異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
倉凪梢と榊原遥の章「倉凪梢とその家族」
 遥の部屋からは、人の気配がしなかった。
 何度か扉を叩いてから、梢は諦めてその場を立ち去った。
 エレベータでロビーまで降りる。この時間帯だと人はそんなにいない。
 一人、知った顔がいた。亨だ。
 向こうもこちらに気付いたようで、にこやかに手をあげながら近づいてくる。
「お出かけですか?」
「ああ、いや……遥を見なかったか?」
「遥さんなら今日は別の町で外泊されるそうですよ」
「別の……。場所は?」
「えっと、そこまでは。遥さんに御用なんですか?」
「ああ、さっき電話してみたんだが繋がらなくてな」
 うーん、と首を傾げて、亨は携帯を取り出した。遥にかけようとしたようだが、やはり繋がらないらしく頭を振る。
「どうしたんでしょうね。何かトラブルに巻き込まれたのかな……」
「まさか。あいつのことだ、どっかに携帯置き忘れたとか、そんな理由だろ」
「だといいんですけど」
「大丈夫だ、心配すんなって」
 根拠のない自信。それは疑念を払うためのものだ。
 遥が危険に巻き込まれている。そんなことは、考えたくない。
 場所も分からない以上、探しようがない。梢はそのまま踵を返して、部屋に戻った。
 ベッドの上に寝転がってみる。ひどく落ち着かない気分だ。
 試しに携帯を鳴らしてみる。
 何度鳴らしても、繋がる様子はない。
 気分転換にと思い、テレビをつけてみた。
 午後九時のニュースが流れている。画面の中では、ニュースキャスターが深刻そうな顔で何かを言っていた。
『先程○×町で発生した事故については不明な点が多く、周囲は依然緊張に包まれています。現場は警察が調査中ですが――』
 キャスターの背景には、半ば倒壊したビルが映されている。
 ここからさほど遠くない町だ。
 ……まさか。
 嫌な予感がした。
 何の根拠もない直感だが、この事件と連絡のつかない遥が重なって見えた。
 ホテルの窓から飛び出した梢は、まっすぐ問題の場所へと向かった。
 不思議と道には迷わなかった。何かに導かれるかのように、あっさりと着いた。
 事件現場の周囲はまだ騒然としていた。人々の熱気が鬱陶しい。
「マジかよそれ」
「本当だって。上の階から天上突き破って人が落ちてきて、そのあと更にもう一人降ってきてさ」
「そんな人間いねーよ」
「嘘じゃねえよ! 他の先輩たちだって見てたんだから!」
 そんなやり取りを耳に入れて、梢の動悸は激しさを増した。
 気配を殺して、そっと警察の死角から現場内部に入る。
 ビルの内部はぼろぼろになっていた。少数の捜査官が怖々と調査をしているようだ。
 だが、そんなことより重要なものがあった。
 ……臭い。
 濃厚な魔力の匂いがする。それも、荒々しい魔力だ。暴力的な目的で使われた魔力の残滓だろう。
 ここで何か――戦闘の類が行われたのは間違いない。
 気配を遮断しつつ、慎重に周囲を探る。
 一階から順にすべての階を調べても、特に気になるものは出て来なかった。
 ただ、それで嫌な予感が払拭されたわけではない。暴力的な魔力の残滓は、そのままビルの外へと続いている。
 後を追うにつれて、魔力の臭いは濃くなっていった。
 ……まるで、ザッハークのときのような。
 二年前に相対した最凶の異法人を思い返して、梢は頭を振った。あんな奴に遥が襲われていたら無事では済まないだろう。
 やがて、複数の運動場を内包した大きな公園に着いた。
 もう夜も遅く、周囲に人の気配はしない。
 微かな電柱の明りを目印に、梢は辺りを探った。魔力の気配が一気に濃密になっている。その魔力の持ち主はもうこの場にいないようだが、それでもなおぞっとする程のものだ。
「……ん?」
