異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
式泉運命の章「式泉運命と土門荒野」
 土門荒野。
 異法に取り憑く異法。
 取り憑かれた異法人は意識を少しずつ呑まれ、やがて破壊を撒き散らす害悪そのものになってしまう。その果てに待つのは死だ。誰かに討たれるか、自壊するか。その違いはあれど、迎えるべき結末は一つだけ。
 そんなものに、どうやら自分は憑かれているようだ――式泉運命がそう断じてからも、日々は変わらぬ速度で過ぎていく。
 どれだけ必死になろうと、投げやりになろうと、時間は同じ速度で進んでいく。
 家族は変わらず側にいる。
「お父さん、大丈夫?」
 あるとき、優香が心配して声をかけてきた。そのとき運命は、書斎の中で突っ伏して眠っていた。優香に揺り起こされて、ようやく意識が戻ったのだ。
「……ん、優香かい」
「うん。……ねぇお父さん、大丈夫?」
 優香は同じ言葉を繰り返した。
 運命の顔色は目に見えて悪くなっていた。土門荒野の影響か、不眠不休の研究のせいなのか、あるいはその両方が原因なのか。
「ああ、大丈夫だよ」
 そう言って我が子を撫でる掌も、ここしばらくの間に随分とカサカサになった。
 大丈夫。
 その言葉を優香はどう受け取ったのか――不安そうな顔のまま、駆け去っていく。
 それを追いかける力も気力もないことに気づいて、運命は愕然とした。
「……なんだ、これ」
 全員が鉛のように重い。水の中にいるような動きにくさが運命を覆っている。
「もう少し寝れば、治るかな……」
「――運命」
 気づけば、扉の脇に未了が立っていた。
 遠慮がちに、申し訳なさそうな顔で運命を見ている。
「未了さん。……どうしたんだい」
「あなたは、まだ運命なんですよね……?」
 その声に不安と怯えを感じて、運命は表情を歪めた。
 哀しげに。
 悔しげに。
「俺のレポート、見たのかい……? 机の中にしまっておいたんだけどな」
「私の机の上にありました」
「……しまい忘れたのかな」
 よく覚えていない。近頃は、よく記憶が飛ぶ。
「土門荒野……なのですか」
「俺はそう見てる」
 それを聞いて、未了は運命のことを正面から抱き締めた。そっと、包み込むように。
 その身体は震えていた。
「未了さん、恐いのかい」
 答えはない。ただ、抱き締める力が少し増した。
 大丈夫だとは言えない。気休めにもなりはしないだろう。
 ぼんやりとした頭でも、唯一確かに感じる、冷然たる事実。
 式泉運命は、どうも助かりそうにない。
 奇妙なことに、運命自身はそのことについて、さほどこだわりがなかった。
 彼が守りたかったのは、家族のことだった。
 父母は数年前に他界した。彼に残されていたのは、妻と娘たち。
 もっと一緒にいたかった、という思いはある。それでも、そこで未練たらしく文句を垂れるよりは、自分にできることをやっておきたいという思いが強かった。
 家族の笑顔が、彼に残された幸せだ。
 だから、未了の哀しげな顔は見たくなかった。
「……月を見に行こう」
 カレンダーを見て、思いついた。
「最近は行ってなかったし、久々に行こうよ。文次郎や司郎も誘ってさ。……ほら、今夜はちょうど満月だ」
 未了は答えない。
 窓から差し込む光が、少しずつ茜色に染まりつつあった。

「まったく、重いなぁ運命は」
 そう文句を言いながら、右の方を支えて歩くのは司郎だった。結婚して住居を定めた彼は、急遽運命に呼び出される形で里にやって来た。
「文句を言うな。ああ、大丈夫ですか運命様」
 左側を支えてくれているのは文次郎だった。彼もまた、立派な青年に成長している。堅苦しいのはそのままに、人間として少しずつ大きくなりつつある。だが司郎とは馬が合わないのか、いつも口喧嘩が絶えない。本当に仲が悪いわけではないのだろうが。
 その先を歩くのは未了だった。隣には、遥を背負いながら、母と手を繋いで歩く優香の姿があった。
 ……そうやって、歩いて行くんだろうな。
 自分がいなくなったあとの家族の風景。それを想像して、少し胸が傷んだ。
