異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
Walk Together「Walk Alone(3)」
 数多の世界を――幾千幾万もの運命を見通せる地平線に、その偉丈夫は一人立ち尽くしていた。
 ここには過去や未来という時間の概念はない。足を前に向ければ未来、後ろに戻せば過去に進む。そういう場所だ。
 だからこういう言い方は正確ではないが――彼は一人になった。
 その眼差しはある世界へと向けられている。
「ここで、こうして見ていることしかできない己が無力さよ」
 それは彼の――彼らの抱く共通の思いだった。
 この地に辿り着くまでの人生は辛く苦しいものだった。
 閉鎖的な環境。重苦しい戒律。突然の追放。束の間の幸せ。奪われたもの。追い続けた果ての絶望。
 その先に待っていたのは、こうして見続けることしかできない停滞の地。
 あの子と違って、自分はここから動くことができない。それはどうすることもできない掟だった。
「我が意志を介する者なく、我が言葉を聴く者なく、我が手で救える者なし」
 できるのは見続けることだけだ。激流の中に戻っていったあの子の辿る道を。不安定に変わり続けている未知の世界の行き着く先を。
「何もなせぬ我が身だが、せめて祈らせてもらおう」
 あの子が。あの人が。せめてこれ以上の不幸を背負わずに済むように――。

 展開された異界。
 そのことを気にも留めず遥に飛びかかったはずの晃夜は、いつの間にか仰向けで地面に倒れていた。
 予想外のことに、しばし思考が停止する。
 ……何、これ。
 ようやく思考が回復し、よろよろと起き上がる。頭を強く打ったからか、少し視界がぐらついていた。
 遥はさほど離れていないところに立っていた。静かに構えている。
「……今、お前何をした」
「投げただけだよ」
 遥はすんなりと説明した。
「物凄い勢いで飛びかかってきたから、その勢いをそのまま使って投げた」
「――」
 遥はお世辞にも強そうには見えなかった。どこかぼんやりとしていて、どちらかといえば頼りなさそうな雰囲気である。
 そんな相手に投げ飛ばされたという事実を、晃夜はすんなりと受け入れることができなかった。
 実際、遥の本来の実力はそこまで大したものではない。異法人としての身体能力を得たものの、梢たちに比べれば全体的に一段劣る。
 榊原から所謂『柔』の武術を重点的に学んだが、それだけだ。『柔』の武術を本格的に使いこなすには『剛』の武術もしっかりと身につけなければ意味はないと榊原から言われているが、そちらに関してはまだまだという状況である。
 遥の本来の実力だけであれば、晃夜相手に戦えるはずはなかった。
「……納得いっていないようだから少しネタばらししようか。今の私は経験だけなら武術の達人で、魔術の達人でもあるんだよ」
「……そうか、貴様の力は『共有』だったな。誰かの経験を自分に共有させたのか」
 それならば納得はいく。
 そして、この相手が警戒すべき強敵であることも理解できた。
「晃夜さん。どうしても戦うの?」
「無論。貴様には覚えがなくとも、泉家という存在は私にとって不倶戴天の敵だ」
「けど、この異界ではどれだけ戦っても私は死なないよ」
「死なないなら、この異界が壊れるまで殺し続けるだけだ。この異界がそう長い時間維持できるものでないことはもう知っている」
「……そう」
 遥はひどく無念そうな顔を浮かべたが、すぐに強い眼差しで晃夜に向き合った。
「だったら、さっきも言った通りとことん付き合うよ。晃夜さん」
「逃げないのか。その点については正直感嘆する。貴様の境遇なら、泉家など知らないと逃げても良さそうなのに」
「確かに私は自分が泉家の人だなんて自覚はほとんどないよ。両親だって、ほとんど覚えてないし、どういう風に向き合えば良いか分からない。けど、貴方が私自身と涼子ちゃんに手を出すっていうなら――立ち向かうしかないよね」
 守りたいものは自分自身と妹。
 ……なるほど、シンプルで分かりやすい。
 こういうストレートなのは嫌いではない。もし泉家の者でなければそれなりに気が合う間柄になれていたかもしれない。
 だが、それでも相手は泉家の者で――復讐の対象だ。

 一夜は二つの局面で苦戦を強いられていた。
 眼前の久坂零次たちを倒しきれない。そして、遠方で指示を出していると思しき冬塚涼子のことも仕留めきれずにいる。
