異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
倉凪梢と榊原遥の章「榊原遥と倉凪梢」
 かつて少女は無力だった。
 自分の置かれている状況に対して何も出来ず、ただ流されるままにその痛みを享受し続けた。抗おうとしなかった――というより、抗うことすら知らなかった。
 人間らしい扱いはほとんど受けなかった。せいぜい『遥』という名があるだけ。それは形式的なもので、中身はない。
 人間らしく生きることを覚えたのは倉凪梢と出会ってから。
 痛みを痛みとして感じるようになったのも、抗うことを覚えたのも、すべて彼と出会ってからだった。
 そうして人間に近づいても、力が足りなかった。自分の置かれている状況を変えることができなかった。
 結局、彼女が解放されたのは倉凪梢と七年の時を経て再会してからだった。
 何もできない自分。助けられてばかりの自分。そんな自分が嫌だった。
 自分の対極である倉凪梢に憧れた。
 彼は力を持っている。家族を持っている。友人を持っている。自分にないものを、何でも持ち合わせている。そんな彼を、正直妬ましく思うこともあった。
 その憧れが好意と呼べるものかどうかは分からなかった。彼に感謝しているのは本当のことだし、好きか嫌いかで言えば断然好きだ。
 だが、これが異性に対する想いなのか、恩人に対する想いなのか、自分でも分からなかった。自分と彼では立ち位置が違う。どうしても、多少は恩人として見てしまう。
 だから、彼に追いつこうと決めた。
 彼の隣りに並び立てるようになれば、きっと自分の気持ちの正体も分かる。
 そう信じて、無茶をした。
 無茶をしたのだ。
 単身草薙樵の調査に出向いて、見事に返り討ち。
 何とも情けない結末だ。
 ……あれ。それじゃここはあの世?
 天国か地獄かどちらだろう。天国の方が良いなぁ、などと思いつつ、周囲を見る。
 見えたのは白い天井。そして一人の男。
「お目覚めになられましたか」
「……んむぅ?」
 視界がぼやけて男の顔がよく見えない。目をこすろうと手に力を込めた途端、激痛が走った。
「まだ動いてはいけません」
「……ここは? いえ、あなたは?」
「ここは病院です。通常の病院に診せるのもどうかと思いましたので、一番近い闇医者を手配致しました」
 話を聞いているうちに、視界が少しずつはっきりしてきた。
 男の顔も徐々にくっきりと見えてくる。それは、見覚えのある顔だった。
「……上泉文次郎、さん?」
「はい。今は上泉陰綱と申します」
 スーツ姿の男は、律儀に頭を下げて名乗った。江戸時代の侍が現代に迷い込んで、場違いな格好をしている。そんな印象のある男だった。
 上泉文次郎。常盤が言っていた父の友人の一人だ。
「なぜ、あなたが……?」
「異様な気配を察知して駆けつけたところ、遥様が襲われていましたので、僭越ながら助太刀させていただきました」
「私は、助けられたんですね」
「申し訳ございません。某がもう少し早く駆けつけていれば、お怪我をさせることもなかったのですが」
「いえ。ありがとうございます」
 また助けられたのは自分が不甲斐ないからだ。陰綱が謝る必要はない。
「……あれからどれくらい経ったんですか?」
「およそ二週間といったところです」
「そんなに!?」
 寝起きに冷や水をぶっかけられた気分だ。思わず起き上がろうとして、再び激痛に襲われる。それでも、今度は力を入れて無理矢理身を起こす。
「無理をされては……」
「それどころじゃないんです。やらないといけないことが」
 ベッドから出て、立ち上がる。
 激痛で想うように身体が動かない。遥は一息入れて、魔術式を展開した。
 冷夏から教えてもらったとっておきの術式だ。展開された魔力が身を覆うにつれて、痛みが消えていく。
 治療したのではない。異法人はその特性上、一部の魔術を使えず、また恩恵が得られない。身体強化や自己治癒強化がそういう対象だ。
 だから、これは誤魔化しに過ぎない。
 自分自身の認識に干渉し、痛みを無視するよう働きかけた。
「無茶をされるおつもりですね」
「……今は動ければ十分です」
 陰綱は半ば呆れたような顔をした。
「常盤から話は伺っています。遥様が何をされようとしているかも承知しているつもりです。しかし、そこまで無茶をされるとは思っておりませんでした」
「常盤に会ったんですか?」
