異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
倉凪梢と榊原遥の章「榊原遥と泉の里(前編)」
 意識が急降下していく。
 ビルから飛び降りたらこんな感じだろうか――と思うような落ちっぷり。
 そして、何かにぶつかるような感覚。
「おう、目が覚めたか」
「……?」
 それは、今まで感じたことのない覚醒への過程だった。
「あれ、お義父さん?」
 目の前には稽古着の義父がいた。感情の読みにくい顔でこちらを見下ろしている。
 背中全体が冷たい。どうやら自分は道場で倒れているらしい。
「あれ、えっと」
「大丈夫か? 頭でも打ったか?」
「いや――うん、大丈夫」
 少し落ち着くと、すぐに状況は理解できた。
 日課となっていた義父との組み手。その最中、きつめの一撃をもらったのだ。首元の痛みがその証拠である。
「私、どれくらい気を失ってた?」
「カウントしてない。五秒もかかってないと思うが」
「そう?」
 なんだか随分気の遠くなるような夢を見ていた気がする。
 内容はまったく思い出せないのだが。
「で、起き上がれそうか」
「ちょっと無理かな。力が全然入んない」
「分かった。それなら今日はこれまでだ」
 そう言い残して、義父は悠々と道場を出ていく。あのタフさ加減を少しお裾分けして欲しい。一時間近く組み手を続けて息一つ上がっていないのは驚嘆に値する。
 遥が義父・榊原幻に弟子入りしたのはもう二年近く前のことだ。強くなりたいというシンプルな志願理由に対し、義父は当初護身術だけなら良いと許可を出した。
 しかしこちらの熱意が生半可なものでないと分かると、本格的な修業をさせるようになった。義父の流派は天我不敗流というマイナーなものだが、起源は戦国時代と古く、実践的な技術がこれでもかと盛り込まれている。それだけに修業はかなりきつい。
 だが、遥は落伍することなく二年間耐え抜いた。その甲斐あってか、今では『武術の技量に関してだけなら梢より上』という言葉まで貰った。もっとも義父は、梢を『喧嘩は強いが武術家としては二流』と評していたのだが。
「あー……ふぅ」
 深呼吸をしながら、全身の魔力泉を活性化させていく。魔力泉が作りだす魔力が、身体からゆらりと湧き上がった。
 動けなくなるまで特訓した後、こうして魔力の扱い方の練習をするのが習慣になっていた。魔術に関しては、幸町孝也や、彼を通して知り合った飛鳥井冷夏に基礎を学んでいる。あとは独学だ。
 遥の持つ『リンク』の力は、原理こそ不明だが魔術式によって制御されているため、魔術に分類されるものらしい。以前はその式も、燃料となる魔力も、あまりきちんと意識せずに使っていた。だが、きちんと制御しておいた方が良いと忠告を受けたので、こうして魔術の練習もするようになったのだ。
 魔術師としての適性は、属性と系統によって決まるらしい。
 属性は火や水、雷等様々な種類がある。これは血筋によって先天的に決定づけられるらしい。遥や涼子は泉家の流れを汲む関係からか、得意とする属性は水だった。
 魔術系統の方は、強化・練成・操作・結界・精神・変質に分けられる。魔力を使って何をするのが得意か、という分類だ。これは個人の資質に依るところが大きい。属性と違い、系統は努力によるところが大きい。無論、才能の有無がないわけではない。
 遥の『リンク』の力は、精神と変質の系統を併せた技術だろう、と冷夏は判断していた。非常に複雑な術式が編まれているので、彼女も全容は把握できなかったようだが。
 遥がそれを無意識に使えるのは、彼女の内部に必要な術式が埋め込まれているから、とのことだった。おそらく埋め込んだのは十中八九、実父である式泉運命だろう。
 湧き上がった魔力が、実父の遺した術式に吸い寄せられていく。遥はその流れを慎重に測りながら、自分自身を対象に『リンク』の力を発動する。
 自分自身を対象とするのは、この力を誰かに向けて使うことに抵抗があるのと、自分自身の深層心理を第三者的視点で見れるというメリットがあるからだ。普通の人間は、通常自分のことを主観で捉える。しかし『リンク』の力を通せば、自分自身を他人のように見つめなおすことができるのだった。
 家族や友人と喧嘩したときなど、この方法で自分を見つめなおすと、死ぬほど恥ずかしくなることもある。客観的に見る自分は、どうにも子供っぽくて我儘だ。
 だが、この日見えたのは自分の姿ではなかった。
 ……あれ?