 ……そうやって、歩いていけるんだろうか。
 最後まで見届けることができない。それがどうにも悔しかった。
 やがて、あの場所に着いた。
 未了と出会い、語らったあの場所だ。
 昔はすぐにここまで来れたのに、今日はやけに長く感じた。
 満足に動かなくなった身体のせいか、それとも年のせいか。
 未了と並んで腰を下ろし、一息つく。こうやっていると、昔のことを思い出す。
「うん。綺麗な満月だ」
 空を見上げる。
 真っ暗な夜空の中、一際強い光を放つ星――月。
 姿を変えながらも、そこにあり続ける夜の太陽。
 ……そういや、そうだったな。
 未了に初めて会って、一目で惹かれたときも、こんな風に月が出ていた。
 その頃は夜の散歩が日課だった。
 はぐれ者としての自分と、それを取り巻く環境。あの頃は辛かった。闇の中で一人、何をしていいのかも分からず、自分も他人も誤魔化しながら生きていた。
 そのとき未了と出会った。
 一目で彼女を月だと思った。どんな暗闇でも、彼女を見ていれば迷わない。根拠も何もないが、あのときは本気でそんな風に思っていた。
 若い発想だと思う。
 未了は月ではない。彼女は彼女だ。運命が月よりも何よりも好きな一人の女性だ。
 横を見ると、優香が退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
「優香。あれだったら文次郎と一緒に奥の森に行って来てもいいよ」
「本当?」
 優香が目を輝かせた。
 奥の森には、夜にだけ輝くという不思議な草があるという。優香は前々からそれを気にしていたのだが、夜の森は危ないということで禁じていたのだ。
「文次郎、悪いが頼む」
「はっ。では参りましょうか、優香様」
「うん!」
 文次郎に手を引かれて、優香が森の方へと歩いていく。背負われた遥が「あー」と運命たちの方に手を伸ばしていたが、すぐにその姿は闇の中に呑まれて消えた。
「……僕は行かなくて良かったのか?」
 司郎がぼそりと言う。
「お前が言っても文次郎と喧嘩になるだろ」
「別に好き好んで喧嘩してるわけじゃないんだけどな」
 困ったように頭を掻く。
 未了は憂鬱そうな表情で運命たちを見ていた。運命はそんな彼女の手に触れながら言う。
「いろいろと調べてみたんだ」
 土門荒野のことを、である。
「未了さんに聞いた話や、他の魔術師たちの文献なんかも、手に入るものを漁り尽くしたつもりでいる。俺が手に入れられる資料には限界があるし、資料から読み取れる情報には限りがあるが……ある程度、どういう存在なのかは掴めた」
 正体不明ながら、まことしやかにその存在が囁かれていた伝説の怪物。
 概念としては、運命の持つ『異法』と同質のものだ。
 異法に寄生する異法。それは、宿主を変えながら、長い年月存在し続けてきた。共通しているのは、宿主の持つ異法を暴走させること。宿主の意志を少しずつ奪うこと。そして宿主を支配下に置いたあとは、その身が壊れるまで、破壊活動を行うということ。
「……あくまで概念だっていうなら、僕の力でどうにかできるかもしれないな」
 司郎が言う。
 彼がその故郷から抜けるきっかけとなった『魔法』。その特徴は、概念を分割することで無効化する、という性質のものだった。
 そうあるべきものを、そうではなくしてしまう力。
 確かにそれを使えば、土門荒野を無効化できるかもしれない。しかし、運命はゆっくりと頭を振った。
「寄生の仕方が厄介でね。土門荒野は宿主の異法と一体化するんだ。それを司郎の力で無効化すれば、俺自身、無事では済まない」
 確証は得られていないが、異法人にとって異法とは存在の中核を成すものだ、と運命は捉えていた。いわば『魂』にも等しい。それが無効化されれば、運命はそのまま死んでしまいかねない。
「土門荒野だけをどうにかする、という術はない。……俺は助からないんだ」
 それが、運命の出した結論だった。
 未了が拳を握り、自分の足に押しつけて俯く。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし、謝ったところでどうにもならない。
