異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
Walk Together「Road of hope in the despair」
 砕け散る。
 零次の力の象徴だった悪魔の――無現の力の結晶である黒の剣が。
 刀身に亀裂が走り、根元の部分がぐらついた。
 そうして、最後に割れた。
 なぜこの力を幼少期零次は『悪魔』だと捉えたのか。その正体を――無現のことを知った後も、彼の遺したものをなぜ黒というイメージで捉えたのか。
 それは無現に染みついている絶望の臭いのせいだ。自我を犠牲に数多の世界を渡り歩き、たった一度の救いを求めて抗い続けた。それでも救いたい人は救えず、自分の無力さを味わって、また新たな世界に飛び立っていく。
 終わりと救いのない旅路だ。その道程は絶望で彩られている。無現という存在は、絶望の塊だと言ってもいい。
 その絶望が、剣という形を失ってそこから溢れ出した。単に凝縮されていた力が漏れたという次元の話ではない。文字通り絶望が――周囲の意識を丸呑みにせんと広がっていく。
「感じる――感じるぞ、貴様たちの持っていた暗い暗い暗いものを」
 一夜も黒剣から溢れ出したそれに呑まれそうになっていた。だが、彼は変わらない。元々絶望に染まりきっているこの男にとって、この絶望の奔流はさして特別なものではないのだ。
「辛かったのだろう。苦しかったのだろう。……ならば、私が終わりにしてやる」
 力に呑まれかけて意識が飛びそうになっている零次目がけて、一夜は懐に持っていたナイフを振り上げた。
「ここで貴様らの旅路は終わりだ。落ちろ」
 胸にナイフが吸い込まれていく。その痛みと流れ込んでくる絶望によって、零次の意識は深い闇の底へと沈んでいった。

 上空で零次の剣が砕け散る様は涼子も見ていた。
 しかし、その後剣から噴き出した黒い霧によって周囲は覆われ、すぐに何も見えなくなってしまう。見えないと涼子の未来視の力も効力を発揮し難い。
 ……零次!
 零次への信頼と一夜への畏怖が混ざり合い、涼子の胸中に不安が広がっていく。
 思わず唾を呑み込んだ瞬間、霧の中から零次と一夜が飛び出してきた。二人の身体はそのまま何に遮られることもなく、大地へと激突する。
 凄まじい衝撃に、濛々と土埃が舞い上がる。再び視界を奪われるような形になった涼子は、ゆっくりと目を慣らしていった。
 ゆらりと人影が動くのが見えた。背丈は――小さい。
 涼子は一瞬身構えたが、その人影はすぐに崩れ落ちた。
 ……倒れた?
 自分を誘い込むための罠かもしれない。護身用に持っていた魔銃を手に、涼子は少し距離を取った。
 土埃が少しずつ薄れていく。倒れている零次と一夜の姿が見えた。
 二人はぴくりとも動かない。零次は仰向けに倒れており、胸にナイフが突き刺さっているのが見えた。
 すぐに助けにいきたかったが、その隣にはうつ伏せに倒れている一夜がいる。こちらのまったく動く様子がない。
 いくら異法人とは言え、二人がいた高さから落ちれば無傷では済まない。落下の衝撃だけで二人とも相当のダメージを負っているはずだ。
 自分が駆けつければどうなるか未来視の力で見てみたが、結果がぶれる。ぶれるということは、少なくとも一夜はまだ生きているということだ。涼子が近づけば何かをするつもりなのだろう。
 だが、涼子が何もしなかったとしても、一夜はそのうち何かしらのアクションを起こすに違いない。この緊張の静寂は一時的なものだ。涼子はどう動くか未来視の力に頼らず決めなければならない。
 ……正解というものはないわね。
 どちらを選べばいいか、というのを決めるのではない。どちらを選んでそれでどうするのか、というのを決めねばならない。
 進むか退くか。
 ……進む。
 零次を助けるか一夜を倒すか。
 ……倒す。
 どうやって倒すか。
 ――。
 涼子は一歩前に踏み出すと、手にしていた銃を一夜の右手に向けた。
 見た目は子どもだ。それゆえに一瞬ためらったが、意を決して引き金を引いた。
 刹那、一夜の右腕がまるで独立した生き物であるかのように蠢いて、涼子の撃った魔弾を避けた。
 ……まずい、右腕は動かせる!
