異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
郁奈の章「郁奈と来訪者たち」
 女の人が頭を撫でている。
 冷夏ではない。黒髪を腰元まで伸ばした優しそうな女性。
 炎のイメージが脳裏をよぎる。
 血濡れた姿。とても温かかったはずの人。
『……お母さん』
 無償に抱きつきたくなった。どうしようもないくらい切ない。
『大丈夫だよ』
 彼女は笑って言った。
『郁奈は死なせないから』
 嫌だ。
 それでは嫌なのだ。
 自分が死なないだけでは足りない。全然足りない。
 皆で生きたい。そう強く願っているのに、その声は彼女に届かない。
 もう『彼』がいないから。だから彼女は、もう死んでもいいと思っている。
 同時に――死ぬのは自分だけでいいと思っている。絶対に守ると、彼と同じように思ってくれている。
 そんな思いやりはいらない。けれど、それを言うこともできない。
『それじゃ、いくね』
 去りゆく背中。必死になって手を伸ばすも、決して届かない。
 これは過去の夢だから、既に結果は決まっている。
 変えられない。自分には――何も変えられない。
 多くのことを見渡してきたが、結局自分は、何も出来ないままだ。

 そこで目が覚めた。
 昨晩は楽しかったけど夢見は最悪だった、などと思う余裕はなかった。
 目の前に、女が寝ている。
 ……え、なにこれ。
 朝チュンというやつだろうか。いや、あれは男女でしか発生しないはずだろう。いや同性でもありなのか。しかし少なくとも五歳児には無縁のはずではなかろうか。
 発想の奇抜さに気付く余裕もなく、郁奈はぎくしゃくと起き上がった。
 自分で動けるから、これは夢ではない。かろうじて理解できるのはその程度だった。
「ええと」
 周囲を見ると、自分にあてがわれた榊原家の一室のようだった。
 障子から陽の光が差し込んでくる。ただそんなに明るい感じではないので、まだ昼にはなっていないようだ。
 その障子が急に開いて、一気に眩しくなる。
「ん? おー、起きてるな」
 立っていたのは梢だった。彼も昨晩遅くまで起きていたはずなのだが、微塵もそれを感じさせない快活さだ。羨ましい。
「……あの」
「ん……ああ、起こしに来たっきりで戻って来ないと思ったら。こういうのもミイラ取りがミイラになったって言うのかね」
 手にしていたはたきで寝ている女の顔をぺちぺちと叩く。
「こいつは遥。榊原遥。昨日お前も会った榊原幻の――まあ義理の娘だ」
 むにゃむにゃ言いながら起き上がる遥の顔をじっくりと見つめる。確かに、夢でよく見る遥の顔だった。
「あれー? 私、寝てた?」
「ああ。久坂たちはとっくに食って出かけたぞ。お前たちもとっとと食え」
 大きく身体を伸ばしながら、梢は足早に出て行った。どうやら屋敷の掃除をしていたところらしい。
「あ、えーと……はじめましてだよね? 榊原遥です。よろしくね」
「は、はぁ。郁奈です。よろしくお願いします」
 差し出された手を掴む。遥は満面の笑みでその手をぶんぶんと振った。
「それじゃ、ご飯を食べに行こう!」
「あの、私まだ寝巻……」
 騒がしい朝だった。

「郁奈ちゃん、怖い夢でも見てたの?」
 朝食に箸をつけたところで、いきなり尋ねられた。
 居間にいるのは自分と遥の二人だけだ。他の皆はどこかに行っているらしく、姿が見えない。
「な、なんで?」
「いやー。起こしに行ったらすごい唸り声が聞こえてきて、びっくりしたんだよ。だからよっぽど怖い夢でも見てたのかなって」
 唸り声て。そういう表現をされると、一女子としては少し気にかかる。
「夢……あんまりよく覚えてない」
「そうなんだ」
 遥は食い下がらなかった。
 実のところ――郁奈には一つの懸念があった。
