異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
草薙樵の章「草薙樵とダブル・ワン」
 正しき勝者は善となり、正しき敗者は悪とされる。
 善悪は他者とのやりとりで決し――正しさは己の内で決する。



 それは、今――二◯◯五年より、十九年ほど前のこと。
 一九八六年。とある山奥の話である。

 人が容易に入り込まないような山の奥深く。
 太古の世に神域として近隣の住民から畏れられた地。
 獣たちも静々と過ごすような場所に、洞窟があった。入口付近に立つと、ひんやりとした冷気が首筋にまとわりつく。そんな洞窟の更に奥深く――。
 焚き火と、生活に必要となるもの一式。
 そして、人間が二人。
 一人はまだ年端もいかぬ少年だった。どちらかというと細身だが、不健康そうな印象はない。どこか生真面目そうな顔つきで、じっと焚き火の方を見ている。
「ねぇ」
「うん?」
「お父さんとお母さん、どうなったの」
「……」
 少年の向かい側に座る青年は答えない。こちらもまだ若く、まだ二十代だった。しかしその表情は暗く、目元だけ見ると老人のようにも見えた。
「教えてよ」
「……」
「なんで俺、こんなとこにいるの」
「……」
「なんで!?」
 何も答えない青年に業を煮やしたのか、少年が焚き火を迂回して青年に詰め寄る。青年はやはり難しい顔をしたまま、ぽつりと言った。
「草薙樵君」
 それが少年の名前だった。樵は呼びかけられて、ぴんと背筋を伸ばす。
 両親の躾が行き届いていたのか、生真面目な性分なのか――その両方なのか。
「君のご両親は……残念だが、ここには来れない」
「……」
「その理由は、君も知っているはずだ。けど、それを無理に受け止めろとは言わない」
「……」
 青年の気遣うような声に、今度は樵の方が押し黙った。
 本当は知っている。
 はっきりと覚えている。
 ただ――認めたくないだけなのだ。
 ある日。いつものように家族で食卓を囲んでいたときのことだ。
 母のお腹には子どもがいた。妹だと分かったので、どんな名前をつけようかと、父も交えて話をしていた。多少躾に厳しい両親だったが、概ね平凡に幸せな家庭の風景だったのだろう。
 それが、突然の乱入者によって壊された。
 壁を突き抜けて家に飛び込んできたのは、まだ父より若そうな男だった。
 一目見て正気ではないと分かった。なおかつ、樵は直感的に、この男が自分と似たような存在だと理解した。
 即ち――異法人であると。
 危険を察した樵だったが、咄嗟には動けなかった。乱入者は狂気に満ちた眼差しを樵たちに向けると、咆哮し、飛び掛ってきた。
 動いたのは、異法人でも何でもない――何の力も持たない――父親だった。
 母や樵を庇うように男の前に飛び出した父は、ただの一振りで上半身をもぎ取られた。あまりの光景に絶句しつつ、母は樵を逃がそうと立ち上がり――。
 そこまで思い返して、樵は吐き気を催した。青年がそっと袋を差し出す。それを受け取って、隅の方で一人吐いた。
 自分がこうして生きているのは、常人ならざる力を持つ異法人だから、ではない。あのとき現れた乱入者は、同じ異法人だとしても格が違った。樵があの場で抵抗しても、両親同様殺されていただろう。
 樵が助かったのは、青年――倉凪司郎が乱入者を撃退したからだ。
 それ以上のことは、樵には分からない。司郎に助けられた直後に気を失い、先程、こんな辺鄙な場所で目を覚ましたばかりなのだ。
 司郎という男が善人かどうかも分からないし、自分がどういう状況に置かれたのかもはっきりしない。
 自分はもう、普通の生活は送れない――そんな漠然とした不安があるばかりだ。
「……落ち着いたかい?」
「うん」
「そうか」
 それから、また沈黙が訪れた。
 司郎が何か言いたそうにしているのは、樵にも分かった。しかし一向に口にしないところを見ると、相当重たい話のようだった。
 黙っていられると却って落ち着かない。
「ねえ。何か話したいことがあるなら、話してよ」
「……ん。そうだな」
 司郎が暗い眼差しで樵を見た。その視線の冷たさに、思わず樵は一歩下がる。
「君にとっては辛い話になる。けど、言わないでおくこともできない。大事な話だ」
 それから――司郎はぽつぽつと話し始めた。
 樵が異法人と呼ばれる特殊な力の持ち主であること。
 土門荒野と呼ばれる、異法に寄生する異法が存在すること。
 樵の家族を殺したのは――その土門荒野だということ。