「ええ。我々も時折里には戻っておりますので。遥様とは入れ違いになってしまいましたが」
「そうでしたか。なら、こっちの事情は御存知ということですね」
「ええ。だからこそ問いましょう。そこまで――倉凪梢のために無茶をされる理由を」
 答えられないようならここは通さない。そう言っているように取れた。
「確証はありませんが、彼の正体は土門荒野である可能性が極めて高い。その点は御存知ですか」
「……いえ。それは初耳です」
 だが、どこかで懸念していた。赤ん坊の頃に土門荒野を取りこんだ倉凪梢が、果たして本当に無事だったのか。今の彼は、土門荒野なのではないかと。
「けど、私が知る彼は彼だけです。例えその正体が土門荒野であっても、私を救ってくれたのは彼なんです」
「その点は我々も感謝しています。泉家崩壊後、我々はろくな情報収集能力を持たなかった。遥様の境遇や優香様のことなどを知ったのは、二年前なのです。遥様を倉凪という少年が救ったと聞き、某は不思議な因縁を感じました」
 ですが、と陰綱は言葉を切った。
「彼はあなたの恩人であると同時に――親の仇である可能性が高い」
「……彼にその自覚はないと思います」
「そうでしょう。彼の正体が土門荒野であったとしても、彼の人格は倉凪梢として積み上げられてきたもの。それでも、土門荒野だとすれば、彼は運命様を破滅に導いた元凶ということになります」
「それでも、私は彼の力になりたいんです」
「かつて救われたからですか?」
「違います。……少なくとも、恩返しではありません」
 彼に救われたことに対して恩を返すというなら、こんな無茶をするよりも、普通の人間として幸せになる方がいい。少なくとも、彼は今の遥の行動は歓迎しないだろう。
「私は、彼の隣に立って、並んで歩けるようになりたいんです」
 恩人でもなく、憧れの対象でもなく、共に歩む相手として――彼といたい。
「こんな理由じゃ、駄目ですか」
「……」
 陰綱は難しい顔で押し黙っている。
 もし駄目だというなら、無理矢理押し通るしかない。もっとも、それができるかどうかは怪しいところだが。
 だが、陰綱の反応は意外なものだった。苦笑いを浮かべつつ溜息をつくその表情は、遥の答えを是としている。
「少し、昔を思い出しました」
「昔……ですか?」
「ええ。今の遥様は運命様によく似ておられました」
「父さんに……」
「かつて運命様は未了様に恋い焦がれたとき、周囲のほとんどに反対されたのです。ご両親や某も最初は猛反対でした。始祖相手に恋い焦がれるなど、前代未聞でしたので」
 そういえば、母は泉家の始祖という立場だった。母であると同時に、先祖でもある。周囲が反対したというのも無理からぬ話だ。
「そんな我々を、運命様は必死に説き伏せました。そのときのことを、少し思い出してしまったのです。……式泉家は恋に一途ということですかな」
「こ、恋っ……!?」
 自分のこの気持ちが恋かどうかは分からない。
 しかし、改めて第三者に明言されると妙に恥ずかしいものがある。
「某には、倉凪梢に恋い焦がれているようにしか見えませんでしたが」
「あー、ストップ! それは、駄目! 言わないでください!」
「運命様もよくそう仰っておられた」
「上泉さん!」
「失礼。少々戯れが過ぎましたか」
 しれっと真顔に戻る。
 厳めしい面構えのせいで厳格そうに見えるが、実際はそうでもないのかもしれない。遥は陰綱に対する印象を改めることにした。
「本当は、未了様には絶対にあなたをここから出すなと厳命されているのですが……まあ、馬に蹴られるのは御免蒙ります」
「それじゃ……」
「ええ。ただし某も同行致します。遥様は本調子ではない。取り返しのつかないことだけはなさらぬよう」
「はい。ありがとうございます」
 正直、右も左も分からない状況だったので、頼もしい助っ人がついてくれるのは素直にありがたかった。

「偽物――ですか?」
 病院から出て陰綱の車に向かう途中。
 陰綱は、気になることを言い出した。
 先日遥を襲ったのは、草薙樵の偽物である可能性が高い――と。
「泉の里で常盤から話を聞いてから、某は未了様に遥様や涼子様の様子を見張るよう命じられました。無茶をするようなら何としても止めろと」
「そうだったんですか。全然気づきませんでした」
「直接見張っていたわけではありませんので無理からぬことかと。実際に見張っていたのはこれです」
 スーツの内ポケットから、陰綱は二枚の紙片を取り出した。
