異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
冬塚涼子と久坂零次の章「冬塚涼子と壊れた悪魔」
 自分が万華鏡の中に放り込まれたような気分だった。
 つぎはぎだらけのモニタに囲まれた、出口の見えない空間。
 広さはよく分からない。モニタとの距離感は掴めそうで掴めず、近いのか遠いのか判別できなかった。
 ……そういう場所なのかしら。
 ここが異常な空間だというのは、意識を取り戻してすぐに分かった。理屈ではなく直感で理解した。
 モニタに映し出されるのは、様々な光景だ。
「これ、全部あなたの記憶か何か?」
 目の前で立っている青年に尋ねる。
 仏頂面で愛想のない顔。それは一見久坂零次のものにしか見えない。
 だが涼子には分かる。この青年は、少なくとも自分の知る久坂零次ではない。
「正確には違う。俺の前の俺……そのまた前の俺……そうしてずっと繰り返し、積み重ねられてきた記憶だ」
「ふーん。ってことは、いくつもの世界を同じように渡り歩いてきたってこと?」
「そうだ。いつが『はじめ』だったのかはもう分からないが、俺たちはずっとそうしてきた。二〇〇五年に起きる土門荒野の事件を経て、やり直すために別の世界へと旅を続けてきた」
「その結果別の問題が起きるのも承知の上で」
「ああ。承知の上だ」
「……」
 自分が別の世界に旅立てば、行きつく先はその世界の久坂零次の中。それがきっかけで、久坂家や八島優香、霧島直人といった人々の人生が狂わされることになる。
 涼子がそれを非難しようとしてもできないのは、彼がそれを承知の上で別世界行きを強行した理由に、ある程度察しがついてしまうからだ。
「ねえ、それを承知の上で別世界に行って、どうしたかったの? 辿り着く頃には全部忘れて、何をしたいのかも忘れちゃうって……分かってたんでしょう?」
「それでも、この力は久坂零次に必要だと思った。この『悪魔』の力は災厄をもたらしもしたが、大事なものを守る力でもあった」
 彼はこちらに背を向けて、正面のモニタを見上げた。
 そこに映し出されたのは、『悪魔』の力を振るって必死に戦う零次の姿だった。
 いずれも、涼子の知っている零次とは違う。目の前にいる彼ともまた違う。全員が異なる久坂零次だった。
「それに、記憶の件についても希望がなかったわけではない。現に俺は今、こうして自我を取り戻しつつある」
「……どういう意味か、説明してもらえる?」
「久坂零次の異法は、別に『悪魔』を呼び出す力ではない。その異法は元々『自身の内側にあるものを形にする』というものだった」
「……想像したものを具現化する力、ということ?」
「そんなものだ。自身の中にある俺たちを『悪魔』と思い込んでいたからこそ、その力の意味を取り違えてしまったのだ。『剣』と思えば剣という形になるし、『人』だと思えばその人になる」
「……ってことは、あなたのことを『別世界の久坂零次』だと思えば」
「そういう形で顕現する。今のように」
 モニタに映し出されていた悪魔たちの姿が、一斉に零次のものに変わっていく。
「『悪魔』や『剣』という形は俺たちの本質とは異なる。それゆえ、そういう形になったときは俺たちの意思が介在する余地はなかった。だが、万一本来あるべき形……すなわち別世界の久坂零次という形を得たなら、話は別だ」
「もう一人の零次として、土門荒野の件に立ち向かうつもり?」
 話を遮るような形で、涼子は切り込んだ。
 すべてのモニタが消え、辺り一帯が真っ白になる。
 彼はこちらに振り返る。
「無論だ。俺たちはそのために、すべてを捨てて、何度も失敗しながら、無理だ無理だと思いながら、ここまでやって来た」
 そういう彼の眼差しは、どこか寂しげに見えた。
 彼が――彼らが背負っているものがどれほどの重みを持っているか。そんなことを考えて、涼子は口をつぐんだ。
「……私をここに閉じ込めるのも、土門荒野の件に対応するのに必要なの?」
「あまり勝手に動かないでいてくれると助かる。それは事実だ。実際、いくつかの世界では、冬塚涼子の行動が事態を悪化させたこともある」
「悪かったわね」
「君のことではない。別の世界の冬塚涼子だ」
「いや、でも私の行動を警戒してるってことでしょ?」
「……」
 何も言わずに目を逸らす。そういうところは、自分の知る久坂零次と同じだった。