 司郎の手で、その土門荒野は討ち果たされたということ。
「だが――土門荒野というのは、倒した程度じゃ死なない。俺ならどうにかできたかもしれないんだが、正直その余裕もなかった。俺にできたのは、宿主を壊すことだけ」
 言って、司郎は己の手を見つめた。
「宿主を失った土門荒野は――次の宿主に寄生した」
 司郎の視線が、己の手から樵へと移される。その眼差しが、なにより雄弁に物語っていた。
「君は、土門荒野に寄生されている。手の施しようがない難病にかかったんだ」
 身体の内側の方が徐々に冷えていく。
 まだ十にも満たない少年にとって、あまりに重すぎる事実だった。

 どうすれば良かったのだろう。
 洞窟での生活が始まってから、樵はただそのことだけを考えていた。
 倉凪司郎はいない。彼は彼でやることがたくさんあるらしく、時折顔を出すと言い残して去ってしまった。
 だから、考えるくらいしかすることがなかった。
 両親の言いつけにはきちんと従っていた。異法人として目覚めた後も、その力を無闇に使ったりしたことはほとんどない。
 ……俺は間違ってなかったはずなのに。
 正しいことをしていれば、いつか必ず幸せになる。
 そう言っていた両親の顔を思い出して、樵はその都度泣きそうになった。
 生活に必要なものはあったから、困ることはなかった。司郎は丁寧にも、樵の年齢に合わせた学習教材なども置いていってくれたのだが、とてもそんなことをやる気にはなれなかった。
 物思いにふける日々が続いた。
 一週間くらいして、司郎がやって来たとき、樵はたまらず己の疑問を投げかけた。
「俺は、間違ったことなんかしてない。なのに、なんでこんなことになったんだよ……?」
 正しいことをしていても、幸せにはなれないのか。
 なら、正しいってなんだ。
 正しいことをする意味なんてあるのか。
 問いかけられた司郎は、複雑そうに表情を歪めた。
「君のせいじゃない。それは言えるよ。……君がどんな子であれ、あの惨劇は起きていた」
 強いて言うなら、何もできなかった俺のせいだろう――そんな風に言葉を結ぶ司郎を、樵は力任せに殴った。
 手加減無用の一撃。子供とは言え、常人を遥かに凌駕する威力だ。
 それを、倉凪司郎はまともに受けた。衝撃に耐えきれず、その身体が壁まで吹っ飛ぶ。
「……樵」
 よろよろと司郎が起き上がる。口から血が垂れていた。
「もし俺を殴って気が済まなかったのなら――君は強くならなきゃならない」
 言われて、樵は歯を食いしばった。
「なんでだよ」
「君がこんな状況に陥ったのは断じて君のせいじゃない。けど、君があのとき土門荒野よりも強かったなら、こういう状況にはなっていなかっただろう。君のご両親も死なずに済んだかもしれない。他の誰でもなく、君自身が――そう思っているんだろう」
「……っ!」
 駆け出す。
 野獣のように飛び出して、司郎に殴りかかる。
 司郎はそれを、いとも容易く片手で止めた。
「君は悪くない」
 そう前置きして、
「だけど、正しかろうと弱いんじゃ――どうにもならないことがある」
 厳かに。
 自分自身に言い聞かせるように、言った。

 正しいだけではどうにもならないことがある。
 それまで、両親の言うことを純粋に守って来た少年にとって、それは容易に受け入れられることではなかった。
 だから、樵は司郎がやって来る度に挑みかかった。
 司郎は決まって、最初の一撃だけはまともに受ける。それ以外はすべて何らかの方法で防いでいるのか、まるで効いていないようだった。
 司郎は樵に対して何もしない。樵の持つ不安や不満を聞いたり、挑みかかる樵をあしらうばかりだった。
 そんな司郎の対応が余計に樵を苛立たせた。
 ……こんなところからは、さっさと抜け出してやる。
 危険な存在が己の内側にいるから、他の人がいる場所から離れて生活しなければならない。そのことは理解しているが、もう我慢の限界だった。
「俺は、間違ってない……!」
 念じるようにそう呟く樵だったが、次第にその声が弱くなっていく。
 いつまで経っても、あるはずの出口に辿りつかない。
 何時間歩いても、全然外の光が見えてこない。
 ……くそっ。
 考えてみれば当たり前だ。司郎の立場からすると、危険人物であるところの樵を簡単に外に出せる場所に置いておくはずがない。
 延々と続く薄暗い道も、何か仕掛けがあるに違いなかった。
「……くそぉっ!」
 壁に拳を打ち付ける。
