異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
郁奈の章「郁奈と冷夏」
 町から遠く離れた山奥。
 白銀の森の奥深くを走っている『自分』。
 その行きつく先には――倉凪梢が倒れている。
 周囲一帯が白なのに、彼のまわりだけは赤黒い。
 ノイズまじりで、声が聞こえてくる。
『これで、いい』
 よくなんかない。
 夢の中の『自分』が叫ぶ。それは駄々をこねて泣き叫ぶ子供のものだ。
『悪い』
 謝られても納得などできない。
 ただ、生きて欲しかった。
 皆と一緒に生きて欲しかった。
 夢の中の『自分』が切々とそう訴える。
『――は、……と一…………ない』
 何を言っているのかよく分からなくなる。
 ただ、彼の言葉によって『自分』の心が抉られたのは感じ取れた。
『――――! ――――っ!』
 叫ぶ。ただ叫ぶ。
 意味などないと分かっていても、叫ぶ。
 例えその声が、もう彼に届いていないとしても。
 ……また死んだ。
 彼の死は確定事項だ。
 毎晩いろいろな『夢』を――二〇〇五年に起きる土門荒野の事件を見るが、その中で決して揺るがぬものがある。
 倉凪梢の死。草薙樵の死。そして土門荒野の復活。
 数多の平行世界でかつて起きた悲劇。その中で、倉凪梢が生き延びたことはない。

「大丈夫か? 急にぼーっとして」
 彼の声で意識が現実に引き戻される。
 目の前には、まだ生きている現実の倉凪梢がいた。
 郁奈にとって、彼はスクリーンの中の人物だった。
 二〇〇五年――今から二年後に起きる、土門荒野の悲劇で命を落とす重要人物。
 そんな人が、現実に目の前にいて、面白くもなさそうな顔でチョコをかじっている。凶悪な目つきから受ける印象通り、甘いものが苦手なのか。
 それとも、見知らぬ子供を相手に何を話せばいいのか悩んでいるのか。
「お兄さんは、この辺りの人?」
「ん……ああ、そうだな。この町に住んでるんだ。嬢ちゃんは?」
「私も。ここからは少し離れてるけど」
「そうなのか。親御さんとは買い物か何かか?」
「ううん。婚約者とお話し中」
「こっ……!?」
 予想外の返答だったのだろう。ぽかんと口を開けて、戸惑いの表情を向けてくる。
「え、ええと。そうか。その、大変だな」
「別に大変じゃないよ。相手の人も良い人だし」
 一から十まで説明するのは面倒なので、適当に省いておいた。
 実際、冷夏と孝也は自分にとって実の両親も同然だった。実の両親、そして父親代わりと言える存在はいたが、その人々は郁奈にとって遠かった。
 身近に感じる保護者を親というのであれば、冷夏と孝也がもっとも適切だろう。
 だが、彼らとの関係も長くは続かない。残り二年。それで終わってしまう。
「ねえ、お兄さん」
「ん?」
「人って、なんで死んじゃうんだろうね」
 二年後。多くの人が死ぬ。それ自体はまだ起こっていない未来の話だ。
 だが、そこに至るまでの運命の流れは既に出来てしまっている。流れを変えることなど出来はしない。皆、死んでいく。
 だが、それでも――冷夏や孝也には幸せなまま生き続けて欲しかった。
 見ると、梢は真剣な顔でこちらを見ていた。郁奈の発言をどう受け取ったのか、その双眸には僅かに悲しみがある。
「……何か悩んでるのか、嬢ちゃん」
「ううん――」
 咄嗟に否定しようとして、言葉が途切れた。
 悩んではいる。だが、誰にもどうしようもない悩みだ。梢に打ち明けたところで、どうにもならない。
「嬢ちゃん。生きてるうちは、『死』なんてもん考えなくていいと思うぜ」
 こちらの沈黙をどう受け取ったのか、梢はそんなことを言ってきた。
「生きてるうちは、どう生きるかってことだけ考えてればいい」
「そういうものなの?」
「ああ。どう死ぬか考えながら生きるなんてのは、悪いことなんだぞ」
 子供相手だからか、どこか諭すような口振りだ。
「でも、いつかは死ぬよ」
「まあなぁ」
 梢は困ったように頭を掻いた。なかなか引き下がらない子だ、とでも思っているのだろうか。
「私、夢を見るの」
「夢?」
「うん。毎日毎日、ずっと」
「どんな夢だ?」
「私の知り合いが、皆死んでいく夢。……皆が殺されていく夢」