 ……いや、そこに感心してる場合じゃないや。
 彼らは――いや、彼と呼ぼう――彼はこちらに危害を加えることはないだろう。今のやり取りから、害意はまったく感じられなかった。
 だからと言って、ここでじっとしているわけにもいかない。
 おそらく、急に姿を消した自分のことを、自分の知る久坂零次は心配している。
 涼子は彼に踵を返して走り出した。
 それから数十秒走り続けて、後ろを振り返る。
 彼との距離はまったく変わっていなかった。もう一度走り、振り返る。それでも彼との距離に変化はない。
「無駄だ。ここから出る方法はない」
「みたいね。ねえ、せめてちょっと頼まれてくれない?」
「久坂零次に君の無事を伝える、ということか」
「うん」
 さすが別の世界の久坂零次なだけある。こちらの考えはお見通しか。
 だが、その要望に対し彼は頭を振った。
「必要ない。俺たちと久坂零次は別人であり同一人物でもある。その影響か、不思議な繋がりがあるようでな。互いの状況をなんとなく知覚することができる」
「つまり、この状況を零次は分かってるの?」
「おぼろげにだろうがな。それより、今はあまり時間がない」
「時間?」
「急ぎ最優先で確認したいことがある。そのために、俺は今ある場所へ全速力で向かっている」
 随分と意味ありげな言い方だ。
 涼子が黙っていると、彼は少し逡巡する素振りを見せた。
「……俺たちは並行世界を順に渡り歩いてきた。こうして自我を取り戻し、己の断片を改めてみる機会を得た。そこで少し気になった点がある。それが確認したいことだ」
「気になる点って、土門荒野に関することなのよね」
「分からん。だが、明らかに変な点がある。どう変なのかは分からないが、気付いてみると放っておけない――そういうものだ」
「それって、何?」
 あまり回りくどい会話は好きではない。
 単刀直入に尋ねると、彼はもう一度逡巡した。
「……土門荒野の件は、各世界で細部が異なるが、大まかな粗筋は同じだ。この点は確か郁奈に聞いているんだったな?」
「ええ。先輩と草薙樵は必ず死ぬ。それで土門荒野が蘇り、少なくない被害が出る。姉さんや私も死ぬ可能性はあるんだっけ」
「大事なのは『確定事項』だ」
 彼は強い口調で言う。
「事件に直接的な関わりはないから、今まで気づいていなかった。しかし『確定事項』というのは普通そんなに多くない。倉凪と草薙の死と、土門荒野の復活――これには何か強力な意思が働いていると見ていた」
 それは、郁奈もそんなことを言っていたような気がする。
 どれだけ世界が変わっても、梢と樵は必ず死ぬ。
 運命とは本来不正確なもので、確定事項などというものはほとんどない。
「そう。『確定事項』は滅多なことではありえない。そこに強力な意思がない限り」
「……結論言ってくれない?」
「ああ、では言おう。確定事項はもう一つある。どの世界でも必ず死んでいる人物がもう一人いるのだ」
 その話は初耳だった。郁奈もそんなことは言ってなかったはずだ。
 そんなこちらの疑念を察したのだろう。彼は説明を続けた。
「郁奈の力は母親の八島優香と同じ『他人の過去を夢に見る』というものだ。彼女が見ていたのは、無数の断片となった俺たちの記憶なのだろう。俺たちの記憶の中に、その人物の死に関する情報はない。一度たりとて立ち会ったことはないからな」
「つまり、郁奈はそれを『夢』で知ることはできなかった……?」
「そうだ。土門荒野の事件が終わってからしばらくして、俺たちはその情報を聴いた。郁奈や八島優香の力はあくまで『見る』のが中心だ。『聴く』こともできると言っていたが、ノイズ交じりで不明瞭らしい。彼女が知らないのも無理はない」
 彼の説明には無理がない。確証も得られないが、なんとなく信用できる気がした。
「で、その人物って?」
「古賀里白夜」
 散々もったいつけた割に、彼はあっさりとその名を口にした。
「古賀里臨時本家にして魔術師嫌いの稀代の魔術師。古賀里白夜は、どの世界でも今日の夜間に変死している。発見されるのは一ヶ月後か二ヶ月後くらい……」
 今日の夜間。涼子は腕時計を見た。
 時刻は既に十八時。この季節だと完全に暗くなっていてもおかしくない。
「正確な死亡時刻は分からない。間に合えばいいが」
 彼の口調には、焦りが見え隠れしていた。

「もう一人の零次に……涼子がさらわれた?」
 郁奈が訝しげに問いかけてくる。