 無性に悔しかった。これまでは、そんなときどうすればいいのか、両親が教えてくれた。だが、その両親はもういない。
 自分一人で、爆弾を抱えたまま、どこへ行けばいいのかも分からない。
「ちくしょう……」
 足から力が抜ける。膝をついて、ただ無心に地面を殴りつけた。
「ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう」
 惨めだった。
 親がいないと自分がこんなに駄目になるなんて、思ってもみなかった。
「ちくしょうっ……!」
 弱い。
 自分は弱い。
 司郎の言葉の意味が、初めて身に染みて理解できた。
 強くなりたい。
 どんなに嘆いても、この現状は変わらない。もっと強くなって、自分自身でどうにかするしかないんだ――。
 樵は涙を拭いて立ち上がると、そのまま踵を返した。洞窟の奥底、誰もいない寂しい場所に向かって。
 明確な目標を、心に描きながら。

 それから樵の生活は変わった。
 物思いにふけることがなくなり、身体を鍛えたり勉強に励んだりするようになった。
 司郎が残していく教材や洞窟の中でやれそうな特訓メニューを、一心不乱にこなすようになった。
 やり始めてみると、自分が抱えている問題が少し軽くなった気がした。何かをしているという充足感もあって、樵の表情は少しずつ明るくなっていった。
 ただ、司郎が来る度、彼に挑むのは変わらなかった。
 ……強くなるんだ。こいつより。
 そうすれば、あの土門荒野とかいう化け物にも負けないようになる。樵はそう信じて司郎に挑み続けた。
 司郎も樵の内面が変化しつつあることに気付いたのだろう。そのうち、最初の一発も入れさせてくれなくなった。それに、場合によっては反撃もするようになった。
 戦い終わると、司郎は樵に的確なアドバイスをした。それは戦い方に関するアドバイスに限ったものではない。生きる上で司郎が大切だと思っていること全部を、樵は知りたいと思うようになった。
 もっとも、焦りもあった。
 知れば知るほど、倉凪司郎という男は底が知れない、と思うようになってきたのである。最初の目標としては、あまりに大きすぎるのではないか――と不安になることもあった。
 正直にそれを打ち明けると、司郎は笑って言った。
「目標ってのは超えるためだけにあるものじゃないぞ」
「そう?」
「まあ、超えるのが理想的なのかもしれないけどな。俺にも目標にしてた男が一人いたんだが、結局追い越すことは出来なかった」
「あんたでもか。どんな人だったんだ?」
「愛妻家。親馬鹿。侠客も親分みたいなところもあったし、三歳児みたいなところもある奴だったよ」
 司郎は寂しそうな目で言った。
「目標ってのは、追い続けるだけでもいいんだ。人を動かす原動力にさえなればな」
「ふーん」
 分かる気がした。
 この洞窟での生活がましになってきたのは、司郎を目標に据えてからのことである。
 もし司郎がこうしてときどき来てくれなければ、自分はおそらく退屈に殺されていただろう。
「俺は絶対あんたを追い越してやる。覚悟しとけよ」
「ははは、よく言った。けど、それはちょっと難しいかもしれないな」
「なんでだよ」
「君には才能がある。やる気もある。けど、時間がない」
 言われて、樵は自分の胸に手を当てた。土門荒野という得体のしれない化け物。いつか自分はそいつに心を喰われる。その事実だけは、どうポジティブに考えても変わらない事実だった。
 だが、司郎は頭を振って、そんな樵の危惧を否定する。
「時間がないのは君じゃないよ。土門荒野は――君の中の土門荒野は、うまくいけば復活しないまま終わるかもしれない」
「え? それじゃ……」
「時間がないのは俺の方さ。近頃はちょっと敵を作り過ぎた。そんなつもりなんてなかったのに、名前ばかりが良くも悪くも売れすぎてしまってね。需要と供給のバランスが崩壊してるんだ」
「……難しいこと言われてもよく分かんないぞ」
「うん。そうだね――」
 司郎は少し考える素振りを見せてから、
「そろそろ俺は――誰かに殺されてもおかしくないってことさ」
 淡々と、そんな風に言った。

 司郎がいなくなる。
 それは、彼を目標に据えた樵にとって一大事だった。
 司郎を超えるという一事がなければ、することがなくなってしまう。
 普通の人間なら他にやりたいことを探せばいいのだが、樵の場合は事情が違う。こんな薄暗い洞窟で、たった一人過ごす少年にとっては、まさに死活問題だった。
