異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
冬塚涼子と久坂零次の章「久坂零次と追跡者」
 時間が止まったと思った。
 自分たちに向かって放たれた無数の刃。小型のナイフから、ノコギリ、鍬、日本刀まである。
 避けられない。だから、郁奈を庇おうと彼女を抱きしめた。
 だが、刃は自分たちの元に届かなかった。すべて空中で静止している。
 郁奈の呼吸が乱れていた。びっしりと汗をかいている。
「まさか、これは……」
 先日、霧島の力を使ったときと同じだ。郁奈が止めた。見えない何かで。
 久坂源蔵の不可視の引き手(インビシブル・プレッシャー)。引力を自在に操る、零次が知る限りトップクラスの異法。
 それを郁奈が使っている。にわかには信じ難い気がした。だが、この状況はそうでもないと説明がつかない。
 郁奈はそこで力尽きたらしい。零次に向かって何かを言おうとしたが、言葉にならず昏倒した。
 彼女の身体を抱きかかえると、零次は迷わず正面に向かって駆け出した。子供たちが四人。初撃に失敗した衝撃はないらしい。憎たらしいくらい冷静に、こちらを取り囲もうとする動きを見せる。
 躊躇している余裕はない。零次はナイフをイメージし、出来上がったそれを正面の一人に投げつけた。その隙に別の一人を蹴りで払う。その勢いを消さずに滑り込み、一気に跳躍した。
 足に凄まじい負荷がかかるが、子供たちからは一気に距離を取った。
「逃がすと思うのか、姿まで見せたこの僕がッ!」
 追って来たのは一人だけだ。否、一人しか姿が見えない。
 あれだけいたはずの子供たちは、最初からいなかったように消えてしまった。
 ……分身する異法か?
 微かながら異法人同士の共鳴を感じる。相手が異法を有しているのは間違いないだろう。ただ、それが本当に単純な『分身』の力かと言われると、何か違和感がある。
 無論、零次は逃げるつもりなどない。
 ……追って来い。お前の能力を見極めてやる。
 思った矢先、子供の姿が不意に消えた。速さとは違う。瞬間的に消えた、というのも何か違う。
 ぞっとして、深く身を伏せた。何かが背中を掠る。後ろを見る。映ったのは鉈だ。更に、足に痛みが走る。どこかから足を切られたらしい。踵の辺りからざっくりと血が流れている。
 ……どういうことだ。
 零次は戦い慣れしている。梢のように隠れている相手の気配を探る術には長じていないが、戦いの中で敵の気配を見落とすことはない。だが、その零次を以てしても、この相手は気配が掴めない。したかと思えば消える。どこにもないようであり、同時にいくつもの場所にあるようでもある。
 ただ逃げるだけでは嬲られて終わりである。零次は翼をイメージした。以前とは比べものにならないくらい小さな翼が背中から生えたのを感じる。そこから発することができる風も微弱なものだ。
 だが、周囲に風を吹かせることで、自分に近づく気配を読みやすくなる。レーダー代わりだ。
 左後方、そして真下。二ヶ所同時に気配がした。
 零次は腹を決めて、足元の気配を踏み抜いた。そのまま身体を反転させ、後方の気配に備える。
 足に鈍い痛みが走る。何かが貫いた。だが、そちらを見ている余裕はない。
 背丈からすると不釣り合いとしか言いようのない大斧。子供が、それを振り上げている。
「良い目だ。覚悟を決めた目だな」
 無感動な表情で子供が呟く。それと同時に、またしても子供の姿が消えた。
「しかしそれでも――貴様が勝つ可能性はないッ!」
 消えたと思った子供が、もう一度目の前に現れた。またどこか別の方向から現れるだろう、と思っていた。そのため、反応が僅かに遅れる。
 零次の脳天目がけて、斧が振り下ろされた。