 冬塚涼子を探しに行った他の一夜たちがどうなったかは分からない。彼らはあくまで別の可能性の一夜であり、分身でもなければ使い魔でもない。意識を共有しているわけではないので、何かしらの連絡がなければどうなったか正確な状況を掴むのは困難だった。その連絡がない以上、やられてしまったと考えるのが自然だろう。
「どうした、攻撃の手が緩やかになったな」
 黒い剣を手にした久坂零次が、やや挑発的に言ってきた。あの黒い剣の正体は分からないが、纏う魔力が尋常ではない。深い絶望を表す漆黒の色だ。あれは絶望を知る者にしか扱えない代物だろう。確証はないが、一夜はそう確信している。
「何度かやりあってみてお前の力の性質が大分分かってきた。可能性を顕現させる力……自他問わず、対象の別の可能性をこの世界に現すことができる力。何度お前を倒しても『倒されていない可能性』を呼びだされればノーカンということだ。随分と無茶苦茶な異法だな」
 零次が語りかけてくる間にも、矢崎刃たちがこちらに向けて猛攻を仕掛けてくる。奴らの連携は大したもので、なかなか切り崩すことができない。
「だが――万能な力などあり得ない。少なくとも本当に万能なら、こうしてお前は俺たちとまともに戦う破目になっていないはずだ。おそらく同時に現すことができる可能性の数には上限がある。更に、自分自身と比べると他者の可能性を顕現させるのは難易度が高いか、何かデメリットがあるものと考えられる。少なくともお前はまともに戦うとき、自分以外の可能性を出していない」
 それも図星だった。
 この連中はかつて異法隊という組織に属して表沙汰にできないような荒事をこなしていた。その経験は思っていた以上に厄介なようだ。単純に戦闘の連携が上手いとか、そういう表面的なことだけが厄介なのではない。見極める力に長けているのだ。
 こうしてわざわざ自分の推測を語りかけているのも、決して酔狂でやっているわけではない。お前の手の内は見えているぞ、という脅しをかけてプレッシャーを与えようとしているのだ。
 そういう意図が理解できていても、プレッシャーから逃れるのは難しい。
 自分の中で焦りが膨らんでいくのを一夜は感じつつあった。
 晃夜とは分断されてしまった。魔術師たちも続々と集いつつある。こちらの能力が知られてしまった以上、もう魔術同盟を巻きこんで事態を引っ掻き回すことはできないだろう。
 この『可能性』の異法がある限り負けはしないという自負はあるが、さすがに状況の悪化を感じずにはいられない。
 だが、と一夜は思い返す。
 一夜として生きてきた頃から、自分はずっと逆境の中にいた。
 翼人としてははぐれ者、最愛の人を失ってからは頼れる者もなく、娘を一人守りながら人間たちの中でひっそりと隠れるようにして生きてきた。
 味方などいなかった。ずっと一人だった。周囲はすべて敵だった。
 ……そうだ、これしきのこと、いつものことではないか。
 なりたくて一人になったわけではない。そうならざるを得なかっただけだ。
 そういう生き方をした男がいたということを、平和な時代に生きるこの若造どもに刻みつけてやろう。
「――我が招きに応じて来たれ隣人!」
 ありったけの数の『自分の可能性』を出現させる。その数は百にも達しようとしていた。一人一人の力は零次たちに及ばないが、命を捨てても構わないという覚悟ができている異法人が百人近くいる。
「なるほど、我が力のタネは割れているようだ。だがな小僧――」
 一夜はありったけの憎悪を込めて吼える。
「我が覚悟にはタネも仕掛けもない。潰すというならそれに見合うだけの覚悟を示してみせろ――!」

 おかしい。
 晃夜は遥との戦いの中で違和感を覚えていた。最初は微かなものだったが、戦いが進むにつれて違和感は大きくなっていく。
 戦いは一方的な展開だった。
 遥は最初から防御主体の戦い方だった。この異界がある限り決して死なないことを考えると、こちらが根負けするまで耐えるつもりなのだろう。
 だが、晃夜の攻勢は遥の守りをたやすく凌駕した。
 遥は何度も致命的なダメージを受けた。この異界でなければいずれも命を落としかねない程の大きなダメージだ。しかし何度攻撃を受けても遥は再生し、こちらに向かって構え続けた。
 肉体的なダメージは再生されるかもしれない。だが心が折れないのは不思議だった。普通なら泣き叫んで「もうやめて」と言ってもおかしくない痛みを味わっているはずなのに。