 零次はそれに黙って頷いた。
「でも、なんでそんなことするのかしら。特に理由が思い当たらないけど」
「俺にもそれは分からない。しかし、状況から察するに、他のケースは考えられないと思う」
 郁奈が一瞬見たという二人の零次。
 それに突如いなくなった涼子。
 他に怪しい者の気配は感じなかったし、郁奈もその線については言及していない。であれば考えられる可能性は一つだけだ。
「郁奈、奴の行方を追うための手がかりのようなものは?」
「なかったよ。一瞬のことだったし。……そもそも、すぐに別の問題が起きたから、あんまり状況確認してる余裕もなかったの」
「別の問題?」
「……もしかして、寝起きだから気付いてなかった?」
 郁奈が先程よりも身を出してくる。その顔の左半分が、煤けていた。
「後ろ」
 言われて、後部座席から後方を見る。
 人通りの少ない参道で、つかず離れずこちらについて来る車がある。
「あれは……? 何か、異様な気配を感じるが」
「魔術師同盟だ。僕らの動きが胡散臭いということで、こそこそ嗅ぎ回ってたみたいだね。それが、急に襲いかかって来たらしい」
「お兄ちゃんが気絶してすぐにね。慌てて逃げて、車忘れたこと気付いて、孝也呼んで合流して回収して、今また逃げてる」
「おかしいな。魔術同盟の方には冷夏さんがうまく言ってあるんじゃないのか」
「その冷夏だけど、連絡が取れないみたいでね」
 孝也が前を見たまま低いトーンで言う。
「他の知り合いの魔術師連中にも連絡を取ってみようとしたんだけど、どうも連絡が取れなかったり、言動が不審だったりする奴ばかりでね」
「何かが起きている、と?」
「おそらく。僕らにとって不都合な形でね」
「まずい。なら美緒や榊原さんたちにも連絡しておかないと……」
「それなら心配ない。僕の方から、ある場所に避難するよう伝えておいた。一段落ついたら連絡してみるといい」
「今は、この状況を乗り切るのが最優先」
 郁奈は汚れが気になるのか、ハンカチで顔を何度か拭いていた。
「熱を持った霧を噴射してくるのが一人、棒を持ったやたら反射神経の鋭いのが一人。それと運転手」
「運転手怖いね。さっきからいろいろ試してるんだけど、全然引き離せないよ」
「孝也運転下手だもん」
「あいつのようにはいかないなぁ」
 孝也がぼやきながらこちらをちらりと見たような気がした。実際は後方の追跡車を確認したのかもしれない。
 あいつ。十中八九、霧島直人のことだろう。郁奈の前だから名前を伏せたのか。
 久坂源蔵が遺した資料。あれを読んだ今、否応なく霧島と郁奈のことは意識してしまう。なんとなく、彼女を視ていると落ち着かない。
 この感覚は、後ろめたさなのか、責められるかもしれないという恐怖なのか。
「俺が出て倒します。このまま追われ続けるのは危険です」
 迷いを振り払うように頭を振り、孝也に尋ねた。
「そうもいかない。魔術同盟で具体的にどんな動きが起きてるか分からないからね。もしかしたら一部の連中が暴れてるだけかもしれない。下手に反撃して、それを口実にされても困る」
「しかしそれでは……」
 いつまでも追いかけっこを続けているわけにもいかない。もう一人の自分。涼子の危害を加えるとは思い難いが、信用できるかどうか分からない。それに、なぜ涼子を連れ去ったのかも分からないままだ。
 ふと、そこで零次は進行ルートに橋があることに気付いた。それも年季の入っていそうな吊り橋だ。
「幸町さん!」
「策は考えてあるさ。郁奈、やれるかい」
「うん。繊細な作業になるから、終わるまでは話しかけないで」
 幸町が頷く。
 車は一直線に吊り橋へと突っ込んだ。

 彼が姿を消すと同時に、無数のスクリーンの中に一つ、大きなものが加わった。
 それが今の状況を――彼の視界を映し出したものだということは、なんとなく察することができた。
 冬のせいか日はすっかり暮れている。街灯がぽつぽつと見える町の風景が眼下にあることから、どうも彼は飛んでいるらしい。速度はかなりのものだ。
 ……かなり急いでるみたいね。
 迷いなく、一直線に飛んでいる。行く先は古賀里白夜のいる、あの書店だ。
 すぐに映像は止まった。否、彼が目的地に着いたのだ。
 地上に降り立つと、彼は書店には入らず、少し離れた建物の物陰に隠れたようだ。
「中に入らないの?」
「迂闊には入れん」
 問いかけてみると、姿は見せないまま、声だけが返ってきた。