 遠方に広がるのは数多の山脈。あちこちに見えるのは水田。秋風市の郊外にはよくある光景だが、どことなく違和感がある。
 電線がほとんどない。たまに見える家屋は茅葺き屋根だ。見たことのないような形の古ぼけたポストがある。
『ゆっくり急げよ一郎兵衛。あと三十分もしないうちに、雨が降るぞ』
 知らない声が聞こえた。それに対し『ンモォ~』と不服そうな牛の鳴き声。
 ……なんだろう、これ。
 秋風市ではない。
 この風景に見覚えはない。
 だが、知っているような気がする。
 どこかで。
 どこかで見たような。
『――様ぁ~』
 遠くから誰かが呼んでいる。
 その名前は。
 呼ばれているのは。
『さ、運命様ぁ~』
 そこで、意識は急降下した。
 見えるのは、見慣れた道場の天井。
 ここは、間違いなく榊原家だ。
「……今のは」
 運命。そんな変わった名前の人間、そうはいないだろう。
 だが、どういうことだろう。今のは式泉運命の記憶か何かだろうか。
 なぜそんなものを自分が見ることになったのか。
 ただの妄想で片付けるには、今の体験はリアル過ぎた。
「どうした遥、まだ伸びてるのか?」
 なかなか道場から出て来ない自分を心配してくれたのだろう。甚兵衛姿になった義父が戻って来た。
「ねえお義父さん。……お義父さんは、私の父さんのこと知ってる?」
「直接会ったことはない。ただ、お前の戸籍関係の手続きをしたとき、基本的な情報は調べた」
「そうなんだ。……住所とかは?」
「分かる。△△県××市○○町――だったかな。番地まではさすがに覚えてないが」
 市町村までは分からないが、県は隣だった。
「なんだ。行ってみたいのか、親御さんのいたところに」
「え? ああ、うん」
 行ってみたい――これまでそう思ったことはなかった。実父のいた『泉の里』は壊滅したと聞いている。今どんな状況かは知らないが、行ったところで何があるわけでもないだろう。
 そう思っていたはずなのに、行きたいのかと言われた途端、行きたいような気がしてきた。なぜそう思うようになったのかは、自分でもよく分からない。
 義父は少し考える素振りを見せていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。ただ、そこは魔術師の里だった場所だ。何が起こるか分からん。一人では行くな。最低でも梢・零次・亨の誰かは連れて行け」
 三人は揃って超人的な身体能力を持つ異法人だ。荒事なら頼りになる。
「うん。分かった」
「本当は俺もついて行きたいところだが、遠征できるほどの時間がない。頼むからくれぐれも無茶はしてくれるなよ」
「大丈夫だよ。私だってこの二年でそれなりに成長したんだから」
 過信しているわけではない。ただ、ある程度鍛えたことで、できることとできないことの判断は誤らなくなった。
「確かにお前の成長は認めるが、それとこれとは別だ。男親に娘の心配をするなという方が無理がある」
 言って、義父は照れ臭そうにそそくさと去って行った。厳めしい面構えのせいで分かりにくいが、あれで自分や美緒には結構甘いのだ。

「なんか、悪いな。運転任せきりで」
「別にいいよ。運転楽しいしね」
 運転席の遥は言葉通り楽しげな表情を浮かべている。助手席の梢は、後部座席を見て苦笑いを浮かべた。
 そこでは郁奈と美緒が携帯ゲーム機を凝視していた。素早い動きでボタンをカタカタと動かしている。何をやっているかは分からないが、対戦状況は二人の表情から察することができる。というか郁奈が美緒に勝っているのを見たことがない。
 サイドミラーに目をやると、後続車の姿が見えた。あちらは涼子が運転している。乗り込んでいるのは零次と亨、そして緋河天夜だ。
「しかし思った以上に大所帯になったな……。宿の予約とか全然してねーけど、大丈夫なのかね」
「多分日帰りできるよ。いざとなればカラオケボックス借りればいいんじゃない?」
「いや……郁奈もいるし。泊まりならちゃんと宿取らないと」
 まさか小学生にカラオケボックスで一晩過ごせというわけにもいくまい。
「けど、秋風市と比べても田舎だよな」
 今は山道を走っているが、全然車にすれ違わない。見えてくるのは土壁と眼下の森林ばかりだ。