「魔術道具の一種で、簡単な条件を設定すればこちらに連絡を寄越すものです。遥様と涼子様の周辺の魔力を監視し、不自然なものを検知した場合、某まで通知する仕組みとなっております」
 陰綱の手から離れた紙片は、宙に溶け込むように消えてしまった。気配もまったく感じない。
「これによって、あの日遥様が危機的な状況にあると気付き、駆けつけたのです」
「でも、それが偽物の話とどう結び付くんですか?」
 陰綱は携帯の電源をオンにしながら、車の運転席に乗り込んだ。遥も後部座席の方に入る。
「某は遥様を病院までお連れした後、未了様に連絡を入れました。そのとき未了様は某の報告に疑問を持たれたのです」
「なぜ?」
「まったく同じ時刻、未了様もまた草薙樵を見張っていたからです」
「……」
「未了様が見張っていた草薙樵は、あのとき、友人たちと軽食屋で食事をしていたそうです。遥様が襲われた場所から、およそ五キロは離れた場所で」
 それは確かにおかしい。
 草薙樵が、まったく同じ時間に別々の場所に存在していたということになる。
 普通に考えるなら、どちらかは偽物だろう。
「陰綱さんの見解は?」
「現状では判断材料が少なすぎます。推測する段階でもないという認識です」
「でも、気になりますね。偽物かどうかは別として、なんでそういうことが起きたのかが分からない」
 陰綱がアクセルを踏む。
「偽物――仮に偽物としておきます――その人の目的は何でしょう」
「分かりません」
 陰綱の回答は明快だった。涼子だったらこういうとき様々な推測を語りそうだが、陰綱はそういうタイプではないらしい。
「ただ、検討の余地は出てきます。榊原氏の邸宅や遥様を襲った容疑者は、草薙樵本人ではない可能性が出てきました」
 そこまで言ったところで、陰綱の携帯が鳴った。
「失礼します」
 道路脇に一時停車し、陰綱は携帯に出た。
「上泉です。……はい。はい」
 陰綱は静かに相手へ頷き返している。電話を切ったとき、彼の表情は心なしか険しさを増しているように見えた。
「未了様からでした。草薙樵が倉凪梢と交戦中だと」
「梢君が……?」
「交戦理由は不明ですが、あまり猶予はありません。遥様、申し訳ございませんが行き先を変えてもよろしいでしょうか」
「も、もちろん。私も気になります。放ってはおけません」
 元々の行き先は、秋風市で皆が泊まっているホテルだった。携帯が壊れて連絡ができないので、一旦戻って状況を確認しようと考えたのだ。
 だが、事態は進行中で、そんな余裕はなさそうだった。
「では行きます」
 陰綱は再びアクセルを踏む。
 遥は固唾をのんで、正面を見据えた。

 逃げ回るのが精一杯。
 今の状況を一言で表すと、そんな感じだ。
 梢は樵――土門荒野の一撃を紙一重で避け続けている。
 土門荒野の動きは単純で一直線だから読みやすい。しかし、それでも気を抜くと直撃しかねないほど速い。
 しかも、土門荒野の一撃は文字通り必殺級の威力を持っているように見えた。かすっただけで肉が削げ、直撃しようものならその部位が粉砕しようである。
 だから、梢は反撃という欲を抑えて、避け続けることだけに専念していた。
 それだけで十分まずい状況だというのに、先程から身体が疼いて仕方がない。
 おそらく、草薙樵の中にいる土門荒野が前面に出てきたことで、こちらの土門荒野も騒ぎ始めたのだろう。この疼きを抑えながら必殺の一撃を避け続けるのは、かなり神経を消耗する。
 幸い人通りの少ない郊外地だから、人の目は気にしなくて良い。
 ……とは言え、いつまで持つか微妙だな。
 土門荒野の疼きのせいで、状況を打破するための妙策も思い浮かばない。
 少しずつだが、梢は確実に追い込まれつつあった。
「なんなんだかな……土門荒野!」
 苛立ちのあまり悪態が飛び出た。
「てめぇはそうやっていろいろ暴れ回って何がしたい! 探し物は見つかったのかよ、ええ!?」
 何かを探し求める夢。決して見つからないであろう何かを探していた土門荒野。
 それが、なぜこんな暴れ回るだけの存在に成り果ててしまったのか。
「何にキレてんだ、言ってみやがれ!」
「おおおおおおぉぉぉぉぉおおおおお!」
 梢の問いかけに、土門荒野は咆哮と一撃で答えた。これも紙一重で避ける。
 否、避けたつもりだったが、かすっていたらしい。脇腹に凄まじい痛みが走った。
 相手の攻撃を避けながらそこに触れると、べったりと血がついた。
 ……心なし、速くなってる?