 自分には決定力がない。昔からそう感じ続けていた。
 人の後押しがないと何も決められない。母に連れられ逃げ続け、周囲に流され異法隊に属し、涼子や梢がきっかけで日常に身を浸すようになった。
 だから、ここ一番で踏ん張ったことがない。自分で何かを決めた人は、ここ一番の踏ん張りが凄まじい。涼子は異法人たち相手に一歩も引かなかった。梢もどれだけ危険な状況でも諦めなかった。一見無茶に見えるその踏ん張りが、周囲を衝き動かした。
 自分にはそういったものがない。だから出来るのは、周囲と相談して、何をすべきか悩み続けることくらいだ。
 だから久坂零次は、正解を見失ったとき――人に助けを求められる。
「郁奈っ……!」
 頭に食い込む嫌な感触を覚えながら、零次は叫んだ。その瞬間、世界が遅延した。
 霧島直人のモルト・ヴィヴァーチェが、零次を加速させたのだ。
 斧が脳髄に達する前に一歩引く。左足が思うように動かない。見ると、そちらには槍が突き刺さっていた。強引に引っこ抜く。
 そこで時間は元に戻った。郁奈も限界を越えて力を行使したのだろう。腕の中の身体は、不安になるくらい軽く感じた。
 子供が小さく呻いた。目を押さえている。零次の左足の血が飛んで入ったらしい。偶然が生み出した好機を、零次は見逃さなかった。
 イメージで生み出したナイフを投げつける。それが、子供の額に突き刺さった。
 零次はそれだけで済ませなかった。その場から離れつつ、次々とナイフをイメージして全方位に投げ続けた。あれであの子供を倒せたとは思えない。
 確証は得ていないが、いくつか直感的に理解した部分がある。
 各個体の動きにはばらつきがある。各々が独立した意識を持って動いている、ということだ。しかし、出現したり消えたりするタイミングには統一された意思を感じる。
 リーダー役がどこかにいる、ということだ。
 もう一点気になったのは、個体が消えた後に生じる違和感だ。消えたとしか言いようがないからそう表現しているが、どちらかというと『最初からいなかった』という気がする。しかし頭部と足、複数の個体から受けたダメージは確かにある。各個体の存在が幻覚の類ということはないだろう。
 零次は大きく迂回して、源蔵の拠点に戻った。追跡の気配はない。
 やや危険な賭けだが、ここにある資料をある程度回収しておきたかった。偶然かもしれないがこの拠点で襲われたこと、そしてフィストと思われる男がこの中で何かをしていたことが引っかかった。ここには他の拠点と違う何かがあるのではないか。
 土門荒野の問題を解消する手掛かり。
 あの子供の正体。
 だが、薄暗い小屋の中を強化した目で見ても、それに繋がりそうなものはなかった。ただ、いくつか個人的に気にかかるものはあった。
 それに手をかけようとしたとき、小屋の中に煙が入り込んできた。
 ……焦げ臭い。焼き殺す気か!?
 慌てて外に出ようとしたが、見計らったかのようなタイミングで炎が室内に舞い込んできた。そんな時間はなかったはずなのに、気付けば小屋の周囲は火で覆われている。明らかに不自然な現象だった。
「貴様の執念には敬意を表そう。だが無駄だ。貴様が逃げ切る可能性はないッ!」
「どうかな」
 どこからか聞こえてきた子供の声に、零次は聞こえるか聞こえないか程度の声で応えた。
「可能性とは常に無限の広がりを持つ。あるのはせいぜい近いか遠いかの違いだ」
「貴様が逃げ切る可能性は遥か彼方だ。到達はできん」
 今度はすぐ近くで声が聞こえた。
「お前という壁があるからだろう。飛び越えればいいだけだ」
 零次は身を屈めた。僅かな差で、胴体があった場所をノコギリが通過する。
 だが、零次は避けるために身を屈めたわけではない。
 ……一気に飛び抜ける!