 そんな遥を相手にしているからだろうか。終始攻勢であるにもかかわらず、晃夜は妙な疲労感を抱いている。
「……不思議だ。貴様、もしかして痛みを感じないのか?」
 千切れかかった腕を再生させつつ立ち上がる遥に、晃夜は疑問をぶつけた。
「……そんなわけ、ないよ。痛いよ。すごく痛い」
 そうだ。それは分かりきっていた。遥の表情は先程からずっと耐え忍ぶ者のものになっている。痛みを知らない者が浮かべられる表情ではない。
「けど、痛いのは慣れてるし……千年分の痛みを受け止めるなら、これくらいは覚悟しないとね」
 腕の再生が終わり、遥は再び構えを取った。
「慣れているという言葉で済ませられる痛みとは思えない。……それとも、拷問に耐える達人の感覚も共有したか?」
「それは、共有しなくても十分足りてる、かな」
 晃夜は再び遥の懐に飛び込むと、貫手でその腹を突き刺した。そのまま遥の臓物を握りつぶしながら、力任せに振り抜く。
 文字通り腸をぶちまけながら遥は吹き飛ばされた。
 しかし、そんな状況にありながらも戦慄していたのは晃夜の方だった。
 腹を突きさされた瞬間、遥はすぐにこの後何をされるのか察したのだろう。また痛みに耐える表情を浮かべた。浮かべながらも――こちらを真っ直ぐ見据えていた。
 ……なんなんだ。
 あの女の精神構造がまるで分からない。
「遥は」
 不意に声が聞こえた。倉凪梢の声だ。
 周囲を見渡す。だが、誰の姿も目に入らない。いつの間にか遥以外は全員姿を隠していた。
「遥は、呑気に平和な日々を過ごしていただけじゃない。お前の忌み嫌う魔術に傾倒していたわけでもない。あいつはこれまでの人生の大半、道具として扱われていた」
「道具……?」
「力を持つやつと持たないやつの諍いは千年経っても変わらないってことだ。あいつは力を持たない奴らに囚われて、力を持つ奴らを倒すための道具として――研究材料として扱われ続けた。実験動物扱いだよ。痛いのや苦しいのに慣れてるっていうのは、そういうことだ」
「梢、君」
 遥の掠れ声が梢の言葉を止めた。
「余計なこと、言わなくて良いよ。今は、関係ない」
「そうかな。……なあ晃夜。お前、そんな奴でも生まれが泉家だからって理由だけで殺すつもりなのか。少なくとも『俺』はそんなの嫌だぞ」
「――黙れ」
「だって、それじゃあ、あまりに救いがなさすぎる。救いがないのは嫌だ。そういう思いを、お前も持っているはずだ」
「黙れと言っている! それじゃあ私の救いはどこにある! 復讐することしか、もう私には残されていないんだ!」
「そうだね」
 ぶちまけた腸が少しずつ元に戻りつつある。遥は口元から血を流しながら、苦しそうに立ち上がった。
「『そんなことはない、他にいろんな可能性はある』……言うのは簡単だけど、それは同じような苦しみを味わったことがない人か、他に救いを見つけられた人の言葉でしかない。そんな言葉は、きっと今の晃夜さんには意味ないんだよね」
 ふらふらになりながら、遥はまたしても構えた。
「だから――私は付き合うよ。晃夜さんが続ける限り」
「なぜだ」
 晃夜はたまらなくなって問いをぶつけた。
「貴様は逃げて隠れても良いはずだ。こうして私の前に出て、痛い思いをしなければならない理由は、貴様の方にはないだろう! なぜそうやって、私の前で立ち上がり続ける……!」
 そう。
 こちらが復讐する理由はある。
 だが向こうがそれに付き合う理由はないのだ。少なくとも、こんな身を引き千切られるような痛みを味わってまで付き合う理由は。
 遥は口元の血を拭い、少し考えるような素振りを見せた。
「さっきも言った通りだよ。守りたい人がいるから」
「だからと言って、そこまで身を呈する必要があるのか、と聞いている!」
「……そうだね。他の人に任せられるなら任せたいところかな。こんなに痛いと、正直頭がおかしくなりそう。もうおかしくなってるのかもしれない」
 けど、と遥は頭を振る。
「晃夜さんと戦ってみて分かった。この役割は他の人には任せられない。私が今ここで晃夜さんに向き合わないといけない。だから私は何度でも立ち上がるよ」
「……」
「だって、復讐のことしか考えられなくなってる晃夜さんに付き合えるのは……復讐相手の私だけだもんね」
 そう言って笑う遥に、晃夜は微かな恐れを抱いた。

 誰が盗んだか分からない翼人風土記を普通の方法で探し出すのは不可能に近い。
 当然、郁奈も足を使って地道に探すつもりはなかった。
 というよりも、探すつもりがなかった。