「何か秘境って感じだな。お、もうそろそろじゃないか?」
 カーナビを見る限り、『泉の里』まで残り三キロメートルといったところだ。
 と、そこで遥は表情をこわばらせ、ブレーキを踏んだ。
「どうした?」
「見えにくいけど、何か結界みたいなのがある」
「ホントだ。でも遥、よく気付いたわね。私、言われなかったら気付かなかったわ」
 後部座席の郁奈が感心したように言う。梢も目に意識を集中させて確認した。確かに薄ぼんやりと何か壁のようなものがある。あれが結界か。
 梢も異法人として生きてきたので、多少は魔術や結界といったことを耳にしたことがあるし、それが実在することも知っている。ただ知識は素人に毛が生えた程度だ。
 車の外に出て、実際に結界の前に立ってみるが、やはりよく分からない。
 後ろの車から涼子たちも降りてきた。全員で結界の前に並ぶ形になる。
「なんだろうな。あんま悪い感じはしないけど」
 梢は傍らに立った零次に視線を向ける。
 零次は梢と同じ異法人だが、異法隊という組織に属していたことがある分、この手のものに関する知識があるのではないかと思ったのだ。
 切れ長の双眸を細めて結界を見た零次は、溜息をついて頭を振った。
「俺も門外漢だから結界についてはよく分からん。……そう禍々しいものではなさそうだが」
「無理して見ようとしなくてもいいよ、梢。お兄ちゃんも」
 郁奈がどことなく訳知り顔で言う。実際、魔術に関してはこの子供が一番詳しいのかもしれない。なにせ日本の魔術の家元・飛鳥井家の屋敷で起居しているのだ。
 ちなみに彼女はなぜか自分を呼び捨てにするのに零次のことは兄と呼ぶ。その都度零次は微妙な表情を浮かべるのだが、何かあるのだろうか。
「で、郁奈先生は何か分かるのか?」
「分かんない」
「おい。そりゃねーだろ」
「結界って言うのは、基本的な部分は万人共通なんですけど、大抵は術者がアレンジするものらしいんですよ」
 と、ここで涼子が横から会話に入って来た。遥の妹である彼女も、魔術の基礎を姉と同様飛鳥井冷夏に学んだらしい。技術的には遥に劣るそうだが、魔術理論の理解度は段違いで彼女の方が上だそうだ。遥は直感的過ぎる、とは冷夏の弁である。
 昔から涼子の頭は高性能なコンピュータのようだった。頭でものを覚えることについて、彼女に勝る人間はそうそういまい。
「つまり結界の技術を理解してても、張った本人じゃなきゃ、どういうものかよく分からないってことか」
「実際はそう好き勝手できるものでもないんで、張った魔術師の癖とか理解してればある程度は読み取れる……そうです。私はそういう域には程遠いのでよく分かりませんけど」
「私、冷の結界ならだいたい分かるんだけどね」
 どことなく自慢気に郁奈が言う。
「遥はどうだ?」
「うーん。私、複雑なのはちょっと」
「いっそのことヴィリで壊しちゃいましょうか」
 涼子がポケットから小型の赤い銃を取り出した。榊原家にあった魔術道具の一種で、魔力や魔力で構成されたものを焼き払う固有能力を持つ魔銃だ。戦闘能力がない涼子に対して、榊原が護身用にと渡したのである。
「それなら俺のヘイムダル・グリーンでもありだな」
 梢は右腕を掲げてみせる。この右腕は二年前に失われた本物の腕に替わる義手で、幸町孝也が用意したものだ。ヘイムダル・グリーンはその義手に仕掛けられた能力で、ヴィリと同様の効果を持つ。
「駄目だよ。勝手に壊したら困る人がいるかもしれないじゃない」
 遥に突っ込まれた。
「他人の家に勝手に入ろうとして、扉ぶっ壊すようなもんですよね」
 と、同行していた緋河天夜からも辛辣な意見。
「いやだなー、冗談だよ二人とも。ね、先輩」
「お、おう。冗談に決まってるだろ」
「……」
 全員から疑いの眼差しで見られた。見ると涼子もぎこちない笑みを浮かべて明後日の方向を見ている。頭いいくせにこの後輩は意外と気が短い。多分こちらと同様、本気でやる気だったのだろう。
「……それより、この結界は通れないのか?」
 言いながら、零次が結界に手を触れようと手を伸ばす。しかし、いくら手を伸ばそうとしても結界まで届かない。
「あれ?」