 遥には、他者と不可視の要素を共有するという力がある。この『不可視の要素』の定義は郁奈もよく知らないが、心とか魔力とか、そういったものは含まれるらしい。
 だから、郁奈の『夢』を彼女も視たのではないか――という不安があった。
 あの『夢』は劇薬のようなものだ。あと二年で自分たちの生活が無茶苦茶になり、親しい人たちが命を落とす。突然そんなことを告げられて、まともな状態でいられるだろうか。
 見たところ遥の様子に妙なところはない。呑気そうな顔で遅めのニュースを見ながら「おー」とよく分からない声をあげている。
「ねえ郁奈ちゃん、これ行ってみない?」
「へ?」
 唐突な提案に、遥の示す先を見る。テレビで映しているのは、朝月駅から三駅ほど離れた駅近くでやっているイベントの光景だ。
 この辺りにしては規模が大きい。大勢の人が集まっているようで、賑やかな雰囲気が伝わってくる。ご当地ヒーローに肩車をしてもらっている子供が笑っていた。

 さほど興味があったわけではない。ただ、こういう催しが嫌いなわけでもない。
 遥が行きたそうだったから、それに付き合ってやった。それだけだ。
 わたあめで顔中をべたべたにしながら、郁奈は自分にそう言い聞かせていた。
「郁奈ちゃん、割とよく食べるんだね……」
「遥だって食べてる」
 まったく心外だ。遥だって焼きそばにたこ焼き、わたあめを食べている。十分食っている方だと言えよう。
 自分はそれに加えて金太郎飴とソースせんべい、フランクフルトに焼き鳥を食っただけだ。確かに分量はこちらの方が多いが、そこは「いっぱい食べて大きくなる」という大義名分でカバーしておく。
 とは言え、さすがにお腹が重くなってきた。
「ちょっと休もっか」
 ちょうどベンチが空いていたので、二人揃って腰掛ける。
 海が近い。潮風が心地よかった。
「あー!」
 近くで子供の声がする。見ると、うっかり持っていた風船を手放してしまったのか、男の子が泣きそうな顔で手を伸ばしていた。
 風船はもう遥か上空だ。仮に梢がいたとしても届かないだろう。
 男の子はとうとう大声で泣き出してしまった。一緒にいた母親が宥めようとするが、まるで聞く耳を持たない。
 ああいうのは、見ていて苛々する。
 ちょうど郁奈の手にも、風船が一つあった。溜息をついて立ちあがり、男の子にその風船を突きだす。
「あげる」
 無理矢理押しつけるようにして渡し、ベンチに戻る。もう一度見ると、男の子は鼻をすすりながら、手放すまいと風船をがっちり持っていた。母親はこちらに向けて申し訳なさそうに頭を下げ、男の子を連れていく。
「よかったの?」
「うん」
「優しいんだね」
「違う。ああいうの、見てるとムカムカするの」
 風船一つで何を泣き喚く。もっと辛いことが世の中にはいっぱいあるのだ。風船なんか代わりを用意すればいいだけではないか。
「泣き喚けばお母さんが何とかしてくれるって思ってるんだよ。そういう甘えは、子供でも腹立つ」
「……そっか」
 郁奈のキツイ物言いを咎めるでもなく、遥はただ頷いた。
 人々の声と潮風の匂い、そして波の音を感じながら、しばらく黙って座っていた。
「郁奈ちゃんは、飛鳥井冷夏さんのところで暮らしてるんだよね」
「うん」
「冷夏さんて、厳しかったりする?」
「んー……普通。厳しいときもあるし、甘いときもある」
 多分、世間一般の母親像からそう離れてはいない。他の家の母親というものはよく知らないが、変に厳し過ぎたり甘過ぎることはない。
「ふふ。郁奈ちゃん、冷夏さんのこと好きなんだね」
「へ? な、なにを唐突な」
「だって、さっきまで怒ってるような顔だったのに、今にやけてる」
 指摘されて、顔中が熱くなった。
「そ、そういうこっ恥ずかしいこと言うの駄目!」
「あはは。ごめんごめん」
 調子が狂う。
 美緒や梢とは違う意味で厄介な相手だ。こちらの本質を見透かされてるような、むず痒い感じがする。
