異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
冬塚涼子と久坂零次の章「久坂零次と謎の子ども」
 零次と郁奈は涼子の部屋にやって来ていた。幸町の姿はない。
『僕は僕で同盟側の動きを追ってみる。冷夏の行方も気になるしね』
 一人で大丈夫かという不安はあったが、幸町は軽く流した。彼は基本的に中立の立場だから、荒事にならないよう上手く立ち回ることもできるらしい。零次たちと長時間行動していると、却ってそういう立ち回りがし難くなるというのだ。
 涼子の部屋にやって来たのは、例の資料を同盟に奪われないよう回収するためだ。しかし、既に資料はなくなっていた。
 涼子の寝室から出てきた郁奈は一通の手紙を手にしてそう言った。
 ちなみに零次は寝室に入る手前で郁奈に怒られ居間で待機していた。曰く、男子が無断で女子の寝室に入るな、とのこと。そういう感覚は良く分からない。
「とりあえず涼子は無事みたい。無現も涼子に危害を加えるつもりはないみたいよ」
「そうか、なら一安心だ。……無現?」
「もう一人のお兄ちゃんの呼称。何か名前がないと呼ぶの大変でしょ? 現れるはずのないもの、そういう意味で無現」
 奇妙な名前だった。違和感があると同時に、どこかで懐かしい感じもする。どこかでそんな名前を聞いた気がする。そう呼ばれていたのは誰だったか――。
「あと、子どもに気をつけろって書いてる」
「子ども?」
「うん。なんか、襲われたみたい。無現が撃退したみたいだけど、実力とか能力とかが未知数で危険だから、会ったらまず逃げろって」
「外見の特徴とかは?」
「暗がりでよく見えなかったみたい。子どもとしか書いてないわ」
 郁奈から手渡された手紙には確かにそう書かれていた。どうにも頼りない情報だが、それでも書いておいたということは、よほど重要な情報なのだろう。
「しかし、子どもに会ったら即逃げろとは……」
 目の前に一人、ちんまいのがいる。
 零次の視線に気づいた郁奈は、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、もしかして私が怖い?」
「いや。その悪そうな顔見ると逆に安心する」
「むー」
 脹れっ面の郁奈と一緒に、涼子の部屋を出る。ここも監視されているかもしれない。さっさと離れて、当初の予定通り異邦隊の資料集めに戻るべきだ。
 郁奈とは、まだ父のことを話せていなかった。話すタイミングが掴めないまま、ずるずると先延ばしにしてしまっている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんは、今何のためにこうしてここにいるの?」
 郁奈はこちらを見ていない。小さな背中からは、微かな寂しさを感じる。
「私は、今も不安なの。私の周りにいる人たちを助けたい。そういう思いでここにいるはずなのに、ふと気付いたら、無駄無駄って諦めかけてる自分もいる。そんな自分がどうしようもなく嫌になるの」
 何千何万もの世界で繰り返された悲劇。この世界でなら防げる、なんて保証はどこにもない。郁奈は人より多く悲劇を見過ぎた。だから、何とかしたいという思いと、どうにもならないという気持ちの両方が人一倍強いのだろう。
「正直、俺もどうにかなるなんて思ってない。それでも、何もしないで後悔するよりは納得出来る、と思っている」
「納得するために戦ってるの?」
「それがすべてじゃないがな。根っこのところにあるのは、くだらない理由なのかもしれない。自分でも上手く言葉には出来ないが」
 二年前、涼子や梢には大きな借りを作ってしまった。二人はそんなこと気にしていないだろうが、零次としては返さないと気が済まない。返して、二人と対等なところに立ちたい。そんなつまらない意地がある。
 こういう心境は、遥や亨ならば分かってくれるかもしれない。
「理由は些細なものでもいい。出来る保証なんてなくたっていい。保証されてることなんて、実際はほとんどないんだからな。ただ、やってやろうという気持ちは大事にしたい。郁奈はどうだ?」
「うん。私も同じ」
 郁奈が振り返る。その表情は明るかった。
「今のお兄ちゃん、ちょっとパパに似てた。言葉とかは全然違うけど」
「パパ?」
「うん。お父さんじゃない方」
 それが誰を指しているのかは、言われなくとも理解できた。
「郁奈」
「なに?」
「今回の件が片付いたら、パパのことを話そうか」
 口に出してしまうと、案外楽になれた。

 式泉運命の蔵書は難解だった。一般的な知識は役に立たない。冷夏から魔術の基礎は学んだが、それでも運命の資料は敷居が高い。中学生が大学教授の論文を読むようなものだ。
