異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
Walk Together「式泉運命」
 渇く。
 とても渇いている。
 喉ではない。全身がすべからく渇ききっている感覚だ。
 何もかもが浸透して来ない。染み渡らない。この身はあらゆるものを弾いてしまう。この世界に、この身は馴染まない。
 異物なのだ。私はこの世界のものではない。
 では何なのだ。
 私は何なのだ。
 私は――。

「運命」
 呼ばれた。
 寝惚け眼で身を起こす。どうやら自分は寝ていたらしい。
 何か応えないと。だが、誰だ。相手は誰だ。
 思い出すより先に口が動いた。
「ああ、常盤か」
 視界がはっきりしてくる。声からは想像できないくらい若々しい女性が目の前に座っていた。
「どうしたんだ、何か用事か?」
「あんたに呼ばれてきたんだけどねえ」
「あれ、そうだっけ」
「呼び出した側が忘れてるんじゃないよ。まったく、こっちも暇じゃないんだ」
 常盤の声が若干険しくなる。どうも怒っているらしい。
 確か彼女は翼人の里を追放された後、あちこちをさすらっていたはずだ。特に定職にも就いてないはずだし、そんなに忙しいのだろうか。
「あんた、今すごく失礼な想像したでしょ」
「まあそれはともかくとして」
 話を逸らす。口では彼女に勝てない。
「用件。ああ、用件。思い出した」
 とても大事なことなのに、寝惚けていたとしても、なぜ忘れていたのか。
「土門荒野のことだ」
「……」
 その名を口にした途端、常盤の表情が引き締まった。
 ――その名を聞いた途端、なぜか胸が痛くなった。
「あんたが司郎と何か企んでるのは知ってる。あたしや未了に隠れて、ね。それにあたしも一枚噛ませてもらえるのかい?」
「いや」
 強く頭を振る。
 その企ては許されざるものだ。関わる面子は少ない方が良い。
「常盤に頼みたいことは別にある。この里のことだ」
「泉の里?」
「そうだ。いろいろ手は打っているけど、俺の中の土門荒野から、この里を守りきれる自信はない」
「だから守れと」
「いざというときの始末は司郎に頼むつもりだ。直接守ることはしなくていい。常盤はあまり戦闘向けじゃないから、死なれるようなことになったら困るし」
「じゃあどうするんだい」
「すべてが終わったあと、ここを守って欲しい」
 言われても、常盤は答えなかった。
 言葉の意味が分からなかったわけでもないだろう。ただ、彼女は訝しげな表情を浮かべている。
「……一つ聞いてもいいかい?」
「ああ」
「なんで守る必要があるんだい? あんたにとってここは――そんな価値のある場所なのかい」
 今度は、運命が黙る番だった。
 物心ついた頃からあった疎外感。
 異法人としての性質のせいで一部の魔術がうまくできない。その理由もはっきりしていなかった幼少期、運命は里の者たちから劣等生として扱われていた。
 独自に調べて自分の性質を把握してからも、その劣等感は消えなかった。結局魔術師として大成できないことに変わりはない。魔術の里においては、超常的な身体能力も圧倒的な異法という超能も、さして価値を持たない。魔術師として大成できるかどうかがすべての世界だ。
 泉の里は運命の故郷だが――泉の里にとって運命は異物だった。
 今となっては恨みなどないが、強いて守りたいと思えるような場所でもない。
 いつ土門荒野化するか分からないから、念のためここから避難するよう里の長たちに話はしてみた。しかし魔術の研究の適した土地というのは希少だという理由で却下された。
 運命の方がここを離れるということも考えたが、行き先にあてがなかった。いつ土門荒野が現れてもいいような場所となると、そうそうない。人里離れた地でないと一般人を巻き添えにしてしまう恐れがある。できれば強固な結界も欲しい。いざとなれば土門荒野の動きを防ぐのに役立つからだ。
 そう考えると、泉の里は土門荒野が発症したときに対応しやすい土地なのだ。他に有力な候補があれば良いのだが、今のところ見つかっていない。
 つまるところ、運命にとって泉の里はその程度の位置づけだった。離れられれば離れてもいい。使えそうなら使う。その程度のものだ。特に思い入れもない。
「ここは、俺にとってそこまで価値のある場所ではない」
「じゃあ、なんで?」
「……俺の大切な人たちにとっては、大切な場所だからな」
 運命自身はここに思い入れはない。