 一夜の右腕は異なる可能性を呼び寄せるためのトリガーである可能性が高い。だからこそ涼子はまずそれを封じようとした。だが失敗した。
 ゆらりと上に突きあげられた一夜の右腕は、何かを探し求めるかのように激しく動いた。
「――その私は」
 どこからともなく声がする。
「もう声も出せないらしい。ああやって腕を動かすので精一杯だったのだろう」
 周囲を見渡す。だが見当たらない。間違いなく声はするというのに。
「そのような状態に追い詰めた久坂零次という男――賞賛すべきなのだろう。効果的だった。今の私に翼はない……。空はもう私の居場所ではないのだから」
 ゆらりと、倒れ伏す一夜の真下から、もう一人の一夜が姿を見せた。
 その姿は禍々しい。倒れ伏している一夜よりも空洞化している箇所が多かった。
「どうやら、久坂零次の奇襲を避けて致命傷を負わずに済む可能性というのは、これくらいしかなかったらしい。『可能性の海』に潜って避けるという方法しか――」
 その姿の可能性が最良のものだった、ということなのか。
「……『可能性の海』を使わない可能性はなかったのかしら」
「ない」
 倒れ伏す一夜を仰向けにし、その苦悶の表情をそっと覆いながら一夜は断言した。
「私にはもう時間がなく命を惜しむ理由もない。成さねばならぬのは復讐だけだ。『可能性の海』が使えると分かった以上、それを使わない可能性など存在しない」
 例えどれほどの代償があろうとも、退路のない彼にとってそれは瑣末な問題でしかないのか。
「だが、私がそういう『覚悟』をしているのと同様、お前たちにも『覚悟』があることを知った。この久坂零次の決死の特攻でな……。今こうして私が話をしているのは、冬塚涼子、果たして貴様をただ『覚悟』の一念だけで殺せるか、という疑念が出てきたからだ」
 余裕を持ったわけではない。一夜の表情は相変わらず深い怨嗟に満ちている。だが先程までは前面に突き出ていた黒い感情が、今はその表情の中で溜められているような感じがした。
 彼は考えている。確実に涼子を殺すにはどうするのが最適解か。ただ突撃するだけでも殺せるかもしれない。だが殺せないかもしれない。少しでも確率を高めるためにすべきことは何か――。
「久坂零次は生きているかもしれない」
 ちらりと零次の方を見やりながら、一夜が言った。
「確認したければこちらへ近づいて来い」
「……悪いけどそれはできない相談よ」
 内心の動揺を抑えるように、涼子は強い口調で応える。
「仮に生きていたとして――零次は私を助けるために命を張った。私が彼のために命を捨てるような真似をしたら、その覚悟に唾を吐くことになる」
「……」
「けど、彼に何かしてみなさい。私は、貴方が今私に向けているのと同じ表情を貴方に向けるわよ」
「……そのようだな」
 零次の方にさり気なく向けていた拳銃を、一夜はこちらに向けた。
「どうするのが良いのか、結局分からずじまいだ。……それが分かるようなら、こんなところにまで来たりしなかったのだろうがな」
 その姿が増えていく。一人、二人、四人、八人――。
 拳銃一発なら異法人として身体能力を強化した涼子でもどうにか耐えられる。だが数が増えれば話は別だ。特別な訓練など何もしていない涼子にとって、多数の銃弾は致命傷になり得る。
 気づけば周囲はすっかり囲まれていた。
「無駄話に付き合わせた。……終わりにしよう」
 こちらの魂を吸い込んでしまいそうな穴が――銃口がこちらを向いた。

 薄暗い中で一筋の道が光り輝いていた。
 それに導きかれるように零次は歩いている。なぜ歩いているのかはよく分からない。ただ身体が勝手に歩みを進めていた。