 というか、冷夏や孝也にもこうしてやり込められることは多い。『夢』を通して常の子供より精神面では大人びていると思っていたが、結局はまだ五歳児ということなのかもしれない。
「でも、楽しそうでよかった」
「……?」
 遥の言葉に、若干の違和感を覚える。
 まるで、郁奈のことを以前から案じていたかのような――。
「遥、前に私と会ったことあった?」
 こちらは前々から『夢』でしょっちゅう遥を見ている。『夢』は強烈すぎるため、時折現実と区別がつかなくなることもあるから――もしかしたら、『夢』で見たと思い込んでいて、実は現実で会っていたのでは、と考えた。
「あ、ううん。違うよ。そういうわけじゃないの」
 遥は慌てて否定する。その様子からすると、嘘はついていなさそうだ。
「ただ、郁奈ちゃんのことは知ってた、かな」
 意外な答えだった。遥がこちらのことを知るための縁は限られている。
「冷夏から? あ、孝也から?」
「ううん。冷夏さんとは会ったことないし、幸町先生ともあんまりお話したことはないから」
 分からない。それではどこでこちらのことを知ったのだろう。
 仮に今朝、郁奈の『夢』を遥が見たのだとしても、このやり取りは不自然だ。
 以前から。遥と自分を結ぶ縁は――。
「……遥。もしかして、私のお父さんとお母さんのこと、知ってる?」
「あー。まあ、うん。郁奈ちゃんも、知ってる?」
「うん。お父さんがこの間死んだってことも。遥が、お母さんの妹だってことも」
 隠しても仕方がない。向こうが遠慮なく話せるよう、ここは素直に応えておく。
「そっか……。うん。私、郁奈ちゃんのこと、郁奈ちゃんのお父さんから教えてもらったんだ」
 郁奈の父――霧島直人。
 そうだ。自分と遥を結ぶ縁としては、冷夏や孝也よりも適切だろう。
 その考えに至らなかったのは、自分にとって父が遠い存在だったからだ。
「私、郁奈ちゃんのお父さんに助けてもらったんだ。とっても大変で辛いとき、郁奈ちゃんのお父さんは、助けに来てくれたんだよ」
「……ふうん」
「郁奈ちゃんのお父さんは、郁奈ちゃんのお母さんと約束したの。私とか……私の妹のことを助けるって。でも、その約束を果たそうとした反面、それを後悔してもいた」
「後悔?」
 母を救えなかった代わりに、母との約束を守って、母の妹たちを窮地から救った。大まかな経緯は郁奈も聞き知っている。その果てに父が命を落としたということも。
 父が死んだことについて、遥を責めるつもりはない。遥は救われて然るべき境遇にいたし、助けようとしたのは父の勝手だ。それで死んだとしても、責任は父自身が背負うべきものだと思う。
 ただ『さぞかし満足だったんだろう』――と苛立つことはある。
 一人娘を知人に預け、顧みることもなく、勝手に死んだ父。なるほど、男の生きざまというのはこういうものか、と皮肉交じりに思ってしまうのだ。
 だから、後悔していたというのは意外だった。
「郁奈ちゃんのお父さんが、郁奈ちゃんのお母さんと交わした約束はね。もう一つあったんだ」
「もう……一つ?」
「うん。郁奈ちゃんを見守ってあげてって」
「――」
 それは。至極真っ当な話だ。
 八島優香は、遥たちの姉であり――同時に郁奈の母でもある。姉が妹の身を案じるのと同じように、母が娘の身を案じるのもまた当然のことだ。
 なのに、そんなこと考えもしなかった。
「郁奈ちゃんのお父さんは、もちろんその約束も守りたかったけど、できなかった。いろいろな事情があったみたいで、私も詳しいことは分からない。でも、そのことを後悔してたんだ。とても」
「後悔されても、困る」
 だから父を許せと言われても、はいそうですか、というわけにもいくまい。
 勝手にいなくなって、勝手に死んで――それに、勝手に後悔していた、という一条が追加されただけだ。
