異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
倉凪梢と榊原遥の章「倉凪梢と榊原遥」
 生命とは尊いものだ。
 この星のどこに価値があるのかと聞かれたら、生命があるところだと答えるだろう。
 それは尊く――そして儚い。
 たやすく失われ、そして二度と戻らない。それが世界共通のルールだ。
 最初に消えたのは父の命だった。人伝に知らされたその事実は、どこを探しても父に会えないのだと知ったとき、初めて心で理解した。
 次いで母がいなくなった。少しずつ弱っていく母を前に、幼い自分はどうすることもできなくて、ただその死を受け入れるしかなかった。
 その後も消えていった命がある。
 一番の親友に、慕っていた兄貴分。彼らは精一杯己の道を走り抜いて、自分たちの手が届かない場所まで行ってしまった。
 ――そして今も、失われつつある命があった。
 自分の腕の中にある確かな温かさ。それが少しずつ失われていく。
 簡単に壊れてしまいそうな硝子の彫刻のようなそれを、大事に抱きかかえる。
「……馬鹿が」
 ありがとうと言うべきだろうか。
 そう思って、すぐに心の中で頭を振った。
 彼女にかける言葉は『馬鹿』以外にない。
 ……だってそうだろう。俺みたいな馬鹿のために。
 彼女は馬鹿と言われて、少し笑った。まだ生きている。今はまだ。
「なんで、俺なんかのために」
 草薙にやられた傷はまだ残っていた。しかし、先程までとは違い、身体の内側から確かな力を感じる。
 これが命だ。
 自分の命ではない。彼女の命だ。
 今まで散々幸せを取り逃していた少女が、これから幸せを掴むために使うはずだった命だ。
 それが、今の自分を生かしてくれている。
 ……なんでそんな大事なものを、簡単に人にやれる。
「お前は、恩返しのつもりなのかもしれないけどさ」
 彼女が自分に恩を感じているのは分かっていた。別にそれを望んでいるわけではないが、あえて否定する理由もなかった。
 彼女にとって俺は恩人なのだ。
 だから、相応の好意も向けられる。
 そんなことは、気付いていた。
「俺は、お前に幸せになって欲しかったんだ。ただ、それだけだったんだ。なのに」
 恩人である俺になんか縛られるな。
 お前には、幸せになる権利がある。
 だから、とっとと俺から離れて、自分の幸せを見つければいい。
 そう願っていたのに、彼女はいつもこちらに来る。
「こんな、無茶しやがって……」
 彼女の身体から力が消えていく。少しずつ、ただのモノに近づいていく。
 だというのに――その表情は安らかで、幸せそうだった。
 やりたいことをすべてやりきった。そんな顔をしていた。
「何がゴメンだ」
 彼女は、梢がこういう結末を嫌がると分かっていてやった。
 それが、彼女の選んだ幸せの形なのか。
 問い質しても、答えはないだろう。ただ、彼女の緩んだ表情が答えを表しているように見えた。
「遥」
 その名を呼ぶ。
 彼女は小さく息を吐いた。何かを言おうとしたのかもしれない。だが、その声は届かなかった。
 少しずつ閉ざされていくその双眸に、自分の泣き顔が映し出されていた。
「寝るな。起きろ。おい、寝るなよ」
「……」
「美緒たちが心配してるぞ。一緒に帰ろうぜ、なあ」
 そうだね、帰らなきゃ。
 遥のそんな言葉が聞きたくて、何度も同じことを繰り返し言った。
「俺さ」
 驚かせよう。彼女の眠気を吹っ飛ばすくらい、驚かせてやろう。
「俺さ、お前が好きだったんだぜ」
 それは、決して言うまいと思っていたことだった。
 彼女を救い『恩人』になってから、固く心に秘めていた誓いだった。
 それを破った。そうしてでも、彼女を止めたいと思った。
「いつからだって? 最初に会ったときからだよ。子供の頃さ。だって、そうじゃなきゃあんな辺鄙なとこに何度も通うかよ」
 随分昔、まだ遥がある研究施設に軟禁されていた頃のことだ。
 偶然森の奥深くにあるその場所に、梢は辿り着いた。
 表情のない人形のような女の子がいた。
 可愛いなと思って、つい声をかけた。
 そこからは馬鹿な男としてしか振る舞えなかった。
 惚れ込んだ子のところに毎日通い、あることないこと面白おかしく話す。最初は無表情だった遥の表情に笑みを見つけたとき、心底やばいと思った。心臓が爆発しそうだと錯覚して、不自然なくらい急いで帰ったものだ。