「俺の目的は古賀里白夜を救うことではない。彼がなぜ必ず死ぬのか。そのことと土門荒野の件がどう繋がっているのか。それを確認したいのだ」
「……見殺しにするってこと?」
「そうした方が良さそうであればな。だが、特に理由がなければ一応助ける」
 そこで、彼は溜息をついた。
「人が死ぬのを見るのは気分が悪い。それに、恩を着せれば新しい情報を引き出せるかもしれないからな」
 それを聞いて、涼子は安心した。
 世界が違っても、どれだけ苦しいことを抱え込んでいても、彼はやはり久坂零次なのだ。本質は変わっていない。なら、信じられる。
「今はまだ無事なの?」
「ああ。店の中で老人一人分の呼吸音が聞こえる。この辺りは静かだから余計な雑音もないし、まず間違いはない。古賀里白夜は無事で、まだ何事も起きていない」
 それから彼は無言になった。微かな異変も聞き逃さないよう意識を集中させているのだろう。涼子も邪魔をしないよう口を閉じた。
 ……古賀里白夜さんか。
 魔術師嫌いの魔術師。なぜか、式泉家のことを知っていた。おそらく何かまだ隠していることがあるのだろう。
 それが、殺される理由になり得るのか。それはまだ分からない。
 遠くから、バイクの音が聞こえてきた。近づいてくる。彼が緊張を強めたのが伝わってきた。
 しかし、バイクは特に何をするわけでもなく、そのまま通り過ぎて行った。たまたま通りかかっただけの一般人だったらしい。
「いや、何かおかしい」
 彼が断定調で言う。
「バイク自体はおかしくないが……その後、増えている」
「増えてるって、何が?」
「分からん。書店内の呼吸音は相変わらず一つだ。だが、それ以外に一つ増えている。場所が掴めん。これは、なんだ……!?」
 彼の切迫した様子に、涼子も事態を察した。
「ねえ」
「なんだ」
「もう少し離れた方が良くない? こっちのこと気付かれたら、全部台無しになる」
「いや、駄目だ。ここで下手に動けば本当に気付かれるかもしれない。そうしたら相手は警戒して姿を消す。改めて古賀里白夜を始末しに来るとしても、より一層警戒して来るはずだ。今もし既に気付かれているとしたら、このままで良い」
 このまま。それが意味することは一つだ。
 背筋に冷たい感覚。彼もそれを感じたのだろう。瞬時に動いたようだ。
 ……そう。まず相手は不審な彼を先に始末しに来る。つまり囮!
 振り返った彼の視線の先には、小柄な人影があった。
 目深に帽子を被り、だぼだぼのコートを着込んでいる。彼の『千里眼』でも、性別や顔立ちがよく見えない。
 ……あれが、古賀里白夜殺しの犯人?
 人影は一瞬で姿を消した。そう思った瞬間、ざくりと何かが突き刺さるような感覚が走った。痛みはない。ただ、夢の中で刺されたときのようなぞわりとした感覚だ。
 彼が再び視線を動かす。その先には、やはり小柄な人影があった。手には血染めのナイフを握っている。
「さ、刺されたの!?」
「大丈夫だ。俺の身体は紛い物。致命傷ではない。……しかし、速過ぎる」
 人影がまた姿を消した。と同時に今度は足先を切られたらしい。彼が負傷を追うと、それが涼子にも伝わるようになっているらしい。痛みが直接来るわけではないから平気と言えば平気だが、気味が悪かった。
「白夜さんを呼んで助けてもらう……のは駄目か」
「駄目だ。あの老人は別に我らの味方ではない」
 つまり、自力で何とかするしかない。しかし相手はなかなか姿を見せなかった。
 ちらりと視界に姿が映ったかと思うと、すぐに消える。消えるのとほぼ同時に、あらぬ方向から攻撃が来る。
 霧島直人のような超スピードか、まったく別の理由か。前者だとしたら、勝ちを拾うのはかなり難しい気がする。
 しかし、彼に焦った様子は見受けられなかった。
「非力な攻撃だ。それでは俺を仕留めることはできん。相手もそれには気づいているだろう。おそらく、古賀里白夜に気付かれぬよう力を最小限に抑えている」
「けど、白夜さんに気付かれたらまずいのはこっちも同じね」
「ああ。そうなれば奴はこのまま逃げる。そうはさせん」
 彼の心がすっと冷え込んでいくのが分かった。ただ冷たいだけではない。内側に爆発しそうな何かを秘めている。
「何万もの世界を渡り歩き、初めて得た好機だ」
 絶対に逃がさん――口にはしなかったが、彼の心情が涼子にも伝わって来る。