 だが、まったく分からないわけではない。コツを掴んでしまえば、連鎖的に理解できるようなところもある。運命のまとめ方が、涼子とよく似ているからだ。
 泉の里に到着する前に、一通りは頭の中で整理しておきたかった。常盤に聞いてみたいこともあるし、運が良ければ未了と鉢合わせすることも出来るかもしれない。
 幸いと言うか、時間はたっぷりあった。魔術同盟に感づかれないよう、かなり遠回りをする格好で泉の里に向かっているからだ。
 不思議なもので、この異空間にいると食事や睡眠は一切必要がなかった。だから、不眠不休で蔵書を読み漁っていてもさほど疲労は感じない。
 どうしても分からないところは、彼を通して古賀里白夜に尋ねた。白夜は特に渋る様子もなく、教師が教え子に言い聞かせるように説明してくれた。
 彼と白夜は、用事がなければ口を開かない。自然、涼子も黙々と作業を進める形になる。特にそれが苦になる雰囲気ではなかった。
 気になるのは、定期的に周囲で繰り広げられる別世界の映像だ。ノイズ交じりでよく途切れるが、様々なパターンで自分や梢たちが死ぬ光景が続いていく。一つとして同じ内容ではないが、よく似てはいた。延々とリテイクが繰り返されている映画のようで、段々気分が悪くなってくる。無視しようとしても、自分の身近にいる人々が死に続ける様を完全に放っておくことは難しい。少なからず意識してしまう。
 自分の死に様も何度か見た。彼が直接目にした機会がほとんどないだけで、どの世界の冬塚涼子も命を落としているらしい。死亡率は梢と並んで百パーセントだそうだ。
 彼は自分をここに閉じ込めている理由を、勝手な真似をされて事態が悪化しないようにするため、と言っていた。本当は、自分を死なせまいとしているのではないか。
 聞いてみようとは思わなかった。ただ、そんな気がする。それで十分だった。
「式泉運命の蔵書から、何か分かった点はあるか」
 獣道を歩きながら、白夜が尋ねてきた。引っかかる点はあったが、確証はない。だからまだ胸の内にしまっておくことにした。
「気になる点はあるが、まだまとまっていないそうだ」
 彼がこちらの言葉を代わりに伝える。白夜は軽く頷いただけで、また背を向けた。
「そろそろ泉の里に到着する。確かあの里には結界があったな」
「御存知だったか」
「昔、一度だけ近くに来たことがある。結界は古いが良く手入れされていて、突破は難しそうだった。結局、そのまま戻った」
 何のために来たのかは語られなかった。なんとなく察しはつく。
「結界は今も維持されているのだろう。どうする、一時的に冬塚涼子を出すか」
「強行突破出来ないこともないが、事を荒立てると後々手間になるな」
 そう言いつつ、彼は答えるのを渋った。やはり涼子を出したくないらしい。
「待て」
 白夜が片手を上げて彼を制した。
 彼も何かに気付いたようだ。警戒心が涼子にまで伝わってくる。
 一分ほど、誰も動かなかった。風が森の木々をざわめかせる。
 やがて一人の女が姿を現した。会うのは初めてだが、涼子はその女が何者か既に知っている。彼の映像を通して、何度もその姿を見ていた。
「――真泉未了か」
「貴方達の素性を伺いましょう。泉の里を目指す目的も」
 白夜の問いかけには答えず、未了は冷たい言葉を向けてくる。単に相手を警戒しているだけではない。そこには明確な敵意があった。
「姿を見せたということは、わしらを打ち払う準備は整っているようだな」
「そう取っていただいて構いません。ですから、私の質問には素直に答えなさい」
「わしは古賀里白夜。こっちのは久坂零次の分身みたいなものだ」
「分身?」
「久坂零次の中には悪魔がいた。その正体がこやつよ。今は勝手に抜け出してきているようだが」
 未了は白夜の言葉を受けて、視線をこちら――つまり彼の方に向けた。
「では久坂零次の分身である貴方に尋ねます。貴方の目的は。それと、冬塚涼子という娘をどうしました」
「土門荒野の復活阻止。そのための情報収集が俺の目的だ。彼女は現在俺の中にいる。別段危害は加えていない。彼女の異法が妙な形で暴走されると困るから、異界化している俺の内部に入ってもらっている」
 彼の言葉を聞いても、未了は敵意を納めなかった。言葉だけで信用できる話ではないのだろう。
「私は先日ここに戻り、私の娘たちが土門荒野の件について動こうとしていることを知りました。そのため仲間に使い魔で娘たちを監視させていたのです。娘の一人は草薙樵に襲撃され、重傷を負いました」
 遥のことに違いなかった。どれくらいの傷を負ったのか。命に別条はないのか。
「ねえ、ここから一旦出して。私の力が妙なことになりそうになったら、すぐにまたここに戻るから」
「しかしな」
「お願い。それに、私が出ていかないと話がこじれるわ」
 一理ある、と判断したのだろう。