 それよりも――やっておくべきことがある。
「……俺は、被害を最小限に抑えるために手を打っておこうと思う。司郎には、その関係で重要なことを頼みたい」
 未了と司郎が、はっとした表情で運命を見た。二人とも、運命の考えを半ば察したのである。
「運命。あんた、この場で言うつもりか」
「ああ。未了さんにも聞いておいてもらった方が、禍根を残さないだろ」
 そう前置きして――運命は月を見ながら言った。
「俺が土門荒野に乗っ取られたら……司郎、お前が俺を殺してくれ」
 ふわりとぬるい夜風が三人の側を吹き抜けていく。
 誰も何も言わない。言えるような状況ではなかった。
 それほど運命の言葉は重いものだった。
「……それから未了さんにも、頼みがある。勝手な男の勝手な願いだ」
 なんです、と未了は言わなかった。ただ、その目からは、大粒の涙が零れていた。
「俺が死んだらあの子たちのことを頼む。司郎は勿論、土門荒野のことも恨まないで、ただ自分とあの子たちの幸せのために生きて欲しい」
 身勝手極まる願いだとは分かっている。
 だが、嘘偽りの一切ない、運命の正直な思いでもあった。
 願いとは、本来そういうものだ。
「難しいのは分かってる。身勝手なのも分かってる。でも、それが俺の願いなんだ」
「……私は」
 未了が震える声で言った。
「私は――あなたと一緒に、生きたかった」
 溢れださんばかりの感情を、無理矢理凝縮して吐き出したような――悲しく重い言葉だった。
「ごめん」
 運命はそう言って、頭を下げた。
 それが、式泉運命の最後の言葉になった。

 運命は言葉を失った。
 声が、思うように出なくなったのだ。足も満足に動かせず、研究室から出ることすらなくなった。
 家族はよく顔を出してくれる。だが司郎はあれからぴたりと顔を見せなくなった。
 何か嫌な予感がしたのか、文次郎は頻繁にやって来るようになった。
 あるとき、村の中で数少ない味方だった弟分に、運命はそっと紙を渡した。
 気に入ったら、それをお前の魔術名にしろ。
 その紙には『陰綱』と記されていた。
 上泉家の遠祖と伝わる伝説の剣豪と、比較的控え目な文次郎の性格から取った名前だ。親を亡くし、なかなか魔術名を得る機会がなかった文次郎にしてやれるのは、それくらいだった。
 日が経つに連れて、意識は少しずつ薄れていった。自分が何なのか、よく分からなくなってくる。
 そんな彼の自我を守っていたのは、ひとえに家族の存在だった。家族のことを思うときだけ、自分が式泉運命であることを強く実感できる。
 ……あとは、何ができるだろう。
 未了に対しては、何もしてやれない。自分が何かしようとしても、彼女の悲しみを増やすだけだと、運命は理解していた。
 土門荒野に関する調査報告は既にまとめてある。これをどの組織に提供するかは決めかねているが、物自体は出来ているのだから、安全な場所に移しておけば、あとはどうとでもなるだろう。
 ……ああ。もう、ないのかな。
 自分にできること。それがどうやら、既に終わっているらしいことに、運命は気づいてしまった。
 ……あとは消えるだけか。
 ここで土門荒野になってしまったら、村が大変なことになる。家族にも当然害が及ぶだろう。それだけは避けなければならない。
 静かに瞼を閉じる。
 後悔はたくさんあるし、やりたいこともまだまだある。そういうどうしようもないことも含めて――運命は己の生涯を幸福だと考えていた。
 ――受け入れて欲しかった。
 そんな言葉が脳裏に浮かんだ。これは自分のものか。それとも土門荒野のものか。
 ――愛されたかった。認めて欲しかった。
 十分愛された。親からも、妻からも、子どもたちからも。
 ――独りは嫌だった。
 変わり者揃いだが、面白い友人たちもできた。
 ――幸せだった?
 ……幸せだったなぁ。
 見えない何かに胸中で語りかけながら、運命は瞼を開いた。
 自室ではなかった。見たことのない場所――荒野だった。
 そこに、多くの墓標があった。いずれも風化しており、刻まれている文字は意味を成さなくなっていた。おそらく、名前が刻まれていたのだろう。
 ……これは?