「でも、ありがとう。お父さんの話を聞けたのは、嬉しかった」
 それもまた本音だ。
 許せないと思う反面、興味はある。
 遥はほっとした表情で「そっか」と頷いた。デリケートな話題だから、話して良かったのか気になっていたのだろう。
 こうして父の話を聞けるだけ、自分はましな方だと思う。遥の方は、父親のことを知りたくても答えられる人がいない。
 郁奈にとっては祖父にあたる式泉運命という人は、閉ざされた世界に生きた人だ。異法人や土門荒野に関する優れた論文は魔術界隈で高く評価されているが、本人の人となりを知る者はほとんどいない。
 郁奈も名前くらいしか知らない。
「郁奈ちゃん。そろそろ行く?」
 物思いに耽っていると、遥が声をかけてきた。
「うん。せっかく海に来たんだし、船に乗りたい」
「う、うーん。お小遣い持つかな……いや、大丈夫。頑張る」
 頑張ったところで金がすぐ増えるわけではないだろうに。そう思いながらも、一生懸命な様子を見ると、無粋な突っ込みは入れられなかった。

 結局夕暮れどきまで遊び尽くした。
 ……変なの。
 遥のことである。
 彼女は生まれてからほとんどの時間を、軟禁されて過ごしてきた。人間らしさのない生活が、彼女の人生の大半だった。だからか、人と感性がいろいろずれている。
 ただ、人間味のない時間を過ごしてきたとは思えないほど、生き生きとしている。世間慣れしてないことともあって子供っぽく見えるが、頼りない感じはしなかった。
 手際は悪いが物怖じしない。ぼーっとしているようで、しっかりしている。謙虚かと思いきや、かなり強引なところもあった。
 よく分からない人だ。
 ……まあ、でも。
 理解できなければ駄目、というわけではない。今日一日一緒に過ごして、遥との距離はかなり縮まったような気がする。
 ……お母さんは、こんな感じだったのかな。
 郁奈にとって母の記憶は蜃気楼のようなものだ。父以上におぼろげな記憶しかない。ただ、郁奈の思い描く母の姿形は、遥によく似ている。
 中身はどうか分からないが。
 数多の『夢』で見てきた遥は、他の人々と比べ、実に多様な可能性を持っていた。おそらく人間として過ごした時間が短いから――個という概念が希薄なのだろう。それが彼女の可能性の幅を大きく広げている。
 ある世界では、無力な女として二〇〇五年に命を落とす。ある世界では、皆の希望を背負って土門荒野を討ち果たす。ある世界では、二〇〇五年の梢の死をきっかけに人格が破綻し、極東の悪魔と称される怪物になる。ある世界では、泉家を再興し大魔術師として大成する。
 二〇〇五年に必ず命を落とす梢や樵、ある程度パターンが決まっている冷夏や孝也に比べると、遥が持つ可能性は善し悪し両面で千差万別だ。
「遥は、将来何かなりたいものってあるの?」
 ふと、気になって尋ねてみた。
「将来? 将来かぁ……うーん」
 遥は腕を組んで首を傾げ始めた。振り子のように動く首。本人の表情は真剣そのものなだけに、余計変に見える。
「特にない、かなぁ」
「何もないの?」
「そうだね。まだ、将来のこと考えられるほど大人じゃないのです」
 何だろう。私は大人だという人は子供っぽいが、その逆だからか、大人じゃないと言われると大人っぽく見えてしまう。
 ちょっと癪だったので、からかってみることにした。
「誰かのお嫁さんとか」
「え? あ、いや、それは、特には」
 急に歯切れが悪くなった。どことなく顔も赤味が増している。
「私ねー、梢のお嫁さんに立候補しようかなー」
「そ、それは難しいんじゃないかな。梢君、年下は皆妹分みたいなもんだ、って言ってたから」
「……そういうことなら遥も危ないんじゃない? 同い年って聞いたけど、どっちかって言うと年下っぽいし」
「うっ……それはそうかも」
 はぁ、と二人揃って溜息をつく。
 ……あれ。何で私まで虚しくなってるんだ?