 少し先にあるベンチの近くに、何かが落ちていた。ゴミではないように見える。
 近づいてみると、それは壊れた携帯電話だった。強い衝撃を受けたのだろう。あちこちに亀裂が走っている。
 その携帯につけられていたストラップを見て、嫌な予感は確信に変わった。
 金属のプレートに『HARUKA』と彫られたストラップ。これは去年の文化祭で涼子が遥にプレゼントしたものだ。遥はいつもこれを携帯につけていた。涼子手製のストラップだから、同じものはない。
 遥がここにいたことは間違いない。
「遥!」
 梢は辺りに呼びかけてみた。しかし反応はない。どこかで鳥の鳴き声が聞こえただけだ。誰かがいる気配が感じられない。
「遥! いないのか、返事してくれ!」
 辺りを駆けながら声を張り上げる。
 不意に、ぴちゃりと何かが跳ねる音が聞こえた。
 足元を見ると、小さな水溜りがあった。
 否、それは水ではない。暗いせいで分かりにくいが、それは血だった。
「……っ」
 注意深く周囲に視線を走らせる。他にも血溜りがいくつかあることが分かった。
「遥っ、いないのか! いるなら返事しろ! おいっ!」
 焦燥感に駆りたてられ、冷静に物事を考えられなくなっていく。その自覚がありながら、うまく自分を抑えることができない。
 そのとき、微かに何かの気配がした。
「遥か!?」
 公園の端にある並木林。
 そこに倒れていたのは、一人の少年だった。
「おい、大丈夫か?」
 駆け寄って少年を抱え上げる。顔色は悪いが、怪我などはしていないようだった。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か、おい!」
「……ううん」
 微かに身動ぎしてから、少年はそっと目を明けた。
「あ、あなたは……?」
「俺は倉凪梢。お前は? ここで何があった?」
「僕は……大伴百夜と言います。お兄さんは、ええと」
「ここで何かがあったのは間違いないんだろ? 尋常じゃない魔力が残ってる」
「……」
 百夜と名乗った少年は、すっと鋭い目つきで梢を見た。
「魔力が見える――ということは一般人ではないのですね?」
「ああ、俺は異法人ってやつだ。特にどっかに所属とかはしてねぇ。ただ身内を探してるんだ。ここに来てたんだよ」
「……成程。どこにも属してないなら、話しましょう」
 百夜はゆっくりと上半身を起こした。苦しそうに顔を歪めている。外傷はないが、骨や内臓を痛めているのかもしれない。
「僕は退魔士です。魔を討つことを生業としています。ここには草薙樵を追ってやって来ました」
「草薙……?」
 それは、つい最近聞いた名だ。
 土門荒野の宿主。梢の父・司郎によって救われた少年の名だ。
「彼は暴走しているようでした。そして、誰かを追っているようでした。僕はその痕跡を追って、ここで奴に追いついたんですが――恥ずかしながら、返り討ちにあったという次第です。今回は傷が浅くて助かりましたけど」
「草薙が追ってた奴ってのは見たか? それがウチの身内なんだ」
「いえ、見ていません。ただ、僕が追い付く寸前に凄まじい力を感じました。そして、僕が追い付いたとき、奴は全身血塗れになっていました。奴が怪我をしているような感じではなかったので、おそらくあれは返り血ではないかと思います」
「……」
 梢の全身から、力が抜けた。
 眼前の少年のことすら見えなくなった。
 自分の内側から何かが溢れ出して、身体を無理矢理衝き動かす。
「遥! いないのか、遥っ!」
 辺り一帯を駆けまわる。鼠一匹見逃すまいと、神経を尖らせて足を動かした。
 やがて、それを見つけた。
 公園内にいくつかある運動場。その端に、不自然なクレーターが出来ていた。
 こんなクレーターを作るような力を正面から受ければ、人間など肉片も残らないだろう。塵芥となって消えてしまう。
「……嘘だろ」
