「ああ。お前は――」
「俺はこっから遠くの音大。一人暮らしも始めるから、これからは忙しくなるよ」
 この町から離れる。
 となると、もう会う機会もほとんどないだろう。
 零次は、苦笑交じりの増田に向かって強く頷きながら、
「……頑張れ」
「――――ああ、頑張る。絶対、夢叶えてやる」
「ああ。それと」
「うん?」
「縁があったら――――また会おう」
 再会を期待するようなことを言うのは、初めてかもしれなかった。
 夕焼け空の下にある、夕闇の教室。
 一人は笑顔で教室から立ち去って。
 いま一人は、相変わらずの仏頂面で空を見上げていた。

「もうじき舞台が始まるね」
 体育館の隅。
 そこで遥は演劇用の衣装に着替えて、待機していた。
 側には五樹と睦美が座り込んでいる。
「遥先輩、頑張ってくださいね! 私も草葉の陰から応援してます」
「お前は死人か馬鹿睦美。演技の悪いこと言ってんじゃねえ!」
「な、なによう。私は健康よ!」
「二人とも、めっ!」
 喧嘩を始めかけた二人を、遥が仲裁する。
 ちなみにこれは志乃の真似だったりする。
 何度も二人の喧嘩を止めている志乃を見ているうちに覚えてしまったのだった。
 不思議とこうしたやり方で仲裁すると、五樹も睦美も大人しくなった。
「駄目だよ。もうすぐ本番なんだから、喧嘩なんかしちゃ」
「……悪い」
「ごめんなさい」
 二人は素直に謝る。
 遥に対しては比較的大人しめなのだった。
「ちっ、確かに本番前に喧嘩なんかしてちゃ駄目だわな。また、あのときみたいになっちまう」
「……あのとき?」
「ちょっとな」
 五樹は罰が悪そうに顔を背ける。
 遥もそれ以上問いかけるようなことはしなかった。
 一人、睦美は舞台の方を見つめている。
 しかし彼女に見えているのは今の舞台ではなく、去年の春、二人が高等部へ進学したばかりの演劇部。
 ……その、部室だった。

 その日、五樹と睦美は意気揚々と演劇部の部室へと向かった。
 これから高校生活を送るに当たって、二人は志乃がいる演劇部へ入部するつもりだったのだ。
 普段は意見が食い違ってばかりの二人だが、このときだけは何故か一も二もなく同意したものである。
 しかし、いざ演劇部の扉を潜ってみると、そこに姉の姿はなかった。
 代わりにいたのは、やや柄の悪そうな上級生たち。
 彼らは扉を開けた二人を威嚇するように睨みつけながら、唾を吐き捨てるように、
「何の用だ?」
「……入部、しようと思ったんだけど」
 睦美は怖気づいて声が出ない。
 そのため代わりに五樹が口を開いた。
「入部? 入部だってよ」
「止めた方がいいぜ、ここはろくに活動もしてねえんだからよ」
「そうそう。演劇部なんて今じゃ名目だけのもんだ」
「今更部活なんてやる気しないしねー」
 男女揃って覇気がまるでない。
 五樹は訝しげに部室内を見回した。
「……姉が入部してるって、聞いてたんすけどね」
「姉? ああ、笹川ちゃんか」
「あの子、なんか一人だけやる気あって、ちょっと相手面倒くさいのよねぇ」
「正直うぜぇよなぁ。ま、最近じゃ部活に顔見せなくなったけどよ」
「でも一人で練習してたぜ、中庭」
「ご苦労なこったなぁ。アホくさ」
 口々に出る志乃への評判は、あまり良いものではなかった。
 睦美は期待していたものと現実とのギャップに、少なからずショックを受けているようだった。
 ……五樹の顔が段々険しくなっていく。
「だったら、練習もしないのになんであんたらここにいるんだよ」
「あ?」
 反抗的な五樹の口調に、上級生たちの表情が変わっていく。
 無論好意的なものではない。
 そして五樹は、そんな相手に対して余計歯向かう性質の少年だった。
「ここは部活動するための部屋だろ? だってのになんで部活してる姉ちゃんが外に出されて、あんたらがここにいるんだよ」
「おいおい坊主、口悪いなぁ。なに、何が言いたい訳?」
「――――ここは演劇部の部室だ。演劇やらねぇなら出ていけ」
 その言葉を皮切りに、乱闘が始まった。

 結局乱闘で五樹は左腕骨折、右足他数箇所打撲の怪我を負った。
 慌てて職員室へ向かった睦美が教師に知らせ、駆けつけた一戸が乱闘を治めた。
 乱闘に参加した演劇部員は一週間の停学処分。
 五樹は新入生と言うことで多少甘く見られたのか、あるいは笹川の祖父が動いたのか――三日間の停学処分。
 この知らせを聞きつけたとき、志乃の顔は蒼白になってしまった。
 彼女はそのショックで、二日ほど学校を休んでいる。
 やがて志乃が学校に戻り、五樹が戻り、演劇部員たちが戻る頃。
 演劇部は、たった三人だけになっていた。

「いっちー、照明準備出来た?」
 スポットライトの準備を追えた美緒が、遥たちのところへやって来た。
 五樹はしばらくぼーっとしていたが、慌てて顔を上げ、
「……あ、悪い。聞いてなかった」
「だからー、照明の準備出来たのかって聞いてるの!」
「あ……」
 すっかり忘れていたらしい。
 五樹は慌てて走り出ていった。
 何度か転びかけている彼の後姿を見送りながら、美緒は首をかしげた。
「どしたの、いっちー」
「分かんない……」
 五樹も睦美も、どこか上の空になっているような気がした。
 本番前ということもあり、遥や美緒は心配そうに睦美を覗き込む。
 しかし、睦美は睦美で、それに気づくことなく舞台を見つめているばかりだった。
 本番まで、残り十五分。