 五歳児が口にするには物騒な内容だったが、梢はそれに驚くことなく、真剣な面持ちで沈黙した。
 ちょうどチョコがなくなった。
「……嬢ちゃん。名前は?」
「郁奈だよ」
「郁奈か。……なあ郁奈」
 梢は郁奈の前に膝をつき、目線の高さを合わせて、
「実は俺、正義の味方なんだ」
 大真面目な顔つきでそんなことを言った。
 本気なのか、子供相手に調子を合わせようとしているのか。
「正義の……味方?」
「ああ。正義の味方だから、誰かが殺されそうになったらきちんと助けてやる。郁奈や郁奈の知り合いがやばくなりそうだったら、俺がなんとかする」
 空虚な言葉。
 しかし、それを発する彼の眼差しは、どこまでも真摯なものだった。
 思わず心が揺さぶられるような感じだ。
「……できないよ。夢の中になんて、助けに来れるはずないもん」
「まあな。夢の中の人たちを助けることまではできない」
「じゃあ」
「でも、郁奈の知り合いは実際にいるんだろ? その人たちなら、助けることはできると思う」
 そう言って、梢は笑ってみせた。
「大丈夫。夢は夢だ。本当になったりはしない。なりそうだったら、俺がなんとかしてみせるさ」
 正直なところ、その言葉自体は信用できなかった。
 しかし、彼のことは信じられるような気がした。理由はない。ただ、信じてみたいと思わせる何かがあった。
 ――どくん。
 郁奈の中の何かが微かに震えた。
 異法人同士の共鳴現象。おそらく、梢の方も同じようなものを感じているはずだ。
 郁奈は少し焦った。特に隠す理由もないはずなのだが、彼には自分の正体を知られたくなかった。
 梢は少し驚いた表情を浮かべ、こちらを見ている。
 そんな彼の後方――公園の入り口に、冷夏の姿が見えた。
「冷!」
 ぴょんと身を出して、冷夏の元に駆け寄る。
 冷夏はこちらの姿を認めると、目を吊り上げた。
「勝手にどこに行っていたの、郁!」
 叱声に身を竦ませた郁奈の身体を、冷夏は力強く抱きしめる。
「まったく……心配したんだから」
「……ごめんなさい」
 軽い気持ちで抜け出してきた。まさかこうも心配されるとは思ってもみなかった。
「良かったな、親御さん見つかって」
 と、後ろから梢の声がした。振り返ると、彼は心底ほっとしたような笑みを浮かべて立っていた。
「郁奈。こちらの方は?」
「あ、えっと、倉凪さん」
 思わず答えて、何か致命的な間違いをしたような気になった。しかし、梢は特に反応も見せず、冷夏に向かって一礼してみせる。
「はじめまして。倉凪梢です。ちょっと買い物帰りにこの子と出くわしまして」
「……倉凪さん、ですか。あ、私は飛鳥井冷夏と言います。この子を見ていてくれたみたいで。ありがとうございます」
「いやいや、礼を言われるようなことはしてないですよ。それじゃ、俺はこれで」
 ひらひらと手を振りながら、梢は軽快な足取りで去っていく。
 そんな彼を見送る冷夏の表情は、やや強張っていた。

『倉凪梢の中には土門荒野という怪物が眠っています。異法人に寄生する異法、それが土門荒野という怪物。彼はその宿主なのです』
 冷夏が険しい顔で、知らない大人と話している。
 自分はそれを盗み聞きしていた。
『この事実は、先日発見された倉凪司郎――倉凪梢の父の記録に記載されていました。各方面から調査しましたが、倉凪司郎自身の筆跡によるものと断定されています。皆様には、倉凪司郎というよりダブル・ワンの通り名で説明した方が早いかもしれません』
 倉凪司郎。かつて先代の土門荒野だった式泉運命を殺害した男。自分も彼について多くは知らない。
『彼はおそらく土門荒野の無力化を狙っていたものと思われます。土門荒野とは概念。そして彼は、皆様もご存じの通り、概念を分割し無効化する力を持っていた』
『魔術を使う我らにしてみれば、天敵と言うべき力ですな』
『まったく恐ろしい。奴は魔術殺しなどと呼ばれてもいたな』
『……彼は先の土門荒野を殺害した後、次の宿主に選ばれた少年の中の土門荒野を分割し、その片割れを自分の子に封じ込めたのです』
『それでは、このまま放置しておけば良いのではないか』
『迂闊に刺激すると、却って事態の悪化を招くのではないかね』
 及び腰な意見が聞こえてくる。
 しかし、普通に考えれば、彼らの主張にこそ道理がある。わざわざ封じられた怪物に関わろうとするのは危険が伴う。