 膝から力が抜け落ちた。
「嘘だろ、遥」
 自分でも信じがたいほどの叫びが、喉から放たれた。

 まだこの国が草深かった頃。
 傍らには大きな人がいて、一緒に大切な誰かを探し求めていた。
 ときどき醜いモノと出会うこともあった。見た目は自分たちとそう変わらないのに、それが醜悪なものに見えた。
 彼らは悪鬼だ。傍らにいる人はそう教えてくれた。
 出会う度に逃げた。もう二度と会いたくないと願った。けれど、何度も何度も醜いモノは現れる。
 会いたい人には会えず、会いたくないモノにばかり出会う旅路。
 自分も傍らにいる人も、少しずつ疲弊していった。
 希望を、失いそうになっていった。

 何をすればいいのか、分からなくなった。
 紛い物は紛い物らしく、皆に迷惑をかける前に消えてしまおう。そう思っていた。
 しかし事態は既に動いていて、守るべき相手を失ってしまった。
 こういうことは、前にもあった。大事な親友を殺された。二年前のことだ。
 それでも、あのときはやるべきことがあった。だから前に進むことができた。
 今は違う。自分は紛い物で、自分のやってきたことは無意味で、そして無力であることを改めて思い知らされた。
 どこに向かって進めばいいのか、分からない。
 あてもなくさまよった。飯を食い、宿を取り、眠る。起きて、また歩き出す。
 土門荒野の記憶を見ることも多くなった。ときどき自分が何なのか、本当に分からなくなってしまうことがある。徐々に戻りつつあるのかもしれない。
 このまま朽ち果ててもいいか。そんな風に思いながら、今日も足を動かす。
 頬に冷たいものがあたった。見上げると、灰色の空から白いものが降ってきていた。秋が終わり、冬が訪れようとしている。
 脳裏に浮かぶのは、遥と草薙樵のことだ。
 実は遥はどこかで生きているんじゃないか。そんな希望を捨て切れず、あてもなく探し回っている。しかし日が経つにつれて、その希望は薄れていった。
 逆に考えることが多くなったのは、草薙樵のことだ。
 状況から見て、彼が遥を襲ったのは間違いない。例えそこに本人の意思がなくとも、放っておくことはできない。
 許すことは、できない。
 その一念が、かろうじて自分を倉凪梢の側に留めている。
 どこかの駅前の噴水広場で、梢は腰を下ろしていた。周囲は平和そのものだ。それが無性に腹立たしい。
 そのとき、携帯が鳴った。相手は美緒だ。
 あの晩から何度も電話はかかってきていた。しかし出る気がしなかった。誰とも話したくない。そんな気分だった。
 ただ、雪の冷たさが梢の考え方を僅かに変えた。
 梢は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『――っ』
 電話の向こう側で、息を呑む気配がした。
『お、お兄ちゃん……だよね?』
「ああ」
『大丈夫? あれから全然連絡つかないし……心配したんだよ』
「ああ」
『あれからお義姉ちゃんとも連絡つかないし、何かあったんじゃないかって心配で』
「遥は、戻ってないのか」
 微かな期待を込めて尋ねてみる。
『……ううん。ごめん、私も亨と一緒に探してみてるんだけど』
「そうか」
 戻っていない。それならもう、駄目ということだろう。
「美緒」
『な、なに?』
 不安を隠そうとしない妹の声。それを聞いて、昔のことを思い出す。
 両親が亡くなってから、二人は親戚の間をたらい回しにされていた。
 そこでの生活は悲惨だった。梢の異法人としての異常性が芽生え始めた頃のことで、力の制御もうまくいかなかった。そのせいで親戚からは恐れられ、兄妹は迫害されつつ育った。
 妹だけは守ろう。そう決めた梢は常に彼女を庇い続けてきた。身体の傷跡は増えていったが、それでも良かった。妹が無事であるという、その一事が救いだった。