 彼の溜息が聞こえたような気がしたかと思うと、目の前が一瞬明るくなった。
 目を空けると、そこは異質な空間の中ではなかった。獣道の中に自分は立っている。隣には彼や白夜が、そして正面には真泉未了がいる。
 涼子の姿を認めたことで、未了の敵意はふっと消えた。自分のことを心配してくれていたのだと思うと、やはり嬉しかった。
「涼子、ですか」
「……う、うん」
 思わず出してくれと行ったものの、それは不意の再会となることを失念していた。母親だということは理解しているが、どう声をかけて良いか分からない。優香のときも似たようなものだった。遥は姉と知らずに会ったから、こういう感じはなかった。
 未了も何を言うべきか迷っているようだったが、少し息を吐くと意識を切り替えたのか、表情を切り替えた。
「会えたことは嬉しく思います。しかし貴方はこの件から手を引くべきです。危険も付きまといますし、貴方に後味の悪い思いをさせるかもしれない」
「周りの皆が困ってる。それを放っておいたら、どのみち後味悪いと思うわ」
「死ぬかもしれませんよ」
「十中八九、死ぬとは思う」
 それは嫌というほど知っている。彼の中にいるとき、散々思い知らされた。
「でも、ここで逃げたらそれはそれで死んだも同じ。そう私は思ってる」
「死なせんよ」
 彼が口を挟んできた。
「絶対とは言えない。しかし約束する。冬塚涼子は死なせない。倉凪梢もだ」
 未了は涼子と彼を見て、沈思しているようだった。
「考えても始まらぬよ、泉の姫君。わしらと敵対せぬのであれば、まずは里に通してもらえるとありがたいがな」
 白夜の後押しで、未了はとうとう頷いた。
「貴方たちを敵ではないと判断したわけではありません。そう見なしたときは容赦しませんので、ご了承を」
「……ふん、頑固じゃの。相変わらずだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
 白夜は視線を逸らして、話題を打ち切った。

 あれから数日が経過した。
 定期的に榊原には連絡を入れている。向こうは特に変わりはないらしい。亨は梢や遥を探しに行きたいのを抑えているようだった。事態が事態なだけに、榊原や美緒を置いて出かけることはできないのだろう。亨が自由に動けるよう手は打ってあるが、まだしばらく時間が必要だった。
 零次も二人の行方は気になったが、手掛かりがなさすぎた。あてもなく探し回るよりは、二人を信じて自分のやるべきことをやった方がいい。
 涼子にも定期的に連絡しようと電話をかけているが、ずっと繋がらないままだ。無現は彼女に危害を加えていないだろう、というのが唯一の安心材料である。
 零次と郁奈は久坂源蔵の拠点をいくつか回ったが、興味を引くような資料はなかなか発見できずにいた。時折視線を感じることもあり、そういったときはすぐ遠くに逃げるようにしていた。
「どうでもいい資料多過ぎるわ」
 郁奈も進展しない状況に辟易しているようだった。
「どうでもいい、というわけではないと思うがな。随分と手広くいろいろなことをやろうとしていたんだろう」
 世界各国の組織とも非公式な繋がりを持っていたらしい。異法隊本部が知ったら頭を抱えそうな繋がりもいくつかあった。改めて久坂源蔵の底知れなさを感じる。
 十一月が始まって間もない日、九州南部の山中の拠点に辿り着いた。
 遠目から見る限り、壁も破損して中が覗けるような廃屋だった。作りも現代風ではない。百年以上前のものかもしれない。
 そこに、ちらりと何かが見えた。動くもの。人かもしれない。
「郁奈。お前はここを動くな」
「誰かいたの?」
「それを確認する」
 魔術同盟の人間が先回りしていた可能性はある。父の拠点を知っていたのが古賀里白夜だけとは限らないのだ。
 梢ほどではないが、零次も気配を断つ術は心得ている。海外にいた頃は、危険な場所への潜入任務もいくつかこなしたことがあった。
 音もなく屋根に飛び乗り、いくつか空いた穴から中を覗き見る。
 こういう緊張感は久しくないものだった。あるとき、自分の頭部が悪魔化すること、千里眼とも言うべき不思議な力を持っていることに気付いた。以降、偵察は遠距離から見るだけで済むようになった。
 ……思えば都合のいい力だったな。
 必要に応じて透視暗視が出来るような凄まじい視力の眼。それさえあれば楽に任務が出来るのに、と思っていた矢先に発現した。
 だが、あれは無現の力だ。出せるはずもない。
 室内は暗くて良く見えない。甘えと分かっていても暗視が欲しいと思ってしまう。
 ぐにゃりと視界が歪んだ気がした。そして、微かに暗中で動く何かが見えた。
 千里眼とよく似た感覚だ。しかし千里眼ほどは良く見えない。普段より微かに見えるという程度だ。
 ……どういうことだ?