 しかし、ずっと泉の一族を見守ってきた未了、普通に生まれ育っていた文次郎、それに子どもたちや八島、秋河、冬塚たちにとっては違う。自分のまわりにいる人たちは、この里を大切にしている。大切な人たちが大切にしているものは、守りたい。
「特に未了さんには、すべてが終わった後に帰れる場所が必要だと思う。だから」
「成程。納得したわ」
 その辺でいいと言わんばかりに、常盤は手を振った。
「あんた、本当に他人――というか未了が基準なんだねえ」
「まあね」
 否定はしない。
「俺には本当に何もなかったから。できることもない。やりたいこともない。死んだように生きて、そのうち本当に死ぬ。それだけの人生だと思っていた。それに少なからず意味を与えてくれたのが文次郎だし、初めてなんとかしたいと思ったのが未了さんと添い遂げることだから。俺が何かするときは、やっぱり周りのことが第一になる」
「歪んでるねえ。未了はあんたのそういうところが放っておけないみたいだし、司郎なんかは面白いと思ってるようだけど、あたしは正直あんま好きじゃないよ」
「歪んでるかなあ。まあ、常盤ならそうやって手厳しいこと言ってくれると思ったから話したんだけどな」
 賛同は得られないと寂しいものだが、得過ぎてしまうと胃もたれしてしまう。
 常盤は友人たちの中ではあまり運命とそりが合わないし、共通の趣味もない。
 いろいろ違うところが、逆に面白いと思っている。
「承諾したわ」
「え?」
「あんたの頼み。内容によっては蹴ってやろうかと思ってたけど、まあ……あんたのいう大切な人って、あたしにとっても大切な人たちだからね」
 普段なら少し照れ臭そうにしているところなのだろうが、そのときの常盤はどことなく寂しげに――そして温かく見えた。
「常盤ならそう言ってくれると思ってたよ。これは司郎やボンには頼めないからね」
 司郎は意外と人の好き嫌いが激しいところがあって、冬塚夫妻や八島夫妻に苦手意識を持っていた。そういえば運命の父ともやけに距離を取っていたように思う。もしかすると研究者という人種が苦手なのかもしれない。
 ボンに至っては神出鬼没過ぎて、肝心なときに頼れるかどうかが分からない。
 そういう意味でいうと、常盤はもっとも頼れる友人だった。
「俺は良い友人を持ったよ。喧嘩するのも含めて、楽しかった」
「……あたしはしばらくここには来ないよ」
 それは、今生の別れを告げる言葉だ。
「ああ、アフターケア頼んだのに何かあって死なれたら困るからね」
 本当は未了や子どもたちにもここから離れて欲しいくらいだが、そこはなかなか未了が譲ってくれなかった。彼女はまだどこかで、運命が助かる可能性を捨てきれないでいる。
「未了たちは大丈夫よ」
「……俺は何も言ってないけど」
「あんたの考えてることなんて分かるわよ。さっき未了基準だって言ったじゃない」
「なるほど」
 それを言われてしまうと、あとはもう何も言えない。
「達者でな」
 最後にそれだけ口にする。
 常盤はぽんとこちらの肩を叩いて、何も言わず、そのまま部屋を出ていった。

 景色が変わる。
 常盤と話していたときよりも、先か、後か。
 これは現在の景色ではない。思い出しているのだ。
 式泉家の縁側で、運命は桶の中の水に足を入れていた。
 初夏の蒸し暑さ。まだ蝉たちの鳴き声はあまり聞こえないが、容赦ない陽の光が、本格的な夏の訪れが近いことを告げている。
 隣に座っているのは上泉文次郎――後の陰綱だ。
「へえ、そうか。宮泉家の大旦那がねえ」
 運命は時折、文次郎から泉の里にある家々の話を聞いていた。自らはあまり積極的に里の者たちと関わりを持とうとしなかった運命だが、いつの頃からか、文次郎経由で情報を集めるようになった。
 文次郎は、式泉家に頻繁に出入りしている点を除けば、さほど里の中での評判も悪くない。むしろ勤勉で生真面目な性格から、老人たちには可愛がられているようだ。
「運命様は、少し柔らかくなられましたね」
「ん?」
「昔の運命様は、里の話をすると怖い顔をしておられました。里のことなんか苦手だしどうでもいい。俺には関係ない――いつもそう言って。その頃に比べると、随分と丸くなられたものです」
「どうかな。本質的には変わってないと思うぞ」
 始祖として神聖視されている未了を娶ったことで、式泉家は里の中で孤立している。優香は奇異の目で見られているし、未了のことを「血迷った」などと評する者もいると聞く。
 親しみは持てない。
 ただ、無関心ではなくなった。
「長泉の長、いただろう」
「……ええ。ちょうど優香様が生まれた頃でしたっけ。行方が分からなくなって、どこかで自害されたと」