 だから、余計なことに巻き込む前に切り出す。
「俺はもう戻らないと思う。元気でやってくれ」
『――え?』
「遥はさ。多分草薙樵にやられちまったんだ。俺も散々探したけど、そうとしか思えないんだよ。で、俺もなんか駄目駄目でな。なんかもう、自分が自分でよく分からなくなっちまった。こんなありさまじゃ、いつ化けの皮が剥がれるか分からない」
『……それって、土門荒野の話?』
「ああ。元々俺なんか紛い物なんだよ。本物の倉凪梢は、土門荒野を移植されたとき、とっくに意識を喰われて消えちまってたんだ。ここにいる俺は、倉凪梢の紛い物なんだよ。倉凪梢の振りした土門荒野だったんだ。それでも俺がしっかりしてりゃ大丈夫だって常盤さんは言ってたけどよ。どうも駄目みたいだ」
 言葉が次々と出てくる。自分の中にある不安が噴出するかのように。
 近頃は、倉凪梢として過ごしてきた人生が、薄っぺらの幻のように思えてならない。逆に、土門荒野の記憶の方にリアルを感じてしまう。
 もう引き返せないところに、自分は来ている。
「だからよ。俺は草薙を探してケリを着ける。それから、自分のことに始末をつける。もう、それぐらいしかできることがない」
『……そんな』
「悪いな。今までお前ら皆を騙してたってことになる。せめて、これ以上は迷惑かけないようにするから。……じゃあな」
『あっ、待って――!』
 美緒の言葉を無視して、梢は電話を切った。そのまま電源も落とす。
 あとは草薙を見つけて、終わらせるだけだ。
 紛い物の倉凪梢を、終わらせよう。

 白くて冷たいものが、辺り一面を覆い尽くした。
 傍らにいる人が、それは雪だと教えてくれた。
 雪は絶え間なく降り続け、何もかもを隠してしまう。視界は真っ白、足は棒のようになって動かない。
 疲れきっていた自分たちは、そこからもう一歩も動けなくなっていた。
 何のために歩いてきたのか、振り返った。
 そして、諦めそうになった。
 探し求める人はもういない。どれだけ歩いても見つからない。
 もう十分頑張った。これ以上探しても仕方がない。
 このまま何もせず、雪の中に埋もれて真っ白になってしまえばいい。
 心から、そう願った。

 勘だけを頼りに歩き続ける。
 自分の正体が土門荒野なら、その半身を宿している草薙樵の居場所もなんとなく分かるはずだ、と考えていた。
 少しずつだが、近づいてきているような気がする。
 錯覚かもしれない。それならそれでいい。
 ただの間抜けとして終わってしまうのも、それはそれで仕方ない。
 通り過ぎ行く人々の顔が、そして周囲の風景さえもがぼやけて見えた。
 その中に一人だけ、やけに顔立ちがはっきり見える男がいた。
 亨だった。
 ……とうとう幻が見えるようになったか?
 彼は万一のときに備えて、美緒や榊原の側にいるはずだった。こんなところにいるわけがない。
 錯覚だ。そう思って、男の側を通り過ぎようとした。
 ガツンと、思い切り殴られた。
 全身に力が入らない。殴られた勢いで、無様に尻もちをついた。
「アンタは……アンタは何やってるんだよ!」
 怒っている。亨の怒っている声が聞こえる。
「様子がおかしいから、皆心配してたんだ! そしたらいきなりいなくなって、連絡もつかなくなって! 遥さんもまだ無事が分からないし、零次や冬塚さんも大変なことになって、でも、でも!」
 胸倉を掴まれ、身体を持ちあげられる。息苦しいが、抵抗する気力はなかった。
「アンタ、倉凪に電話で何言いやがった!」
 倉凪。自分のことではない。美緒のことだ。
「あいつ、アンタに電話が繋がった瞬間、本当に嬉しそうだったんだ! 皆が大変なことになってるなか、行方知れずになったアンタの身を案じてたんだ! でもなぁ!」
 亨は本気で怒っていた。こんな風に怒る彼を、初めて見た。