 それに、恩を返していないというのもある。
 樵は司郎によって命を救われたのだ。人から受けた恩には報いなければならない。父の口癖だった。
 ……だったら、俺が司郎を助ければいい。
 まだまだ未熟だが、樵も異法人だ。まったくの無力ではない。できることはあるはずだ。
 今度司郎が来たとき、その話を切り出してみよう。
 そんな風に考えながら、日々が無為に過ぎていった。
 ……変だ。
 落ち着かなくなってきたのは二週間が過ぎた頃だった。
 司郎は定期的にやって来ていたわけではないが、二週間も来なかったのは今回が初めてだった。
 それから更に二週間が過ぎて、不安は確信に変わりつつあった。
 ……何かあったんだ。
 いてもたってもいられず、洞窟の出口を目指して駆け出した。
 以前とは違う。明確な目的あっての行動だった。
 そして――樵は久々に陽の光を浴びた。
 あまりの眩しさに、しばらく目を開けられなかったくらいだ。
「……なんで」
 目を片手で覆いながら、樵は呟く。
「なんで、出られた……?」
 司郎が直接そうと言ったわけではないが、樵が洞窟から出られないよう、彼が何かしらの仕掛けを施していたのは間違いない。その仕掛けが今は死んでいる。
 身体の芯から寒気がする。
 勢いのあまり出たのはいいが、足が進まない。
 ここがどこなのか。どうすれば司郎の安否が確認できるのか。何も分からない。
 チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえる。離れたところで獣が動く音が聞こえた。
 少しずつ目が慣れてきて、腕を下ろす。
 滲む視界の中には――知らない老人の姿があった。
 年の頃は不明だが、和服姿で背は小さく、髪の毛もない。顔中しわだらけで、妖怪じみた雰囲気の老人だった。
 その老人からは気配がしなかった。視界に移るその姿が幻であるかのように、存在感がない。突然現れた――少なくとも樵にとってはそういう印象である――にも関わらず、どう反応していいか分からないくらい、気配がなかった。
 老人が、しゃがれた声で言った。
「危ない危ない。『後継者』――逃げるところだったかの」
 そして微かに老人が顎をしゃくると、樵の全身に凄まじい圧力がかかってきた。
「がっ……!?」
 全身が地面に叩きつけられる。透明の怪物が自分を踏み潰そうとしているような感覚だ。
 必死にもがこうとするが、手も足も出せない。身体がどんどん地面にめり込んでいく。
「その辺りにしておけ。今、こやつに死なれては困る」
 老人が誰かに指図する声が聞こえた。少し身体にかかる圧力が和らいだが、身動きは取れないままだ。
 自分のすぐそばに老人が立った。何やら小声で呪文らしきものを唱えている。
 ……なんだ?
 心臓の辺りに違和感を抱いた。何か気味の悪いものに纏わりつかれたような、おぞましい感触だ。
 やがて老人は呪文を唱え終えた。
「もう良いぞ、源。貴様に魔術を教えてやった礼、これで十分じゃ」
 次第に身体を押さえつけていた見えない圧力が消えていく。それでも樵は動くことができなかった。今の圧力のせいで、手足の骨が折れていたのである。
「じ、爺。てめぇ……いきなりなんなんだ!」
「ほう、芋虫みたいな有様で強気なことよ。まあ、それぐらいの方が都合もいい」
 枯れ木のような老人の腕が、思いがけない力強さで樵の顔を持ち上げる。
 正面から樵を見据えながら、薄気味悪い老人は邪な笑みを浮かべて言った。
「わしは古賀里白夜という。貴様のことは知っているぞ草薙樵。土門荒野に選ばれた哀れな『後継者』よ」
「……だから、なんなんだよ、爺!」
「わしはお前を迎えに来たのだ。どうせろくな生き方はできぬその身、せいぜいわしが上手く使ってやろうと思ってな……」
 カッカッカッ、と癪に障る笑い方をする老人に向かって、樵は唾を吐きかけた。
 本能的に察したのだ。この老人は自分の敵だと。
 唾を吐きかけられた老人は、さして気にする風でもなく笑い続けた。
「面白い。まだまだ青二才だが……それなりに使い道はありそうだ。もっとも、わしに逆らうのはやめておいた方がいいぞ」
 その言葉を証明するかのように――突如、心臓が何かに締め付けられた。
「――っ、か……っ!?」
「お前の心臓に仕掛けを施しておいた。わしの意に従わねば即座に心臓が潰されることになろうて――」
「て……てめぇ」
 そこが限界だった。
 老人に向かって手を伸ばそうとして、樵の意識は深い闇へと落ちていった。