 違和感を隅に押しやりつつ、遥の様子を見ると、どこか遠くを見るような、寂しげな顔をしていた。
「どうしたの? 実は梢のことそんな好きじゃなかったとか?」
「うーん、どうだろう。実は自分でもよく分からないんだ」
 好きで言えば好きだけど、どういう『好き』なのか分からない――と彼女は言う。
 確かに、好きと一口に言っても、その意味は様々だ。それがどういうのかなんて、考えたところで分からない。それでも、正体が分からないと不安になる。
「まぁ要するに、分からないことだらけってことだね」
 ――遠くから、バイクの音が聞こえてきた。
「だから、いろいろと考えなきゃいけないんだけど……って、私郁奈ちゃんに何言ってんだろ」
「ウフフ。いいじゃない。私、もっといろいろ遥の話、聞きたいわ」
「……?」
 遥がきょとんとした表情を浮かべた。
 ……ああ。つい口調に地が出てしまった。
 もう少し子供っぽさを意識して話さないと。
 ――バイクの音が近づいてくる。
 遥が車道側に移動した。
 ――バイクの音が、間近に。
 その直後。遥の身体がぶれた。
「え」
 バイクの乗り手が片手を伸ばし、遥のバッグを奪い取ろうとしていた。しかし上手い具合に抜けなかったのか――遥の身体が、バイクに引き摺られ、その勢いで、頭が電柱に――。
 音は聞こえなかった。
 ただ、遥の身体が引っかかって、バイクの乗り手が間抜けな姿勢で横転した。
 遥の身体は、妙に捻じれているように見えた。ぴくりとも動かない。
「……え」
 何だこれは。
 突然過ぎて理解しかねる。
 普通に話していただけなのに。まだ今は二〇〇三年で――二〇〇五年ではないというのに。
 そういえば昨日、榊原が言っていた。近頃、この辺りでは引ったくりが出ると。
「こ、ンのアマ……」
 ヘルメットを被ったバイクの運転手が、裏返った声をあげながら立ちあがる。表情は見えないが、その雰囲気だけで逆上していることが伝わってくる。
「痛ぇじゃねぇか、畜生ゥ!」
 思い切り遥を蹴りつける。無抵抗な身体は、その勢いでごろりと転がった。
 動かなくなった遥。その光景が『夢』のものと重なる。諦めの境地で眺め続けてきた『夢』と同じ光景だ。
 ただ一つ違う点は――『夢』のときほど、達観していられないということ。
 瞬間的に、怒りが沸点を突破する。身体の内側にあった魔力が、感情に従って炎のように溢れ出した。
 やめろその人に手を出すなこの野郎……!
 そう言いながら男に飛びかかる――ということはなかった。
 その前に、男の身体が宙を舞ったからだ。
 唐突に現れた疫病神は、退場もまた唐突だったと言えよう。
 男の身体が地に落ちる。そこに、四人の人影があった。
 ……え?
 唐突に現れた疫病神を倒した四人。それは、まったく予期せぬ顔触れだった。
「ふん。婦女子相手に引ったくりたぁ下種い野郎だなオイ」
 四人の中の一人が言う。その声は、郁奈も『夢』で聞き知っている。
 夕闇から覗き見えるのは、猫科の獣を連想させる貌の男。
 ……草薙樵!?