『土門荒野には復活の予兆があります。皆様は古賀里の長老をご存知かと思いますが、かの白夜翁の元には草薙樵という青年がいます。先の話に出た、次の宿主に選ばれた少年――というのがこの草薙樵です。白夜翁は、草薙樵の内に眠る土門荒野の片割れをずっと監視していたそうですが、異常が見られたとのことで、先頃魔術同盟宛てに連絡があったのです』
 そう。事態が動き出すのは、この古賀里白夜の報告からだ。
『草薙樵は何度かその力を暴走させたことがあり、きまって暴走中の記憶は失われていたそうです。数年前にその兆候を見せてから、暴走の頻度は増しつつあり、白夜翁も抑えるのに苦労しているとのことです』
『力の暴走と記憶の喪失か――。式泉レポートの記述と一致するな』
 式泉レポート。それは確か式泉運命が残した土門荒野に関する文書の総称だ。魔術師の界隈で大きな影響力を持つ泉の姫君が作成に関わっているため、魔術同盟も信憑性のある資料として取り扱っている。
 このレポートによって、これまでは伝説の存在としか言われていなかった土門荒野の正体が、大分明確になったのだ。
『裏付けは取れているということか。古賀里の長老も偏屈な男だが、わざわざ嘘偽りを同盟に報告するとも思えん』
『今あそこは復興のために苦労しているのだろう? 同盟の機嫌を損じるような真似はしないはずだ』
『それで飛鳥井殿。倉凪梢をどうなさるおつもりですかな』
 誰かが話を戻した。
 冷夏は慎重に言う。
『手順は考慮しなければなりませんが、討伐しなければなりません。その点について皆様のご意見をお伺いしたく思います』
『倉凪梢を討てば、彼の中の土門荒野は草薙の元に向かい、結局復活を遂げてしまうのではないかね?』
『あえて殺さず、どこかに封じるという手もあるのではないか』
『しかし何に封じる? そしてどこがそれを管理する? 封印指定物の管理をやりたがる家などそうそうないだろう。まして、封印が解けた際の危険性を考慮すれば……』
 そこまで聞いて、自分は場を離れた。これ以上彼らの話を聞きたくなかった。
 彼らは倉凪梢を殺そうとしている。殺されないにしても、彼は無事では済まない。
 そして、その会議の中心には冷夏がいる。それがどうしようもなく嫌だった。
 ……なんで?
 土門荒野の問題を放置することはできない。放っておけば土門荒野が復活し、辺り一帯が灰燼に帰すのだ。多くの人が死ぬだろう。事実、式泉運命のときは泉の里だけでなく、周辺に住んでいた無関係の住民も犠牲になった。
 それを防ごうと言うのだから、彼らの考えは間違ってはいないはずだ。
 それでも、嫌だった。
 ……なんで?
 自分の気持ちがちぐはぐになっていく。この不安定な感じはなんだろうか。
 それに気付いた瞬間、郁奈の意識は現実へと引き戻された。

 梢のことを見る冷夏の様子がおかしかった。ああいう『夢』になったのは、そのことが気になっていたからかもしれない。
 今はまだ二〇〇三年。倉凪司郎が残した記録が発見されるのも、古賀里白夜から同盟宛てに報告が届くのも、まだ先の話だ。今まで見た『夢』だと、早くても二〇〇五年になってからだ。
「冷、土門荒野って知ってる?」
 朝食の席で、念のため冷夏に確認してみた。しかし彼女はきょとんとした表情で、
「前にどこかで聞いたことはあると思うけど……ごめん、すぐには思い出せないわ」
「そっか。それならいいんだ。気にしないで」
 元々冷夏は土門荒野との関わりが薄い。司郎の記録と白夜の報告さえなければ、さして意識するような事柄でもないのだ。
 梢を殺そうという話し合いに参加していたのは、別の世界の冷夏だ。そう思うと、どこかほっとした。
 だが、この世界の――今目の前にいる冷夏が、いずれ土門荒野のことを知ればどうなるか。それは想像に難くない。
「ねえ、冷」
「なに?」
「もし、冷の知り合いとかが悪い魔物に取り憑かれて、町を壊そうとしたら……どうする?」
 奇妙な問いかけだった。冷夏は首を傾げたが、こちらが真剣に聞いていることを察したのか、少し考える素振りを見せた。
「魔物を追い払えるよう頑張ってみるけど」
「追い払えなかったら? 取り憑かれた人を助ける方法が何もなかったら?」