「結局、そのあと俺はお前を助けようとして、失敗してさ。忘れようとしたんだ。惚れこんでた分、本当に辛くてよ。お前が死んだものと思い込んで、お前を助けられなかった分も、いろんな奴を助けてやれるようになろうとか思って」
 だから、二年前、遥があのときの少女だと分かったときの衝撃は凄かった。
「二年前、あのときの子が生きてるって気付いたとき、俺は本当に嬉しかった。今度こそお前を助けてやれるって息巻いて。あの頃はいろいろキツくて、あんま自覚なかったけどさ――やっぱ、お前に惚れてたから、俺はあそこまで頑張れたんだよ」
 どれだけ劣勢になろうと、苦境に立たされようと、規格外の化け物と戦うことになろうと、決して退かなかった。
「けど、事が片付いて気付いたんだ。俺はお前の『恩人』になっちまった。これで実はお前が好きでしたなんて言うのは、なんかフェアじゃねぇって思って。だって、そうだろ? 断りにくいじゃねぇか、そんなこと言われたら。俺がお前の立場だったら、すごい困るぞ。だから、お前を困らせたくなかったから、何も言わないって決めたんだ」
 日常の中で遥の好意を感じても、知らんふりを決め込んだ。
 むしろ、彼女と意識的に距離を置くようにした。
「だってのに、お前は」
 そこで、言葉が詰まった。
 口の中に涙が入り込んでくる。視界が滲んで、遥の顔がよく見えなくなる。
 彼女の目は閉ざされていた。
 確かに微笑んでいたその表情からは、もう何も伝わってこない。
「遥」
 名を呼ぶ。
 反応はない。
 何の反応も――ない。
「なんだよ、おい」
 彼女の命が、消えていく。
「なあ、遥」
 何でもいいから返事をしてくれ。
「起きろよ遥」
 その笑顔が大好きだった。
「おいって」
 まだ全然見足りない。
「遥」
 これからも、一緒にいたい。
「遥――」
 もっと幸せになって欲しい。
「遥ぁ」
 幸せにしたかった。
「遥ァッ!」
 力強く抱きしめる。
 その身体から、彼女の命が零れ落ちるのを食い止めようと。
 無駄だと分かっていても、そうせざるを得ない。
「嫌だ」
 好きな人を抱きしめながら、無力な馬鹿が駄々をこねる。
「嫌だ、死ぬな。嫌だ、嫌だ……!」
 こんな風に大事な人が死ぬのは、もうたくさんだ。
 これほど辛い思いをするくらいなら、自分が死んだ方がましだとさえ思える。
 ――どくん。
 身体の内で、何かが蠢いた。
 今までとは違う。共に悲しむかのような、寂しげな共鳴だ。
 ……コンナ思イヲドコカデシタ。
 見つかるはずのない大切なものを探し続けて、奇跡的に見つけることが出来た。
 しかし、それが自分の目の前で失われていく。
 そんな悲しいことが、前もあった。
 そのときも自分は無力で、何も出来なくて。
 ただ、そんな状況を生み出したすべてのものに怒りをぶつけることしか出来なかったんだ。
 ――どくん。
 自分の中にある、自分のものではない記憶。
 それが、目の前の現実と重なっていく。
 死が折り重なる。
 それを見ている二つの自分の思いが、積み重なる。
 死は止められない。
 失われた命は二度と戻らない。
 それが、世の法だ。
 決して変わることのない不動の法だ。
 ……そんなのは。
 ……ソンナノハ嫌ダ。
 ……これで終わりなんて。
 ……絶対ニ嫌ダ。
 積み重なった思いが、自分とソレの境界を越えて爆発した。
 ――どくん。
 身の内に宿していた異法が震え動く。
 ……助けたい。
 義務でも義理でも何でもない。ただ、好きだから。
 これからも一緒に歩き続けていきたいから。
 もっと笑って欲しいから。
 だから――できることなら何でもやる。
 思いを形にするため、倉凪梢の異法が、殻を破らんと蠢く。

 異変は周囲にも伝わった。
 なおも暴れ続ける土門荒野となった草薙樵。
 一撃を受けて重傷を負った真泉未了と、彼女を背負いながら草薙と相対していた上泉陰綱。
 その全員が、動きをとめて梢たちを見た。
「遥……」
 命が失われつつある娘を求めて、朦朧とした意識のまま、未了が手を伸ばす。
 一方、陰綱は梢から漏れ出した魔力を見て警戒した。本能的に、何かが起きようとしていることが分かった。
 そして草薙は、一瞬動きをとめた後、一気に梢たちに向かって跳躍した。