 先程までより動作は単純になり、その分速さが増しているように感じる。
 自分の投げかけた言葉が何かに影響したか――そう思った瞬間。
 ――イヤダ。
 得体の知れぬ悲憤の感情が、身体の内側で弾けたのを感じた。
 そのことで出来た微かな硬直が――致命傷に繋がった。

 現場はそう遠い場所ではなかった。
 ただ、遅かった。
 交戦中とは思えない静けさに寒気を覚え、遥は慌てて車から飛び出した。
 一面に広がる田畑。そこに、一人の男が立っている。
 それは――草薙樵だった。
 草薙はこちらに背を向けたまま微動だにしない。
 そして、その更に向こうには、誰かが倒れていた。
「嘘……」
 遥は駆け出した。陰綱が何か叫んだが、よく聞こえなかった。
 動かない草薙の横を抜けて、遥は倒れている人のところに走り寄った。
 血塗れの梢が、倒れている。
 右腕はぐしゃぐしゃに壊されていて、原型を留めていなかった。そして、それ以上に酷いのが胸の傷だった。
 表面が大きく抉り取られている。そこから、どくどくとおびただしい量の血が流れ続けていた。
「梢君」
 抱きかかえると、彼は微かに目を開けた。
 最初は驚きの眼差し。次いで、優しい眼差しで遥を見る。
「……」
 口を小さく動かしながら、彼は左手で遥の頬を撫でた。
 良かった、と。
 確かに、そう呟いた。
 遥の身を案じていたという梢の想いが、彼から伝わってくる。
 その想いが、徐々に弱々しくなっていくことも、伝わってくる。
「嫌だよ、梢君」
 まだ追いつけていない。
 まだ何も言えていない。
 すべて、これからだったはずなのに。
 力になろうと決めたのに、こんな形で急に終わりを迎えるのは嫌だ。
 だから、一か八かの賭けに出ようと決めた。
 遥は梢の身体を力強く抱きしめ、『共有』の力を使った。
 自身の『命』を相手に流し込む。消えそうな梢の『命』を、自分が補う。
 それが、今の自分にできる精一杯。
「遥様、おやめください!」
 遥の意図に気付いた陰綱が二人に駆け寄ろうとしたとき、微動だにしていなかった樵――土門荒野が大きく吠えた。
 獣の咆哮ではない。もっと別の、悲憤を感じさせる咆哮だ。
 土門荒野が陰綱に跳びかかる。陰綱は手にしていた刀で、その一撃を受け止めた。
「邪魔をするなっ……!」
 陰綱の言葉は、土門荒野に通じない。駄々っ子のように暴れ回るばかりだ。
 そこに第三者が割り込んできた。遥に似た面持ちの少女――真泉未了だ。
 彼女は二人が戦っている脇をすり抜け、遥たちのところに駆け寄っていく。
 しかし、それを見つけた土門荒野は彼女の身体を横からぶち抜いた。
 その間も、遥は梢に自身の命を流し込んでいた。
 消えかけていた灯が、少しずつ力強さを取り戻していくのを感じる。
「……やめろ」
 声が出せるようになったのだろう。梢が、制止の言葉を絞り出した。
「こんなことしたら、お前……」
 だが、まだ弱い。声はかすれていて、とても小さい。気を抜けばまた消えてしまいそうなほどに。
「大丈夫。私も死なないように、上手く調整……するから」
 言いつつ、力が抜けていくのを感じた。疲労感ともまた違う。もっと決定的な何かが失われていく。漠然と、それが命なのだと理解した。
 梢は抵抗する素振りを示したが、力が入らないからか、こちらを振りほどくことはできないようだった。
 二人で一緒に生きていきたい。その一念のみを込めて、彼に命を送り続ける。
 自分も彼も互いに死なずに済む、そのぎりぎりのポイントを探りながら。脳裏に天秤のイメージを思い浮かべ、それがちょうど水平になるように。
 そのとき――何かが、背中に突き刺さった。
 イメージの中の天秤に、大きな亀裂が走る。
「……遥……!」
 こちらの異変が伝わったのだろう。梢が悲痛な声を上げる。
「やめろ! もう……やめろ……!」
「……うん」
 命が薄れていく。
 このままでは、足りない。自分と梢とが生きるだけの命はない。
 ……死にたくはないなぁ。
 これまで散々な人生だった。幸せだったのは、梢に救われてからの二年間くらい。今まで不幸だった分、もっと幸せになりたかった。
「……ごめんね」
 そんな自分以上に幸せになって欲しい人がいる。
 例えその人が嫌がっても、無理矢理にでも幸せにしたい人がいる。
 これはエゴだ。一方的な善意の押しつけだ。自分の思い描く『幸せ』を、相手に押しつけるだけの行為だ。
 それでもせずにはいられない。好意を示さずにはいられない。
「遥……!」
 梢が叫ぶ。それに対し、遥は笑って返した。
「嫌な思いをさせると思うけど……ごめんね」
 命の天秤が――大きく傾いた。