「……そのときは、その人ごと倒すしかないわね」
 倒す。優しい表現だ。実際は殺すということなのだろう。
「町にはたくさんの人がいるし、私にとってもいっぱい思い出がある場所だから。どうしても魔物を追い払えないなら、できることをするだけよ」
 冷夏にとっては、町を守るということが何よりも優先すべきことのようだった。
 彼女がこの町――秋風市をとても大切に思っていることは、日々の言動にも現れているから、今更驚くことではなかった。なぜそこまで思い入れが深いのかはよく分からないのだが。
 ……この分だと、冷に話すのはまずいかな。
 梢のことを知れば、冷夏がどう動くか、微妙なところだった。今の時点では梢と土門荒野を結び付ける証拠もないから、すぐに討伐という話にはならないだろう。だからと言って事態が好転するとも思えない。
「ところで郁」
「ん?」
「私、本家に呼び出されちゃって。しばらく帰って来れそうにもないんだけど……郁はどうする?」
 冷夏と一緒に行くか、ここに残るかということだろう。
「私あそこ嫌い」
 即答した。
 飛鳥井本家はかなり居心地が悪い。元々飛鳥井の人間ではない郁奈は厄介者扱いだ。それに皆が皆、腹に一物抱えていそうで、どうにも落ち着かない。聞いたところによれば、魔術師界隈の永田町と言われているらしい。
 冷夏も飛鳥井家に加わった経緯が微妙なものらしいので、本家ではあまり快く思われていないようだった。現当主は姪である冷夏のことを気にかけているようだが、それがまた他の人間には面白くないらしい。
「でもそうなると、夜は一人になるのよね……」
 この家で暮らしているのは冷夏と郁奈だけだ。日中は飛鳥井家絡みの人々が出入りすることもあるが、夜になると基本的には二人きりになる。
「孝也に頼もうかしら……」
「うん。孝也のところならいいよ」
 本当は診療所も苦手ではあるのだが、飛鳥井本家に比べれば雲泥の差だ。ちなみに診療所が苦手な理由は単純なもので、あの病院特有の雰囲気がなんとなく落ち着かないからである。
 しかし、孝也に電話していた冷夏の表情が曇る。
「繋がらないの?」
「ええ。携帯にも診療所にも電話したんだけど、反応がないわ」
 言いながら冷夏は腕時計を見た。あまり時間に余裕はないのだろう。
「携帯の電源切れてるとか、まだ寝てるとか」
「ありえるわね。孝也、そういうところはずぼらだから」
 あるいは緊急の用件で電話に出ている余裕がないということも考えられる。もし手術でもしていたら電話どころではないだろう。
「時間ないなら、とりあえず行ってみない?」
「そうね。もし駄目だったら……」
「一人で留守番するね!」
 わざと力強く言った。
 冷夏には悪いが、本家に行くくらいなら一人で留守番の方がずっとましだ。五歳児一人の留守番というと世間に聞こえは悪いかもしれないが、郁奈は自分が五歳児だと思っていない。精神的には十代半ばくらいのつもりだし、身体能力は異法人ということもあり、そこらの大人顔負けのレベルだ。
 冷夏は渋い顔つきになったが、郁奈の言葉を退けはしなかった。彼女も郁奈を本家に連れて行きたくはないのだろう。
「まあ仕方ないですね。でも一人は駄目よ」
「えー」
「えー、じゃないの。横井さんか長井さんに来てもらいますからね」
「一人でも平気なのに。横井さんと長井さんに悪いよ」
 冷夏は「何言ってんの」と呆れ顔で郁奈の抗議を退けた。
 横井さん、長井さんというのはこの屋敷の近くに暮らしている飛鳥井の氏族で、郁奈のことを猫かわいがりする。郁奈としても嫌いではない人たちだが、あまりにひっついてくるので少し苦手だ。
 ……孝也がいてくれるといいんだけど。
 冷夏と郁奈は、急ぎ足で幸町診療所に向かった。

 診療所には先客がいた。後ろ姿だけで誰だかすぐに分かる。
 冷夏が息をのむ音が聞こえた。
 向こうもこちらに気付いたらしい。診療所のドアの前で『急患につき不在』というプレートを眺めていた彼は、ちょっと意外そうな顔をした。
「あれ、えーと。飛鳥井冷夏さんでしたっけ」
「ええ。……お久しぶりです、倉凪君」
「……」
 軽くスルーされたことに若干納得がいかなかったので、郁奈は一歩前に出た。
「お、嬢ちゃんもいたのか。元気そうだな」