 疑問すら浮かばず、ただ足を運んでいく。
「どこに行くんだ、零次」
 どこかで聞いたことのある声がした。暗闇の中に誰かが立っている。
「……きりしま」
 郁奈の実父――霧島直人だ。
「おっ、返事はできるみたいだな。なら話を進めさせてもらうが――お前、こっから先に進んでいいのか」
「言っている意味が、分からない」
「この先にいるのは俺たちだぜ」
 霧島の声に反応するかのように、暗闇の中に幾人かの姿が浮かび上がる。
 郁奈の母であり涼子たちの姉――優香。
 零次の母や妹――そして実父である久坂源蔵の姿もある。
 いるのはそれだけだ。
 他には、誰もいない。
「この先がどういう場所かは説明しない。それは実のところ大事なことじゃあないからだ。大事なのは、この先にいるのがこの面子だってことだ」
「……」
「お前が本当に会いたい人は、この中にいるか。零次よ」
 霧島の問いに一同を見渡す。
 霧島や郁奈を見ると胸が痛くなる。とても申し訳ない思いで心が満たされる感じがした。
 家族を見ると、とても懐かしい感じがした。同時に、どうしようもない隔たりのようなものも感じた。
 歩みは、止まっていた。
「零次」
 父が、一歩踏み出して霧島の隣りに並んだ。
「私は誰とも共に歩むことができなかった。誰かと一緒なら違う道を歩んでいた、とまでは言わない。だが――同じ道でも、歩みたい者と共に歩めるなら、きっとまったく違うものが見えていたのだとは思う」
「……父さん」
「お前がともに歩みたいのは誰だ。この中にいないのであれば――探しにいきなさい」
「そこがどれだけ辛い場所でも、絶望的な場所でも――お前は、久坂零次という男は行けるだろう。幾千幾億もの絶望を叩きつけられてなお歩みを止めなかったんだ。行き方が分からなくても、いけるだろう」
 父と霧島――そしてその向こう側にいる皆をじっと見て、零次は踵を返した。
 彼らにかける言葉はない。きっと彼らは零次が見ている夢でしかないのだ。もし本物だとしても――何が言えるだろう。彼らを向こう側に追いやった原因を作った零次に言えることは、何もない。
 否、たった一つだけあった。
「また」
 また会おう。
 いつか、零次が本当の意味で歩みを止めた日に。
 そのときは、きっといろいろ話せることもあるに違いない。

 かつて一夜が魔法という禁忌の力に目覚めたとき、一族の者は皆彼の敵になった。
 両親、兄弟、親族、友人たちも皆そうだった。昨日まで当たり前のように語らっていた相手は皆、こちらに忌避の眼差しを向けた。
 仕方ないことだと諦めていた。
 放逐された一夜は、人の世にもいけず、翼人の里にも戻れず、熊野山の奥深くに一人居を構えた。
 思い出すのは妻子のことばかりだった。妻は翼人の価値観に囚われない性質で、ただ一人以前と同じように接してくれた。そのことがとても嬉しく、そんな彼女と引き離されることにどうしようもない辛さを覚えた。
 我が子はきっと処断されてしまったのだろう。それも一夜に虚しさを与える一因となっていた。魔法という禁忌に汚染されている可能性のある子を、あの里が生かしておくはずがない。
 我が子を抱えた妻が飛び込んで来るまで、一夜の鬱々とした日々は続いた。
 子を助けるために、妻は里を捨てたのだ。簡単に諦めてしまった自分と異なり、彼女はとても強かった。
 妻子を抱きかかえながら一夜が感じたのは、喜びと心地よい敗北感だった。
 ……この妻には敵わぬ。
 同時に、妻子のためなら今度こそ自分は諦めずにすべてを投げ出そうと誓った。
 それが、一夜という男の原点だった。
 ……なぜ、今そのことを思い返した?