 イメージを固める。自身の百倍の高さまで到達するための脚力を。
 瞬間的にではあるが、零次の足が盛り上がった。ズボンで隠れてはいたが、色は漆黒に染まっている。悪魔の力を解放したときに近い状態となった。
 大地が揺れる。空気の壁が、小屋の天井が僅かな抵抗を示す。それらを突き破って、零次は遥か上空へと飛び上がった。
 眼下では燃え盛る小屋と、天井に空いた穴からこちらを睨む子供の姿があった。
「知っているぞ。今の貴様には自由飛行するだけの力を持った翼を出すことができないことを。落ちて来い、そのときが貴様の最後だ」
「いいや、俺は落ちない。どうやら耳はさほど良くないらしいな」
 零次は更に上空を見上げた。
 少し離れたところにヘリコプターが見える。訓練中なのか遭難者の救助をしに来たのか、目的は定かではない。
 子供もヘリコプターに気付いたらしい。
「あれに乗って逃げるつもりか。だが、届くまい」
 ヘリコプターは地上二百メートル辺りのところを飛んでいる。だが、零次がいるのはせいぜい百メートル前後のところだ。高さがまるで足りていない。
 しかし、そんなことは零次も想定済みである。彼は闇雲に飛んだわけではない。
 零次の左腕は、彼が背負っていた鞄のサイドポケットに入っている。そこから出てきたのは、先端にフックのついたワイヤーだった。それを零次はヘリに向かって投げた。
「馬鹿め、そんなものが届くはずが……」
「届く」
 イメージする。長々と伸び続けるワイヤーを。百メートルでも二百メートルでも伸び続けるワイヤーを。
 到底届かない距離だったにも関わらず、ワイヤーはヘリの足に引っかかった。
 零次の対応を目の当たりにした子供は、眼球が飛び出しそうな勢いで目を開いた。眼光には暗い怒りが充満している。
 しかし、強化しきった零次の脚力でも届かなかった高さである。どう足掻いても届くはずはない。
 執拗な追撃は、高さによって阻まれたのだ。
「……お兄ちゃん?」
「郁奈か。すまんが、しばらくは動かないでいてくれ」
 目覚めた郁奈は、今の状況に少し驚きを見せた。
「なにこれ。どういう状況?」
「通りかかったヘリを利用して逃げているところだ。適当なタイミングで降りよう」
「……そうだね。早く手当てしないと」
 零次の左足は、槍を強引に抜いたせいで大きく裂けていた。頭部から顔にかけても斧で斬りかかられたときの傷が残っており、今も血が流れていた。どこからどう見ても重傷である。
「助かった。郁奈には二度も助けられた」
「二回? えっと、攻撃弾き返したのと……」
「その後、加速能力で俺を助けてくれただろう」
「……そうだっけ。全然覚えてない」
 郁奈は腑に落ちないようだった。無意識のうちにやったのだろうか。
「しかし、いくつか分かったことがある」
「なに?」
「一つは、あの子供は本件の黒幕もしくはそれに準ずる者だということだ。俺を襲ってきたこと、倉凪たちのことを知っていたということから、それは間違いないと思う。単なる魔術同盟の追手ではあるまい」
「答えを導き出す、とか言ってたね」
「ああ。おそらく奴は答えを知っている側なのだろう。そのうえで俺たちを潰しにかかってきた。そうなると、土門荒野を復活させようとしている黒幕側の人間と考えるのが自然だと思う」
「あんな子供が?」
「お前は人のこと言えないだろう。おそらく、奴は見た目通りの子供ではあるまい。あの凄味、あれは数多の修羅場を潜り抜けた者だけが持つものだ」
 未だに正体が掴めない能力もそうだが、何より恐ろしいのは暗い怒りと執念深さだ。おそらくあのままだと、どこまで逃げても追ってきたのではないか。
 あのザッハークが高みから他者を圧する暴君だとするなら、あの子供は無限に地の底から湧き続ける悪霊のようなものだ。暴君はまだ形あるものだから、運が良ければ倒せるかもしれないし、逃げてしまうという手もある。しかし悪霊相手にはどうすればいいのか見えてこない。今も逃げ切れるかどうか不安だった。
「お兄ちゃん。手当てが済んだら、戻った方が良くない?」
「幸町さんから連絡がまだ来ていない。魔術同盟の追手が気にかかる」
「でも、あいつの言葉が本当なら遥たちが……」
「行かないとは言っていない。ただ、いろいろ手は打っておかないとな」
 戻るにしてもどう戻るかだ。
 零次は脳裏に、様々な光景を思い浮かべた。その途端、ワイヤーが急に薄くなった。身体がガクンと下に落ちる。
「お兄ちゃん?」
「……俺の力は『思い浮かべたものを形にする』ものらしいが」
「う、うん」
「形になったものを維持するのは、なかなか難しいな」
 ワイヤーの延長部分――先程零次が作り上げた部分の存在が、希薄になっているのを感じる。
 零次の発言に不穏なものを感じた郁奈が、真下を見た。地上は遥か彼方だ。
「……意識! 意識集中させて! 他のこと一切考えなくていいから!」
「こういうとき、落ちたらどうしようって考えてしまうよな。さすがに俺たち異法人でも、この高さから落ちたらやばいよなぁ」
「いいから! ワイヤーに全神経集中させて!」
 結局、二人は十分後に郊外の鉄塔に着陸した。その間、郁奈は生きた心地がしなかったという。