 その異変を察したのか、攻撃の手が止んだ。だが気配はまだある。彼の聴覚が捉えたものは、涼子にも届いていた。白夜のものと思われる息遣いと、それとは別の息遣い。しかし、もう一つの息遣いの方は絶えず移動しているようで、居場所が掴めない。
「だが、そんなのはどうでもいい」
 涼子の懸念を、彼は一蹴した。
「重要なのは、奴がまだこの場にいて俺を始末することを諦めていないことだ。なら、奴は来る。警戒している分、確実に俺を始末しようと強烈な一手を打ってくるだろう」
「……一応聞いておくけど、あなたは死ぬことってあるの?」
 彼がどういう状態なのか、よく分からなかった。先程の言葉からすると、生身の身体を持っているわけではなさそうだったが。
「一応人の形はしている。姿も久坂零次のままだ。しかし中身は魔力しかない。その魔力が枯渇すれば俺は消える。攻撃を受けることで魔力は散っていくから、あまり楽観視はできない。生身の身体と違って致命傷がないのが長所ではあるが」
 彼の言葉はそこで途切れた。
 今までにない衝撃。背中から胸を大きく穿いたのは、大振りな太刀だった。
 血の付いた刀身を、彼はそのまま掴んだ。相手の動揺が伝わる。
「あくまで背後からの奇襲か。それほどまでに顔を見られたくない、ということか」
 言いながら、彼はもう片方の腕で相手の手を掴んだ。太刀から引き剥がし、相手の身体を正面に持ってくる。
 子供だった。少年。驚愕の表情を浮かべて、こちらを見ている。
「貴様、久坂零次ではないな」
 第一声がそれだった。小学生くらいにしか見えない。まだまだ声変りもしていないようだった。ただ、子供が発する言葉にしては、何か重みを感じさせる。
 刀身から手を離し、少年の帽子をむしり取る。
 暴かれた少年の表情を見て、涼子は息を呑んだ。
 知っている顔、というわけではない。
 ただ、そこから滲み出る憎悪が異常だった。こちらに対しての憎悪ではない。常に世を呪い抜いているような、そんな表情だ。
「名を名乗れ、小僧。目的はなんだ」
 逃さぬよう、彼は少年の首を掴んだ。少年はそれを解こうとするが、力の差は歴然としていた。子供の力では、振りほどけない。
「……っ、お前こそ、何者だ……?」
 苦しそうに呻きながらも、少年の眼にある憎悪は微塵も揺るがない。それが怖い。
「質問しているのは俺だ。答えろ、お前はなぜ古賀里白夜を殺そうとした」
「……」
 少年は答えない。苦しそうに呻きながらも、こちらを見下ろしてくる。
 不意に、その表情が冷徹な色を帯びた。
「それは『可能性』の話をしているのか」
「何?」
「僕は何もしていない。なのに、なぜお前は確信している。僕の目的を」
「……話す義理はない」
 彼は締め付けを少しきつくした。だが少年はひるんだ様子を見せない。
 ……何か、変だ。
 だが、何がどう変なのかが分からない。
「言っておくが、この傷は俺にとって致命傷ではない。このまま時間を稼いだところで状況は変わらんぞ」
「ああ、それは分かってる。別に時間稼ぎじゃあない。『可能性』を確認している」
 可能性。
 このワードが浮いている。
 この少年は、いったい何を言っているのか。
「そういうことか」
 少年が、にやりと笑った。
「おそらく君の正体は久坂零次の悪魔か、それに類似するものだろう。自意識があるということと、中に冬塚涼子がいるという点が些か奇妙ではあるが――」
 言葉の区切りで、少年の身体は消失した。
 逃れたという感じもしない。最初からそこには何もいなかった。そんな感じの消え方だった。
 少年は、十メートル程先の屋根の上に立っていた。
「しかし、うまくいかないな。君みたいなのがいると、また計画を変更しないといけない。できればここで消しておきたいけれど――さすがに二対一は分が悪いな」
 少年の視線の先には、書店の前に立つ小柄な老人の姿があった。
「やれやれだ。今夜はこれでお暇させてもらうよ。謎の悪魔さん、そして裏切り者。ああ、それと冬塚涼子さんもね」
 少年は憎悪に満ちた笑みを浮かべて、やはり唐突に姿を消した。
 気付けば、彼の胸を貫いていた太刀すらない。ただ、傷跡は残っていた。
「おい、そこの」
 白夜がこちらに向かって声をかけてきた。
「どういうつもりかは知らぬが、わしは貴様に助けられたらしい。どうせ何か聞きたいのであろう、来るが良い」
 言って、白夜は書店の中に戻っていく。
「行こう」
 涼子の言葉に、彼は小さく頷いた。