「未了さんのことを始祖として人一倍尊敬してる爺さんだった。そういう見方が俺には正直理解できなかった。逆に爺さんの方も、俺の考え方は理解できなかったろう」
「お二人は真っ向から正反対なところがありましたからね」
 未了に対する考え方だけではない。すべてにおいて長泉の長は運命と正反対の人物だったと言えよう。
「あの爺さんのことは正直今でも苦手だしあんまり好きじゃないけど、あの人、未了さんとの結婚を認めてくれたんだよ。優香のことも、祝福してくれた。多分、あの爺さんの思想からすると受け入れ難いことだったはずなのに」
「確かに。とても意外でした」
「そのとき教えられた気がしたんだ。自分と違うものを否定し、拒絶する。それだけじゃ人は成長できない。嫌なものを見続けることで見えてくるものもある」
 それからだ。泉の里のことを文次郎から聞くようになったのは。
「直接会ってみるとやっぱり嫌な奴らだけど、お前の話を聞いて別の一面も知ってみると、少し見方も変わる。彼らも決してただ嫌な奴というわけじゃないんだろう。そう思えるくらいには、まあ変わったかもしれないな、俺も」
 文次郎のおかげだ、と胸中で付け加えた。間違っても口にはしない。
「なあ、文次郎」
「はい?」
「聞けるうちに改めて聞いておきたいんだけどさ。……なんでお前、俺なんかのところに来てくれてたんだ? 俺としては、嬉しかったけど」
 式泉家ははみ出し者の家だ。運命もそうだが、その父親も魔術師としてはかなり奇怪な振る舞いが多く、当時から変な家だと噂になっていたらしい。
 文次郎のような真っ当過ぎる者にとって、式泉家は足しげく通う場所というより、忌避すべき場所なんじゃないかという気がする。
 文次郎はきょとんとした表情を浮かべたあと、少しだけ目線を逸らした。
「別に、そんな大した理由ではありませんよ」
「大した理由じゃないなら教えて欲しいな。隠す必要もないだろ?」
「……そうですね」
 やがて、意を決したような表情で文次郎は口を開いた。
「僕は養子だったんです。上泉家の両親には子どもがいない。けど、上泉家は泉家の中でも名門だったから、後嗣を絶やすわけにはいかなかった。だから養子を取った。正直子ども心に自分の境遇が不条理だと思いましたよ」
 それはそうだろう。
 加えて、上泉家の家風は厳格かつ質実剛健。教育は相当厳しかったらしく、傍から見ていて気の毒だと思うこともあった。
「それに不満を言っても、上泉の両親からは叱責を受け、実家の両親からは魔術師として名家の後を継げるのは名誉なのだと言われるばかりでした。他の子どもとは遊ぶ時間もなかったから、愚痴を言える友達もできなかった。そんなときです。運命様が話しかけてくれたのは」
「俺?」
 最初に声をかけたとき、ということだろうか。文次郎には申し訳ないが、全然覚えていない。
「はは、その様子だと忘れてますね」
「あーいやいや」
「いいですよ。多分運命様にとってはそれほど特別なことではなかったでしょうし」
「……えーと、俺はなんて?」
「他の子どもたちに遊びに誘われて、でも両親からはそういう遊び全般を禁じられていたので、僕はそれを断ったんです。で、皆と別れて一人で歩いてた僕に、牛の上から声をかけてきたんです。お前も可哀想だな、と」
 とんでもなく失礼な第一声だった。露骨に苦い顔をした運命に対して、文次郎は微苦笑を漏らす。
「まあ、普通に考えれば怒るべき一言だったんでしょうけど、僕は不思議と腹立たしくなかったんです。そのとき僕は何も言い返せず、そのまま家に戻りました。それからです。運命様や式泉家のことに興味が出てきたのは」
 おそらく、文次郎の立場を可哀想だと思うような人は、この泉の里では運命くらいだったのだろう。運命としては思ったことをそのまま口に出してしまっただけで、失礼だとは思いつつ、虚言を吐いたとは思っていない。
「おそらく、あのとき運命がああ言ってくれなかったら、僕はとっくにどこかに逃げだしていたと思います。自分を理解してくれる人が一人でもいるというのは、それくらい救いになるんです」
 運命は答えなかった。
 ただ、心の中で、俺もだ、と呟いた。
 文次郎にはその声が聞こえていたに違いない。

 家の中にしか居場所はなかった。
 外にいるのは敵ばかりだ。同胞たちからは異端視される。外界の者たちは信じることができない。
 閉ざされた場所で、限られた相手にだけ心を開いていた。
 それは式泉運命の記憶か。
 あるいはもっと前の誰かの記憶か。
 気付くと、周囲は枯れた木々に覆われていた。
 泉の里ではない。こんな風景は見たことがない。