 獣の咆哮に気付いた陰綱が動くよりも早く、草薙の腕は梢目がけて振りおろされる。土門荒野化により強化されたその力は、たやすく梢の頭蓋を打ち砕くだろう。
 しかし、草薙の腕が梢の頭を砕くよりも速く、光が辺りを侵食した。
 世界が塗り潰されるかのように、翠玉の輝きが周囲に広がっていく。
「……なんだ!?」
 陰綱が光に目を取られた一瞬の間に、梢と遥の姿が消えていた。
 草薙の腕は虚空を切り、緑の草花を散らす。
 そう。
 田園の中で戦っていたはずなのに、気付けば周囲一帯が草木と様々な花で満ち溢れていた。
 草薙に散らされた花が地にひらひらと落ちる。途端、そこから芽が出て花開く。
 無限の広がりを感じさせる緑の大地。それは草原であり林であり森であり――それらすべてを内包する、世界そのものとなっていく。
「……異界」
 未了が小さく呟く。それで陰綱も状況を理解した。
 式泉運命が異法を研究していたとき、彼は異法にある可能性を見出していた。それが異界である。
 異界は、異法で構成されるモノだ。世界の法とは異なる法で構成された、文字通りの異世界である。
 通常、異法は異法人の制御下で世界の法に働きかけることしかできない。しかし異法人の制御を振りきるほどの異法があったとすれば、それは異界へと昇華するだろう。
 それが式泉運命の提唱した異界論の一片だ。
 しかし、実際に目にするのは陰綱も初めてだった。
 辺り一帯に咲き誇る草花。
 空を覆い尽くさんとする無数の大木。
 八百万の神々が潜んでいそうな、神秘的な空間。
 これが、倉凪梢の異法が異界へと至った形なのか。
 かつてない事態に遭遇しながらも、陰綱の五感は鈍っていなかった。
 微かな気配に視線を向けると、そこには茫洋とした表情で立ち尽くす倉凪梢と、その足元に横たわる遥の姿があった。
 そんな二人に、再び草薙が跳びかかった。

 様々な感情や記憶が頭の中でかき混ぜられている。
 気持ち悪くはない。違和感はなく、ただ自然と自分の中に何かが溶け込んでくる。
 自分の中から溢れ出した力を、抑えねばならない。茫洋とした意識の中で、それだけを考えている。
 怒りの形相を浮かべた男が、跳びかかってくる。ごつごつとした武骨な岩で作られた爪で、胸元を大きく切り裂かれた。更に、逆の手の爪によって腹を串刺しにされる。
 そのまま振り抜かれた。血と一緒に臓器まで飛び出そうな勢い。それぐらい痛む。
 痛みが、混濁した意識の再構築を妨げる。
 自分は誰だ。
 ここは何だ。
 何人もの父母の顔。
 無数に湧き出る愛憎の情。
 これまで土門荒野となった数多の人間の記憶が、頭に浮かび上がってくる。
 その間、身体は何度も裂かれ、刺され、斬られた。
 痛みを思い出す度に意識が止まる。しかし一息つくと、すぐに記憶の再構築が再開する。なぜ自分が滅茶苦茶にされて無事なのかは分からない。
 ただ、脳裏に一人の女性の顔が浮かび上がった瞬間、急に目が覚めた。
 目の前には草薙樵の拳。
 直撃すれば顔面を粉々に叩き潰すであろう一撃が、文字通り眼前に迫っていた。
 否。
 拳は止まっていた。
 草薙樵は、動かなくなっていた。
 ぐらりとその身体が傾き、崩れ落ちる。
「悪いね草薙君。一度、死んでもらう」
 それは自分の言葉ではなかった。
 少し離れたところに立っている、くたびれたコートを着込んだ男の言葉だった。
 男の手には黄金の拳銃があり、銃口は倒れた草薙樵の方に向けられていた。
 男は拳銃をしまうと、静かな足取りで近づいてきた。
「意識は確かかい、梢」
「梢」
「そうだ。君は倉凪梢だ。それを忘れるな」
「倉凪、梢……」
 そうだ。
 自分の名前は倉凪梢だ。
 そう自覚した途端、意識の再構築が完了した。
 倉凪梢として、これまで土門荒野になった人々の記憶を受け入れた。
 異界化して暴走しかけていた異法も、こちらの制御下に戻りつつある。
「どうやら、大丈夫そうだね」
「……ああ」
 意識ははっきりした。
 だからこそ、目の前に立っている男の存在を、信じられなかった。
 その男は、もういないはずなの人だったから。
「アンタ、生きてたのか」
「おいおい、アンタなんて駄目だろう」
 男は苦笑を浮かべて、昔と同じようにこちらの頭をぽんぽんと叩いた。
 懐かしかった。
 あの頃と、同じままだ。
「実の父親に向かって、なんで口のきき方だ」
 倉凪司郎。
 とうの昔に死んだはずの実父が、目の前に立っていた。