 考えてみれば、無現――別世界の自分はなぜ千里眼を持っていたのか。
 あれは無現の力ではなく、元々久坂零次に備わっていた力なのか。
 そういえば、ここに来る途中、郁奈が言っていた。
『お兄ちゃんはまだ、自分の力についてよく理解してないみたいね』
 どういうことだと聞いても、説明するより気付く方が早い、と話をはぐらかされた。もしかすると、これがそういうことなのか。
 考えている間に、眼下の気配がぴたりと動きをとめた。
 なんだ、と思う間もなくそれは飛びかかって来た。
 人間。若い男だ。拳が飛んでくる。それを咄嗟にいなした。
 触れたところに凄まじい痛みが走った。直撃は避けたはずだ。しかし痺れる。
 男の拳は陽光の輝きを纏っていた。おそらく魔力を集中させているのだろう。そしてそれが何か効果を持っている。
「お兄ちゃん、その男――!」
 郁奈が遠方から何か叫んだ。しかし声は途中で聞こえなくなった。
 轟音。どこかから何かが飛んでくる。
 紅の矢。実体ではない。凝縮された魔力が矢の形になっている。
 零次は咄嗟に避けた。眼前の男の拳と似たような何かを感じた。触れるのはまずい。
 宙に浮いた男と目が合う。見たことのない顔。そして、明確な敵意の表情。
「久坂、零次っ……!」
 男は身体を捻り、こちらの頭目がけて拳を叩きこんでくる。避けることはできない。それより早く、男の腹に蹴りを入れて距離を取った。
 横合いから散弾銃の如く魔弾が飛来する。零次は咄嗟に廃屋の中へ飛び込んだ。
 ……ナイフ。
 強く念じて、魔力を集中させる。すると、小型のナイフが右手の中に現れた。
 入口から飛びこんでこようとした男の腕を狙って、ナイフを投げつける。予想外の攻撃だったのか、男は避けるのが遅れた。二の腕にナイフが突き刺さる。と同時に砕けて消えた。
 ……脆い。
 もしやと思って試したが、どうやら自分にはイメージを形にするような力があるようだった。自分の力は悪魔を解放するものだとばかり思っていたから、まだ半信半疑といったところだ。
 しかし、悪魔の正体が他の世界の久坂零次だとすると、千里眼や翼に宿った風の力は他の世界の久坂零次が持つ力ということになる。世界が違えど同じ久坂零次だ。同じことができるのでは、という期待はあった。
 同じようなことはできる。しかし力が足りない。悪魔の力は数多の世界の零次たちの力が結集したものだ。自分一人の力では、出力が圧倒的に不足している。
 ……まぁ、汎用性を考えるとこれくらいのデメリットは妥当か。
 右腕を抑えたまま、男は一時的に撤退した。郁奈の安全を考慮すると、早めに決着をつける必要がある。
 零次は躊躇わずに男を追った。廃屋から出たところで、魔弾が降り注ぐ。横に跳ねて避けながら、零次は鏡をイメージした。手の中に鏡ができたことを確認し、魔弾が放たれた方角に向ける。
 鏡による日の光の反射。それで狙撃手の目を狙った。期待通り、魔弾がやむ。
 左手だけで構えた男に向かって、零次は手にした鏡を砕いて投げつけた。咄嗟に男は顔を守った。隙が出来た。足を払って男を倒し、その頭に手刀を叩き込む。相手を無力化するときは、こうやって脳に衝撃を与えるのがいい。男はその場に崩れ落ちた。
 間髪入れず、零次は魔弾の狙撃手の元に飛んだ。日の光からは立ち直っているだろうが、まだその場を離れてはいないはずだ。
 予想通りいた。木の陰に隠れている。セミロングの女だ。
 女は一瞬抵抗するような素振りを見せたが、それより早く零次に気絶させられた。
 零次はそのまま女を担いで廃屋の前に戻った。郁奈がどこからか縄を調達して、男を縛っているところだった。