 翼人風土記については一点はっきりしていることがある。倉凪司郎から榊原幻に託されたということだ。加えて言うなら、倉凪司郎が残した発言からすると彼自身はその中身を知っていたと考えられる。
 倉凪司郎自身に話を聴ければ一番良かったのだが、もはやそれは難しいだろう。しかし、彼に近しい者であれば中身を知っている可能性はある。どこにいったか分からない現物をあてもなく探し回るよりはまだましと言えるだろう。
 未了や陰綱に聞いてみたが、二人は風土記の存在自体を把握していなかった。式泉運命や倉凪司郎はもうこの世の人ではないから聞きようがない。
「それであたしのところに来た、ということね」
 郁奈がやって来たのは泉の里。
 尋ね人は常盤だ。
「常盤は翼人だったのよね。翼人風土記については知らない?」
「知ってはいたわね――中身は知らないけれど」
 中身は知らない、という一言で郁奈は落胆した。ならば翼人風土記について聞けることは何もないということか。
「ただ、あれも妙なものだったわね」
「妙?」
「あれは元々運命が翼人のことを知りたいって言い出して、司郎が自分の知ってることを一通りまとめたものだったのよ」
「……それのどこが妙なの?」
「あるとき突然運命と司郎が騒ぎ始めてね。翼人風土記に未来のことが記されている。こいつは予言の書だ……とか。あたしは運命が司郎をからかうために運命の力で見えたことをちょっと落書きしたんじゃないかって言ったんだけど、どうやら何年も先のことまで正確に書いてあったらしくてね。そこまで言われるとさすがに気になったから見せろって言ったんだけど、二人揃って『こいつはやばい。迂闊に見せられない』とか言って、結局見せてくれなかったのよさ」
「未来のこと……? それって、運命お爺様には見えなかったものなの?」
「今の涼子みたいにくっきり見えてたわけではなかったみたいね。あいつの異法はあいつ自身あんまり理解できてなかった節もあるけど……これからのことがなんとなく分かる、みたいな感じでね。何年も先のことを文章化できるほどはっきりとは分からなかったみたいよ」
 つまり、その『未来の記述』は運命の手によるものではないということになる。
 司郎が書き足したというわけでもなさそうだ。そんな未来のことを正確に見通せる力があったなら、彼は今もこの世に残り続けていただろう。
「常盤、この泉の里――もしくはそこに出入りしていた人たちの中で、誰かそういう未来のことを知ることが出来るような人っていたの?」
「あたしは知っての通り対象の情報を解析したりちょっと手を加えることくらいしかできないから、未来を見通すなんて無理だわさ。未了もそんな力は持ってないし、陰綱はただの剣術馬鹿だから論外だわね。運命の両親もそういうことできそうな感じはしなかった……。運命のところにいた魔術師たち、冬塚夫妻とかも多分無理だわね」
「……じゃあ、その未来の記述は誰の手によるものなの?」
「そこが妙なのよね……。ああ、でも一人だけできてもおかしくなさそうなのがいたわね」
 常盤は思い出したかのようにその名を口にした。
「ボン・ヴォヤージュ。神出鬼没なうえに覆面つけてる怪しい奴。でも不思議と運命とはウマが合ったみたいね。よくこの里に出入りしていたわさ。あいつがどういう奴だったかはあたしも未だによく分からないけど……何が出来てもおかしくなさそうな雰囲気は持ってたわね」
 その名はこれまでも何回か聞いたことがある。
「運命お爺様の友人……だったの?」
「そうね。と言ってもあたしや司郎ほどここに入り浸ってたわけじゃないみたいだけども。あたしも実のところ直接会ったのは数回だけね。未了なんか一度も会ったことないって言ってたわ」
「それじゃあ、連絡とったりすることは……」
「残念だけどできないわ。連絡先知らないもの。運命も知らなかったみたいね。来るときは向こうからふらりと来るって言ってたもの」
 素顔が分からない、運命の謎多き友人。
 もし彼が翼人風土記に何か未来のことを書いたとして、それが今回の件のことだったとすれば、その狙いは何か。
 今回の件の黒幕を追い詰める手がかりになるかもしれない、と司郎は言った。
 黒幕は十中八九一夜のことだろう。それを追い詰めたがっている、運命たちと知り合いになれるくらいの年齢の人物。
 不意に、ある人物の名が脳裏に浮かんだ。
「……まさか」
 確証はない。だが他に候補になりそうな人物は思い浮かばなかった。