「アンタとの電話が終わってから、あいつ茫然としてた。僕や榊原さんが何言っても反応しなくて。それから――泣いたんだ」
 泣いたのか。
 困った。幼い頃のことがあるから、美緒に泣かれるのは凄く困る。
「あいつ、泣きながら『なんとなしなくちゃ』ってアンタに電話かけようとしたんだ。けど繋がらない。どうしようどうしようって、ずっと泣きながら言うんだ。見てられなかった、あんなの」
 そう言う亨も泣いていた。泣きながら、思い切りこちらの身体を投げ飛ばした。
「それから、ようやく一通り話を聞いたよ。あんたが大変なことになってること。あんたが本当の倉凪梢じゃないってこと」
「……そうだ。だから放っておいてくれ」
「ふざけんな!」
 もう一度、今度は脳天を殴られた。
 キツイ。頭が痛い。割れるようだ。
「アンタはいつもそうだ。自分が正しいって決めたことに一直線で、そんなアンタに僕らは助けられてきた。けど、気に入らないことがある」
「なんだよ」
「アンタはいつだって、一方的なんだ」
 亨は俯いた。その拳からは、血が滴り落ちている。こちらを殴ったとき、勢いあまって傷つけたのだろう。
「なんで、こっちの話を聞いてくれない。なんで、こっちを頼ってくれない。何でも勝手に決めるなよ!」
「これは俺の問題だ。どう決めようと俺の勝手だろうが」
「僕たち皆の問題だ! 僕らのことを無視して勝手をするな!」
 ずきりと頭が痛む。殴られたせいだろうか。
 さっきまでより、視界がはっきりしてきた。殴られたせいだろうか。
「僕らはせいぜい二年ちょいの付き合いだった。血の繋がりも、戸籍上の繋がりすらない。でも、僕は皆を家族のように思ってたんだ。家族っていうのは助け合うものだって思ってた。それは僕だけだったのかよ!」
「それはお前の考えだ。俺に押しつけるんじゃねぇ」
 ゆっくりと立ちあがり、息を吐く。
「家族だからって、いついかなるときも助け合うなんて法律はねぇよ。ときには喧嘩もするし、意見が食い違うことだってある」
「……だから無視するんですか。自分の考えだけを一方的に押しつけて」
「……」
「確かに意見が食い違うことはある。けど、そこで相手の意見を聞かず勝手に話を進めるのは逃げだ。そんなのずるい。……ずるいですよ」
 言って、亨は携帯電話を投げつけてきた。
 反射的に受け取る。既に通話状態になっていた。
「話だけでも、聞いてください」
 有無を言わさぬ迫力に気圧されて、仕方なく携帯を耳に当てる。
『……お兄ちゃん?』
「……」
『聞いてる、よね? 話だけでも、聞いて欲しいんだ』
 梢は何も言わない。自分の言うべきことはすべて言っている。これ以上は何も言う気がしない。
『あのさ。私は……ただの人間で、今お兄ちゃんに起きてることに、何もできないかもしれない。そのことが、本当に悔しいよ』
 謝るなよ。
 謝らなきゃいけないのは、こちらの方だ。
『でも、一つだけ言わせて。私が言いたいだけで、何の役にも立たないかもしれないけど、これだけ伝えたいんだ』
 電話越しでも、美緒が必死なのが伝わってくる。
『お兄ちゃんは、偽物なんかじゃないよ』
 それは。
 必死で、力強い言葉だった。
『お兄ちゃんの言うとおり、本当の倉凪梢がもういなくて、お兄ちゃんが土門荒野だったとしても、それでも私のお兄ちゃんはお兄ちゃんだけだよ』
「違う」
 つい言葉が出た。
 何も言わないつもりだったのに。
『違わないよ。だって、あの怖い親戚の人たちからいつも私を守ってくれたのはお兄ちゃんじゃない』
「それだって。元々俺なんかがいなけりゃ、あそこまで酷い扱いにならなかった。それに、あれは償いなんだよ。昔、土門荒野として散々悪いことやって来た償いなんだ。お前のためにやったわけじゃ……」
『それでも、私は嬉しかった。お兄ちゃんがどういうつもりでも、私は嬉しかったんだよ。まわりの皆が怖くて、そんな中でお兄ちゃんだけは味方でいてくれたから』