 涼子に銃口を向けた瞬間、不意に心が千年以上昔に引き戻された気がした。
 目の前に立つ少女の顔を見て、その疑問は晴れた。
 ……嗚呼、成程。
 よく似ていた。
「――さらばだ」
 未練を断ち切るように言葉を紡ぎ、引き金を引こうとした。
 そのとき、一夜は我が身に起きた異変に気づいた。
 銃を手にしていた右腕の、半ばから先が、ない。
「……なに?」
「――後ろだっ!」
 正面にいた別の一夜が声を張り上げる。
 振り返る。
 そこには、ナイフが胸に突き立ったままの久坂零次が立っていた。
 足元が覚束ない様子で、見るからに立っているのが精一杯という感じだった。
 だが、その彼が今何かをした。
「く、久坂、零次――」
「……俺は」
 ひゅーひゅーと呼吸を荒げながら、零次は小声で言った。
「俺は、諦めん」
 その言葉に、一夜は激昂した。
「貴様に出来ることなぞもうないッ! 貴様の力の源、無現の力はまだ遥か上空で漂っている! 死に掛けの貴様なんぞに、何ができるッ!」
 左手にナイフを構えて、零次に切りかかる。
 そんな一夜に向けて、零次は右腕を振り上げた。
 ぶつんと、何かが切れたような感じがする。
 その直前、一夜は零次の手にある何かを見た。

 涼子は見た。
 零次が、手にした何かで襲いかかった一夜を縦に一刀両断したのを。
 即死、だったのだろう。零次に襲いかかった一夜は、顔から胸にかけて切り裂かれた状態で崩れ落ちた。
 零次の手に握られていたのは束だった。
 無現の力によって作り出されていた黒の剣――その束だけが残っていた。
 ……いえ、違う。
 僅かに刀身が見えた。黒の剣に比べると小さい。剣というよりナイフくらいの大きさしかない。あまりに透明で、そこにあるのかどうかさえあやふやな刀身だ。
「無現の力の――俺の力の源は絶望なんかじゃあない」
 上空を漂う黒い霧。一夜はあれが無現の、零次の力の源である絶望の塊だと思っていた。
 そうではないのだ。
 どれだけの絶望を叩きつけられても、無現は――数多の世界の久坂零次は諦めなかった。どこかの世界に救いがあるという希望を捨てなかった。だから、諦めずに歩み続けることができた。
 あの透明な剣は、希望の剣だ。無現の希望が形になったものだ。分厚い絶望に覆われながらも、決して損なわれることのなかった無限の希望そのものだ。
「諦めないというのなら、その執念ごと叩き潰すまでだッ!」
 残っていた他の一夜たちが零次に向かって殺到する。
 零次は立っているのもやっとという有様だ。今一夜たちに襲いかかられては勝ち目がない。
「零次っ!」
 涼子が思わず飛び出そうとしたとき、零次はこちらを見て静かに言った。
「――大丈夫だ、涼子」
 その言葉を待っていたかのように、零次に襲いかかろうとしていた一夜たちの右腕が裂け始めた。
「な、なに……っ!?」
 最初にやられた一夜の傷を再現するかのような裂け方だった。
 一夜は慌てて右腕を失う前に新たな可能性を呼び出したが、呼び出したどの可能性も同じように右腕が裂け始めていく。
「どういうことだ……なんなのだ、これは!」
「この剣は……無現そのものだ。無現は数多の世界を渡り歩き……目的を達するまで決して諦めない」
「……まさか」
「どんなに可能性を増やしても……無現は追い続ける。お前が俺たちを殺そうとする限り……俺たちの未来を阻もうとする限り――無現が与えた傷は無限にお前を追いかけ続ける」
 一夜の能力が可能性を呼び寄せる力なら、無現の力は可能性を越える力だ。
 どれだけ別の可能性を呼び出したとしても、無現は世界を越えたようにしてその可能性を越えて、追い続ける。
「……終わりだ、一夜。お前はもう俺たちを殺せない。殺そうとし続ければ、お前はその傷によって死ぬことになる」

 目の前で次々と一夜の可能性が朽ちていく。
 右腕が裂かれ、そして顔から胸にかけて裂かれていく。
 もう、どうしようもないらしい。
 今呼び出された自分が、どうやら最後のようだった。
「諦めれば助かる、か」
 この状況で久坂零次が嘘をつく理由はないだろうし、本当のことなのだろう。
 だが。
「……久坂零次」
「なんだ」
「もし冬塚涼子が殺されれば、お前は復讐をしないのか?」
「……」
「冬塚涼子をかどわかされ、穢され、それでも復讐をしないと誓えるのか?」
「……」
 零次は答えない。それで十分な気もする。
「お前は、諦めないと言ったな」
 右腕が裂ける。最後の自分の右腕がない以上、もはや可能性を増やすことはできなかった。『可能性の海』に潜ることもできない。
「私も同じだ。妻子のためにすべてを捧げると――諦めないと誓った」
 左腕に銃を構える。顔が裂け始めているのが分かった。だが、今となってはそれも瑣末な問題だ。
「悔いはない。諦めずにこうしてここまで来た。虚しさはある。心残りもある。だが――この道を進んできたことに対する、悔いは、ない」
 涼子を見る。
 愛した人の面影が残る顔を見て、一夜は引き金を引いた。
 銃声が聞こえた。
 銃弾は、涼子の足を撃ち抜いたようだった。
 涼子がバランスを崩して倒れる。だが、致命傷ではない。
 そのことにどこか安堵している自分がいるのを、一夜は感じていた。
「……悔いは」
 それが、一夜の発した最後の言葉だった。