 生き物の気配がまったくしない、ある種幻想的な風景。
 どこか嘘臭い。これはきっと現実の風景ではないのだと思った。
「君には大切なものがあるか?」
 式泉運命の声がする。
 姿は見えない。だが、気配はする。
 こちらに見えていないだけなのか、相手にもう実体がないのか。
「大切なものは、ないのか?」
 もう一度問いかけられた。
「ある」
 ないわけがない。
 本当に何もないなら、自分はとっくに消えているはずだ。
 式泉運命が笑ったような気がした。
「そうか。それは――幸せなことだ」
「そうかな」
 大切なものがあるから、それを失いたくないという苦しみが生まれる。それを守ろうとして辛い目にあう。
「大切なものがあるというのは、とても怖い」
「その怖さも、苦しみも、辛さも。全部ひっくるめて、俺は幸せなんだと思う」
「……分からない。怖いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。辛いのは嫌だ。嫌だよ」
「嫌だけどさ。嫌だっていうところで終わらせなければ、その後でまた良いことがあるかもしれないだろう?」
「気休めだよ。そんなの分からない。嫌なことばかりが続くこともあるんだ。とても苦しいんだ。何度も何度も苦しんで、その挙句、大切なものを失ってしまうこともあるんだよ」
「失ってしまったのか?」
「……」
「逃げているだけじゃあないのか?」
「あんたに、何が分かるのさ」
「少なくとも、君にはまだ先がある、ということは分かる。良いことが待っているか嫌なことが待っているかは分からないけどね」
 無責任なことを言う。
 だが、向こうにはこちらのことがある程度分かっているらしい。
 こっちは自分のことがよく分かっていないというのに。ひどく不公平だ。
「嫌なことが待っているに決まってる。世の中は悪意でいっぱいだ。皆敵だ。嫌なことをしてくる奴らばかりだ」
「そうか? 大切なものだって、あるんだろう」
「……」
「嫌なことが九割九分かもしれない。けど残り一分が、君にとって大切なことになる可能性もある。君の行く先には、そういう掛け替えのないものが待っているかもしれないんだ」
「……」
「それを本当に要らないと言うなら、ここでじっとしていると良い。そのうち君の存在は擦り切れて消えるだろう。そうなれば嫌なことに遭うこともない」
 消える。
 嫌なことに遭わない。
 それは、とても魅力的な誘いのように思えた。
 だが、同時に心が軋んだ。鉤爪が心の臓に引っかかったような、耐え難い痛み。
「待たせている人がいるんだろう」
 式泉運命の声がする。
「だから君は、一度原型も留められないほどの苦難を味わいながらも、少しずつ形を取り戻し、こうしてここまでやって来た。今更消えるなんて選択はできるわけない」
「知った風な口を利くんだね」
「それはそうだ。俺は君で、君は俺だ」
「……」
「大切なものは、あるか?」
 三度目の問い。
 今度は、黙って頷いた。
 運命が満足そうに頷いたような気がした。
「人が生きる理由なんてのは至極単純なものだ。大切なもののため。形は人それぞれだろうし、気付いていない人も多いだろうけど――皆、それのために生きている」
「分かったよ、もう」
 言いたいことは、十分伝わった。
「大切なものがある。だからそのために生きるよ。嫌なことがあっても、大切なものを捨てることはできない。それくらい、大切なものだから」
「ああ、それでいい」
 枯れた森が僅かに動き、道のようなものができた。そこから進め、ということなのだろう。
「一つだけ」
 進もうとしたところで、運命の声がした。
「俺の大切な人のことを、頼む」
 言われて、脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ。表情は思い出せない。だが、その姿はこちらの心を酷く揺さぶる。
「……まだ約束はできない」
 辛い。苦しい。その感情が何なのか。それはまだ分からなかった。
「なら、返答は約束はできるときになってからでいい」
 運命も無理強いをするつもりはないらしい。その声に諦めや失望の色はなく、静かに見守ろうという温かさがあった。
「君がどんな答えを見出すにしても――今より少しでも、進めるようになることを祈っているよ」
 まだ行き先は暗い。光なんて見えない。それでも、進まなければならない。
 運命のように、進みたくても進めなかった人たちがいる。その人たちが作った道の上にいる。ならば、這ってでも、行かねばならない。