 凶悪な人相を緩ませて笑いかけてくる。悪気はないのだろうが、何か癪だ。
「ところで、ここに入ってきたってことは……やっぱり飛鳥井さんって、あの飛鳥井さんなんですか?」
「魔術の家柄の飛鳥井か、という意味であればその通りです」
 ちなみにこの診療所は、一般人が迷い込んでこないように結界を張ってある。外敵の侵入を阻むタイプではなく、意識を他所に誘導することで辿りつけないようにする類の結界だ。
 結界に気付いて打破した者か、ここの場所のことを知っている人間しか、この診療所には辿り着けない。
「そっか。いや、実は俺もちょっと特殊な輩で。ここの先生とは顔馴染みなんですよ」
「ええ、存じております。実は、孝也から何度かお話を伺ったことがありまして」
「なんだ、そうだったんですか。じゃあ、こっちの素性なんかも?」
「ええ。榊原さんのところにお世話になっているそうで。あの方とも以前何度かお会いしたことがあります」
 共通の話題が出てきたことで、場の雰囲気は和やかになった。「ところで」と冷夏は診療所に視線を移す。
「孝也は留守でしょうか」
「そうみたいですね。俺も定期健診に来たんですけど、この分だと今日は帰るしかなさそうです」
「ううん……そうですか」
 冷夏の表情が曇る。
「何か困りごとですか?」
「いえ、実は私、これから本家の方に行かなければならないのですが……」
 そこで冷夏は郁奈に視線を向けた。それだけで梢は事情を察したらしい。
「もしかして、幸町先生に預けようと?」
「ええ。ですがこの分だと難しそうです」
 言って、冷夏は郁奈の手を握った。
「一旦戻りましょうか」
「うん」
「……あの」
 梢が遠慮がちに手を上げた。
「良ければ、うちで預かりましょうか? 大所帯なんで、一人二人増えても全然平気ですし」
 郁奈はぎょっとなった。いきなり何を提案しているのだろうこの男は。
「ああ、いえ。それは悪いですよ」
 冷夏が常識的な返答をする。ここでいきなり「じゃあお願いします」という奴はそうそういまい。
「いやいや、困ったときはお互いさまって言いますし。これも一つの縁ってことで」
「……」
 梢の提案に、冷夏の心がぐらついているのが分かった。
 ……え、迷ってる?
 本家に連れていくのは論外だから、屋敷に戻すか、梢の提案に乗るかのどちらかだ。普通に考えれば、屋敷に戻して留守番させるはずである。
 冷夏の黙考は長かった。何を考えているかが読めない。
 やがて。
「あの。それでは、この子お願いできますか?」
「ええ、構わないですよ」
 どん、と自分の胸を拳で叩く梢。善意なのだろうが、正直嫌だった。
 梢のところに預けられる。それは榊原家の厄介になる、ということだった。
 榊原家。それは二〇〇五年の悪夢の中心だ。郁奈の見る悪夢には様々なパターンがあるが、いずれの場合も榊原家は多かれ少なかれ悲惨な目にあっている。
 そんな人々がいる家に行ったら、余計悪夢が酷くなりそうだった。
 冷夏と梢が何か細かい話をしている。やがて、郁奈の手を引く相手が冷夏から梢に替わった。
「それではお願い致します。あと、それから……」
 去り際に冷夏は、やや躊躇うように言った。
「今度一度お時間をいただけますか? この子のことで、少し話したいことがありますので」
 梢はきょとんとしていたが、「いいですよ」と快く頷いた。
 ……ああ、そういうことか。
 郁奈は、そこでようやく冷夏の意図に気付いた。これは一種の顔合わせだ。
 おそらく、機会があれば冷夏は郁奈を榊原家に連れていくつもりだったのだろう。しかし忙しい日々が続き、なかなか機会がなかった。
 今回の出来事は、ちょうどいいきっかけになったわけだ。
 遠くなる冷夏の背中を見送りながら、郁奈は心の中で嘆息した。
 ……正直なところ気が重い。
 なんとなく梢の方を見上げると、何か誤解されたようで、
「そんな心配そうな顔するなよ。うまいもの食わせてやるから元気出せって」
 励まされてしまった。
「改めて、よろしくな郁奈」
「よろしく」
 先行きは不安だが、今はついて行くしかなさそうだった。
 榊原家。
 そこには、郁奈にとって縁の深い人間が二人いる。
 ……どんな風にして会えばいいんだろ。
 それが少しばかり怖かった。