「意識撹乱型の結界みたい。条件を満たさないと近づくことさえできないようね」
 そういう郁奈は、結界に向かって歩き続けている。しかしいつまで経っても結界まで辿り着かない。そんな不自然な光景が、まったく自然に見えてしまう。
「うーん、これじゃ近づけないわね」
「ここまで来て通行止めか。なんかすっきりしねぇな」
「やっぱ壊した方がいいんじゃ……」
「涼子」
「じょ、冗談だって零次」
 零次の窘めるような視線から逃れるように、涼子が一歩引く――と思ったら勢いよくこけた。
 ――それだけで、彼女は結界の向こう側に行ってしまった。
「あれ?」
「……涼子は、通れるみたいだな」
 こけた涼子に手を差し伸べようとした零次が、嘆息交じりに言う。その手は相変わらず結界まで届かないままだ。
「ひょっとして、遥さんも通れるんじゃないですか?」
 亨が視線を遥に向ける。彼女も同意見だったのか、頷いて結界の方に一歩踏み出していった。そのまま、あっさりと結界の向こう側に行ってしまう。
「遥、大丈夫か?」
「うん。私たちは出入り自由みたい」
 言いながら、またこちらに戻って来る。向こう側に閉じ込められる心配はないということか。
「多分、この結界は部外者の侵入を防ぐ目的で作られたんだろうね」
「私と姉さんは元々この里出身だから結界の効果が出なかったってことね……。全然覚えてないから違和感あるけど」
「けど、どうすんだ? これじゃ二人だけしか中には入れないってことになるぞ」
 遥と涼子の二人だけでは、何かあったときに危ないのではないか。
 しかし、遥は梢の懸念に対し頭を振った。
「私は行ってみたい」
「けど、お前……」
「大丈夫だよ。何かあったらちゃんと助けを呼ぶから」
「……」
 大丈夫だろうか。
 本当に、このまま行かせていいのか。
 不安が募る。だが、無理に引きとめる理由も思いつかない。
 別に、この結界の内側が危険と決まったわけではないのだ。
「……絶対だ。何かあったら呼べよ」
「うん」
 そう言って、遥と涼子は連れ立って結界の中に入っていく。
 すぐに、二人の姿は見えなくなった。結界の内側は霧がかかったようになっていて、よく見えない。
 不安を打ち消すように携帯を見て、梢は焦った。
 携帯が圏外になっている。これでは遥たちに何かあっても連絡が受けられない。
「……」
「おい、倉凪」
 こちらの気配の変化を感じ取ったのだろう。零次が怪訝そうな表情を浮かべている。
「お前、今結界を壊して中に入ろうとしなかったか?」
「携帯が圏外だった。何かあったらヤバイ」
「何かあると決まったわけではないだろう」
「そりゃそうだが……ここは魔術師の里だったんだろ。何があるか分からない」
「そう思うなら、結界を壊すのはやめといた方がいいよ」
 と、郁奈がいつになく低めの声で忠告してくる。
「魔術師の中には、結界が破壊されたときのために罠を仕掛ける人もいるの。梢が結界を壊すことで、中の二人に危険が及ぶ可能性もあるわ」
 郁奈にそう言われては、強行突破案は却下するしかない。しかし、このままここで二人を待っているというのも落ち着かなかった。
「俺、ちょっとこの辺り見てくる」
「なら俺も付き合おう」
 意外にも、天夜が同行を申し出てきた。
「梢さん一人じゃ、何か無茶をしそうな気がするんでな。付き合いは短いけど、なんとなくそんな予感がする」
 天夜とは二年前に知り合った。それから何度か厄介なヤマを一緒に乗り越えた仲だ。確かに付き合いは短いが、浅い仲ではない。
「なら私も行く。美緒とゲームばっかしててもつまんないもの」
「む。くなっち、そういう台詞は私にちゃんと勝ってから言わないと三下っぽいぞ。あ痛っ、脛蹴りよったこいつ!」
「……とにかく、私も一緒に行く」
 足を抱えて飛び跳ねる美緒を尻目に、郁奈は梢の背中に飛び乗って来た。どことなく猫っぽい。
「悪いけど久坂たちはここにいてくれないか。あいつらが戻って来たとき、誰もいないと困るし」
「分かった。緋河、倉凪が馬鹿をやらんよう見張っててくれ」
「任された」
「おい、どんだけ信用ないんだ俺」
 梢は顔をしかめて、辺り一帯を見渡した。
 薄暗い山間の道。人間の住む世界と仙界の境目のような雰囲気だ。