「お兄ちゃん、この二人」
「知っているのか?」
「古賀里夕観と相方のフィストよ。草薙樵の仲間」
 零次は思わず周囲を警戒した。しかし他の気配は感じられなかった。
「草薙はいないようだな」
「と言うより、この二人がここにいる理由が分からない」
 郁奈は首を傾げている。
「この二人は一応魔術同盟に関わりのある魔術師だから、他の魔術師たちと同じように私たちと追ってきたっていう可能性もあるわ。でも、ちょっと納得しにくいのよね」
「なんでだ?」
「この時期、そろそろこの二人は草薙樵を巡って魔術同盟と袂を分かつ頃なのよ。その後は大抵梢を狙って独自に動き始めるの」
「この世界では、そうならなかった。そういうことではないのか?」
「……うーん、だとしても」
 何か腑に落ちないのだろう。郁奈は鋭い眼差しで気を失った二人を睨んでいた。
 そのとき、妙なことが起きた。縛られていたはずの夕観とフィストが、突如姿を消したのである。
 目を離したわけではない。ずっと見ていた。なのに、いつ消えたのかが分からなかった。まるで最初からそこにいなかったかのような気さえしてくる。
「郁奈」
「うん。今、何かが起きてる」
「だがどういうことだろうな。今の二人、別に操られていたようには見えなかったし、幻覚の類でもなさそうだったぞ」
「ねえ、どうする? ここで迎え撃つ? それとも一旦退く?」
 状況がさっぱり分からない以上、撤退した方がいいかもしれない。梢なら迷わず逃げていただろう。
 だが、これは好機でもある。これが何者かの襲撃なら、襲撃を受けている今こそ、敵の正体を掴む絶好の機会なのだ。
「迎え撃つ。郁奈は俺の側を離れるな」
「……うん」
 愚かな選択だったかもしれない。だが愚直で粘り強いのが自分のスタンスだ。
「――逃げないか。ならば、こちらも全力を以て挑む必要があるな」
 どこからか声が聞こえた。まだ幼い声。涼子が残したメモを思い出す。
 ……子ども?
「物事を成し遂げるのに試練はつきものだ。皆が試練に挑み、数多の選択を迫られる。その先にある可能性も見えないままに」
 声は上から聞こえてくるようでもあり、後ろから聞こえてくるようでもあった。
「こういう可能性も見えていた。だが、予想以上に貴様は厄介な存在だ、久坂零次」
「誰だ!」
 声を上げて反応を見る。しかし周囲の気配に変化はない。
「榊原遥は重傷を追って死にかけ。倉凪梢はあと一押しで堕ちるだろう。そうなると厄介なのは、答えを導き出しかねない冬塚涼子か、久坂零次、貴様のいずれかだ」
「……」
 気になる言葉が出てきたが、脇に押しやった。誘いかもしれない。
「最初は冬塚涼子を消そうと思った。貴様らの中では、厄介な割に一番貧弱そうだったからな。しかし貴様の分身がついている。あれは普通にやって殺せるかどうか分からない。だから、まずは本体である貴様を叩くと決めた――」
 そのとき、零次の全身からぶわっと汗が出た。拭い難い悪寒が全身を包む。
 周囲。囲まれている。子ども。いや、違う。
 子どもたち。二十人はいる。皆同じくらいの背丈で、同じように帽子を目深に被っている。そこから覗く眼差しは、いずれも深い闇を連想させた。
「本来ならこうして姿を見せるのは本意じゃない。それでもあえて晒す。この意味が分かるか、久坂零次」
 全員が一斉に口を開き、同じ声で話す。幻覚のような不明確さがない。こいつらは確かに揃ってここにいる。
「郁奈、お前だけでも逃――」
「僕に見える『可能性』はただひとつッ! 貴様らの死だけだ、久坂零次ッ!」
 白銀。子どもたちの手から、短い刃が一斉に放たれた。
 視界を覆い尽くす刃の雨。見えたのは、それだけだった。