 救いだったんだ。
 泣きそうな声で、美緒はそう言った。
『それにさ。私だけじゃないよ。吉崎さんと一緒に馬鹿やってたのだって、お義父さんと一緒に道場で稽古してたのだって、涼子ちゃんと一緒に生徒会やってたのだって、お義姉ちゃんを助けたのだって――全部お兄ちゃんだよ』
「……」
 思い出す。
 今は亡き親友とバイクで駆け抜けたときのことを。
 憧れていた兄貴分と語り合ったときのことを。
 恐ろしくも頼れる師の元で学んだことを。
 妙な面子と生徒会なんてやったことを。
 教室でくだらない会話をしたことを。
 遥と出会ったときのことを。
『お兄ちゃんが自分を偽物だと思っててもさ。皆にとっては本物なんだよ。お兄ちゃんと皆が過ごしてきた時間は本物なんだよ。だから、お願いだから――そこは否定しないで』
 そうだ。
 自分が紛い物であっても、過ごしてきた時間は嘘ではない。
 全部、確かにあったことだ。
 そんな当たり前のことを、今まで忘れていた。
「……なあ、美緒」
『……何?』
「俺、最悪な兄貴だろ」
『……うん。最悪だよ』
 自分の中に芽生えた不安を無理矢理抑えるため、周囲にいろいろなものを押しつけてしまっていた。
 自分を否定することで、まわりの皆すら否定してしまっていた。
 少し、目が覚めたような気がする。
「ったく。それに対して、お前は最高の妹だ」
『……そうかな』
「そうでもねぇと、釣り合いが取れない」
 大きく息を吐いた。
 白い。
 白くて冷たくて――生きている感じがする。
「ごめんなさい」
『……え?』
「謝ったんだよ。悪かった。俺の都合でお前にはいつもいろんなもん押しつけてた」
 亨の言う通りだ。
 今まで、あまりに一方的過ぎた。
「美緒。それに亨」
 梢は改めて二人に向き合った。
「俺は遥の安否を確認するまで帰らない。多分草薙樵なら何か知ってるはずだ。草薙を見つけて話を聞く。場合によってはぶっ飛ばす。……それで、遥を見つけるなり一通りのケリがつくなりしたら、必ず帰る」
『本当?』
「ああ、本当だ。俺の中の土門荒野がどうなるかは分からないけど……まあ、せいぜい呑まれないよう気をつけるさ」
 先程まで、倉凪梢としての自分と土門荒野としての自分の境界は曖昧だった。
 だが、今は違う。今まで倉凪梢として過ごしてきた確かな時間が、両者の間に明確な境界線を引いた。
 このラインが崩れなければ、きっと大丈夫だ。
『今一つ信用ならないなぁ……。お兄ちゃん、いつも突っ走って無茶するし』
「まぁ、そこはな。……けど、黙って勝手に消えるようなことはしねぇよ」
『……うん。分かった、そのことについては信じる』
 全面的には信用されていないということだ。
 まあ、最悪な兄貴だから仕方がない。
『あ、ちょっと待って。お義父さんも替わるって』
「師匠が? そこにいるのか」
『いるぞ、馬鹿弟子』
 榊原の声だ。仏頂面が目に浮かぶ。
『帰って来るのはいいが覚悟しろよ。皆に心配かけた分の罰は受けてもらう』
「……帰りたくなくなるようなこと言わんでくれ」
『自業自得だ。それより、美緒も言ったようにお前はすぐ突っ走るから危なっかしい。亨と一緒に行動するようにしろ』
「え、でも……」
『こっちのことは俺に任せておけ。そのかわり、必ず帰って来い。皆、お前を待っているんだ』
 そう言って、榊原は電話を切った。
 反論の余地なし。
 帰らなかったら、より重い罰が待っていそうだ。
「榊原さんは、なんて?」
「お前と一緒に遥を探せってさ。俺以上に押しつけがましいぜ、あの人」
 思わず笑ってしまう。久々にこぼれ出た笑いだった。
 亨もつられて笑う。
「梢さん、すみませんでした。生意気なこと言って」
「いや、ありがとな。おかげで目が覚めた」
 梢の顔に、僅かながら生気が戻った。
「見つけよう。遥を」