 実は、ここに来てから妙に胸騒ぎがしている。落ち着かないのもそのせいだ。
 始めてくるはずの場所なのに、ここは何かイヤな感じがする。不気味なのではない。危険な気配があるわけでもない。ただ『イヤ』なのだ。
「……まあいいや。行こうぜ、とりあえず結界のまわりを一周してみる」
 何かを振り払うかのように、梢は足早に歩き出した。

 結界に足を踏み入れて少し歩くと、急に霧が視界を覆い尽くした。
 涼子と二人、手をつないで注意深く足を進めていく。つないだ手はこわばっていた。こういう場所に足を踏み入れるのは、遥も涼子もはじめてだ。緊張して当然だろう。
「大丈夫? 引き返そうか」
「いい。べ、別に平気よ。そもそもここは私たちの故郷なわけだし」
「馴染みはまったくないけどね」
 涼子が生まれて間もない頃、泉の里は何かしらの原因で滅び去ったらしい。これは二年前、遥が梢や涼子に救われた頃に聞かされていた話だ。
 滅びを前に遥と涼子はそれぞれ里から大人たちに連れられて脱出した。その後涼子は彼女を連れだした冬塚夫妻の娘として育てられ、遥はとある研究機関に拉致され道具としての日々を送ることになった。
 二人とも、この里で過ごした記憶はない。
 あったとしても、今から行くのは滅び去った里だ。人っ子一人いないはずである。
 こうして歩みを進めながらも、遥は未だにここへ来ようとした明確な理由が分からずにいる。ただなんとなく『行かなければ』と思っただけだ。
 霧中を歩いたのは、そう長い時間ではなかった。すぐに視界は晴れて、田園風景が目の前に広がる。
 道場で見たのと同じ光景だ。ここが泉の里なのだと、改めて実感する。
「姉さん、あれ」
 涼子が微かに見える家屋を指差した。遠目から見るとただの一軒家に見えるが、よく目を凝らしてみると、窓ガラスが割れており、壁には亀裂が走っている。
 近づくにつれて、それが廃屋であるということが分かった。家には住んでいる人間の生活の匂いが染みついている。しかし、この家にはそれがない。
 表札には長泉と書かれている。自分たちの実家ではないらしい。
「本当に……滅びてるんだね」
 涼子の表情が少し暗くなっていた。おそらく自分も似たようなことになっているのだろう。
 話には聞いていたが、こうして訪れてみると、自分たちの故郷が滅びているということを改めて実感する。馴染みがない故郷とは言え、愉快なものではない。
 そのとき――ひやりと背中に冷たいものが触れたような気がした。
「あんたたち、何者だね」
 背後から、老婆の声。
 慌てて振り返ろうとするが、金縛りにあったかのように身体が動かない。
「動けないよ。それより、質問に答えな」
 視線だけを動かして隣の様子を見る。涼子も同じように動けなくなっているようだ。どういう方法かは知らないが、今主導権は向こうにあるらしい。
 迷った末に、遥は正直に応えることにした。
「私は榊原遥。隣にいるのは妹の涼子です」
「……遥に涼子」
「はい。この里に私たちの父が暮らしていたと聞いて、一度訪れてみようと思って」
「……」
 老婆は答えない。
 ただ、背後で何かをしたような気配はあった。
 どうにかして袖の中に隠しているヴェーを取りだせないか。そう思っていると、途端に身体が自由になった。
 振り返り、ヴェーを手にしようとして――遥は動きを止めた。今度は自主的に。
 そこにいたのは、老婆ではなく十四か十五くらいの少女だった。
 しかし、彼女が発する威圧感は見た目とは程遠いものだった。刃向かえばやられる。それほどの力を目の前の少女から感じる。
「うむ。金縛りを解いたあとの動き、私の気を感じて動きを止めた判断。なかなか素質はありそうだわね、二人とも」
 少女の発する声は、先程聞いたのと同じものだった。見た目とのギャップが激しい。
 ただ、幾分か雰囲気は柔らかくなっている。気付けば威圧感も消えていた。汗がどっと出てくる。
「安心しなさいな。取って食ったりはしないわよ」
「……あの。あなたは?」
「私は常盤。友人に頼まれてここの留守番をしている――魔法使いの婆さね」
 そう言って、少女にしか見えない自称婆はにやりと笑った。