 運命は歩みを進めた。驚くほど軽やかに身体が動く。
 墓標の間を抜けて進んでいくと、やがて崖の端に辿り着いた。
 見上げると、彼方では大きな鳥たちが集団で飛んでいる。
 見下ろすと、薄暗い森が見えた。そこから煙が上がっている。
 どちらもとても懐かしいもののように思えた。しかし、この崖からは、鳥たちの元に行くこともできないし、森に降りることもできない。
 どちらとも隔絶された、閉ざされた荒野。そこに一人きりで、運命は立っている。
「寂しい場所だな」
 誰もいないし何もない。そのくせ、決してたどり着けない彼方の地には、何かがあると分かっている。
 こんなところにずっといたら、人恋しさで死んでしまいそうだ。
 そのとき、どこからか、口笛を吹く音が聞こえた。
 未了がよく吹いていた曲だ。運命の足は、自然と口笛の音が聞こえる方向に向かっていった。
 誰かがいるであろう、その場所に向かって――。
「……!」
 歩いていかなければならない気がして。
「……め!」
 不意に、世界が塗り替えられた。
「――運命!」
 目の前にあったはずの荒野の風景は愛しい人の顔になり、渇いた風に吹かれていたはずの頬には、暖かな涙が落ちてくる。
 ……ああ、未了さん。
 名前を呼びたい。しかし声が出ない。
 懸命にこちらに呼びかける彼女の顔は、とても千年以上生きたと言われる人のものに見えなかった。
 そっと手を伸ばして、彼女の頬に触れる。
「運命……!」
 微かな安堵を含んだ声。それを聞いて、運命の心も穏やかになっていく。
 ……本当は逃げろって言うべきなんだろうけど。
 意識が妙にはっきりしている。身体は相変わらずの調子だったが、心は大分軽やかになった。それが抵抗を止めたが故のことだと、なんとなく理解している。
 垣間見た荒野。あれを目にした時点で――何かが決してしまったのだろう。
 そうなったら、自分が『破壊と害悪を撒き散らす』存在になるのは時間の問題だ。
 だから、未了には逃げてもらうべきなのだろう。
 だが。
 ……行って欲しくない。
 どこにも行って欲しくなかった。もしまだ言葉が残っていたとしても、運命は彼女に逃げろとは言えなかったろう。むしろ、最後まで側にいてくれと願ったに違いない。
 彼女なしで、式泉運命の人生は考えられない。だから、最後まで一緒にいたかった。
 自分のエゴだと分かっていても、運命はそれを切り捨てることができない。
 弱々しく手を伸ばす。それを未了が暖かく包みこんでくれた。
「――愛してます、運命」
「……」
 ……愛してるよ、未了。
 声は出ない。だがその言葉は、きっと伝わった。運命はそう信じた。
 ……ああ、愛してる。
 ……だからこそ。
 ……最後まで一緒に。
 運命の視界が赤く染まる。
 赤と黒の境界が崩れていく。
 すべての光景が――壊れていく。

 一九八六年。
 最後の泉の里は、『土門荒野』によって壊滅した。
 魔術師たちの組織のうち最大のもの――魔術同盟の公式資料によると、生存者は真泉未了と上泉文次郎(陰綱)のニ名とされている。
 他はすべて死亡ないし行方不明とされた。
 それまでは明確に存在が確認されていなかった土門荒野だが、この事件により、初めて公式資料に名前が載ることになる。
 土門荒野と化した男が非常に優れた研究論文を遺したこと、そしてその資料を、真泉未了が各組織に提供したことが、多くの者の関心を集めたのである。
 その『性質』から歴史を遡り、土門荒野と思われる存在が出現した事例がいくつも取り上げられた。もっとも、信憑性の問題から、多くは土門荒野と特定することはできなかった。今から――二〇〇五年――から四十年ほど前の事例が、土門荒野と断定できた最古の事例とされる。
 一方で、土門荒野そのものの足跡は、この後しばらく不明となる。
 この事件で土門荒野を倒したのは、ダブル・ワンという異名で呼ばれていた男――倉凪司郎だったが、彼は土門荒野の次の宿主について一切を黙秘したらしい。当人は知らないと言い張ったそうだが、それは後年偽りだったことが分かる。
 彼は隠していたのだ。次の宿主の名を明かせば、その宿主の人生が無茶苦茶になってしまいかねない。それを恐れて、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいたのである。
 土門荒野が次に選んだ宿主は、まだ幼い一人の少年。
 彼は――そこから大きくその人生を歪めていくことになる。