 突如現れたのは、まだここにいるはずのない男。
 否、彼だけではない。
「大丈夫?」
 倒れた遥を抱えて様子を見ているのは、古賀里夕観。彼女の傍らで、樵が倒した男を縛り上げているのはフィストだ。
「……あ、はい。なんとか」
 夕観の手を借りて、遥が起き上がる。しかし、まだ意識が朦朧としているのか、すぐに膝が折れてしまった。
「ああ、無理して立たない方がいいわよ」
「そう、ですね。ちょっと休みます」
 壁に背を預け、呼吸を整えている。頭を切ったのか、顔に血が垂れていた。
「そっちの小さいのは大丈夫か?」
 そしてもう一人、ここにいるはずのない男が郁奈に声をかけてくる。
「……うん」
 つい視線が男の右腕にいく。そこは、包帯でぐるぐる巻きになっていた。
 この男も郁奈の『夢』に出てくる。
 名は緋河天夜。異法人とは別種の、異端者と呼ばれる能力者。
 二〇〇五年、土門荒野の討伐を決定した飛鳥井家の依頼によって、梢を倒すためにこの町を訪れる狩人だ。
「おい緋河天夜。お前は暇だとか言ってたよな」
「……ああ。一つ頼まれた用事はあるが、急ぎってわけじゃない」
「だったら、この嬢ちゃんたち送ってってやれ」
「そういや、アンタらは急ぎの用事があるんだったな。けど、そいつどうするんだ」
 と、天夜は倒れた男を指す。
 答えたのは樵ではなくフィストだった。
「とりあえずここに縛り付けておく。通報はしておいたから、もうすぐ引き取りに来るだろう」
「ならいいか。……そっちの二人は、それでいいか?」
「す、すみません。助かります」
 息を整えながら礼を言う遥。彼女からすれば、彼らは単なる恩人だ。だからそういう反応になる。
 だが、郁奈は違う。この邂逅はまったく予期せぬものだった。
 二〇〇五年に梢と殺し合って死ぬ男――土門荒野の片割れである草薙樵。
 そして、彼の仲間として二〇〇五年の災厄に深く関わることになる魔術師、古賀里夕観とフィスト。
 更に、二〇〇五年、土門荒野を狩るために現れる異端者、緋河天夜。
 いずれも――登場するには早過ぎる人々だ。
「お嬢様、樵、時間が」
 時計を見て二人を促すフィスト。どうも彼らにはあまり時間がないらしい。
「分かったわ。……ごめんなさいね、ちょっと急ぎの用があるものだから」
「いえ、助けていただいてありがとうございました」
「礼を言われる筋合いはねーさ。俺たちは助けたくて助けたんだ。自己満だよ自己満。そんなのにいちいち礼を言うなんざ、アンタ人生の半分は損してるぜ」
「……照れ隠し」
「んだとう、表出るかフィスト!」
「ここは表だ」
「あっはっは。――怪我人の近くで騒ぐんじゃないよ馬鹿二人」
「すみません」
 揃って夕観に頭を下げる男二人。急いでいるようだが、緊張感はまるでない。
 他はどうか知らないが、古賀里夕観は『夢』で見る限り、かなり用意周到だったはずだ。梢を倒しに来たのであれば、当然その周囲のことを調べ上げているはず。遥のことを見ても無反応ということは、梢目当てではないということか。
 聞きたい。しかし、迂闊なことを言って警戒されるわけにもいかない。
 それに、遥の容態も心配だ。大丈夫と言ってはいるが、きちんと医者に見せるまで安心はできない。
「んじゃ、緋河。二人は頼んだよ。困ったことがあったらいつでも連絡しな」
「ああ。縁があったら、また会おう」
 引ったくり犯を電柱に縛り付けて、草薙樵、古賀里夕観、フィストの三人は去っていった。結局、なぜこの町に来たのかは分からないままだ。
 困惑と不安をぬぐい切れぬまま、三人の背を眺めていると、天夜に肩を叩かれた。
「悪い、案内頼めるか」
「あ――うん」
 そうだ。
 気になることだらけだが――今は遥を連れて帰らないと。
 逸る気持ちを抑えながら、郁奈は榊原家に向かった。