異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
Walk Together「Lost child going beast way」
 幼い頃から母のことは好きだった。
 父は物静かで厳しい人だったので子どもの頃はどちらかというと苦手だった。母はいつも優しくて明るかった。子どもの自分に対しても同じ視線で接してくれた。
『母さんは私と晃夜の恩人なんだよ』
 後年、父とともに母を探す旅路の途中でそのことを聞かされた。
 父と母が元々いた場所のこと。自分が殺されかけたこと。母がそこから自分を救い出してくれたこと。
 事の顛末を語る父の横顔は普段と同じく物静かなものだったが――そこには僅かな情愛が垣間見えた。
 父と母は愛し合っていて、自分も愛されていて、きっと自分たちはいい家族だったのだろう。それを取り戻すためならと、長く苦しい旅路に耐え続けた。
 だが、その果てに待っていたのはあまりに無惨な光景だった。
 生き物としての尊厳を奪われた扱いを受けた母。そして見るも無惨な姿に変えられた父。二人の姿を目の当たりにした晃夜は激昂した。
 怒りだ。もう怒りしかない。
 晃夜の心は憤怒で埋め尽くされた。我が身を省みなければ憎き者ども――魔術師どもを殺すのは造作もないことだった。
 自分からすべてを奪った者たちに、自分の残されたものすべてを使って復讐を成し遂げる。もう何も残されていない自分にできることはこれくらいだ。
 そう思っていた。思っていたのに――。
 母は、憎き者どもを庇った。
 自分よりも、長きにわたり母を探し続けた自分と父よりも、あの外道の衆を選んだのだ。
 その一事から、晃夜の復讐は一夜のそれとは異なるものになった。
 憎い泉家の魔術師どもを皆殺しにする。目的は同じだったが、行動原理がまるで違うものになっていた。
 一夜は、かつて愛した妻のための復讐を決めた。
 だが、晃夜は違う。彼女は――。

 どれくらい戦っただろう。
 振り上げた拳には血がべったりと付着していた。いや、拳だけではない。全身あちこちに似たような血がついている。
 晃夜の血ではない。すべて相手の――遥の血だった。
 常人であればとっくに失血死してもおかしくない量の血を流している。この特異な空間――中にいるものを再生させる異界でなければ、遥はとっくに絶命している。
 そうでなくとも、晃夜の攻撃は遥の心をへし折るのに十分なものだった。骨折や臓器破壊が生温く思えるような致命傷を何度も与えている。いくら死なないと言っても、普通ならもうやめてくれと泣き叫んでもおかしくないような状態である。
 だが、遥はどれだけやられようと立ち上がって来た。
 おぞましい前半生のせいで痛みに対する感覚がおかしいのかもしれない。最初はそう思おうとしていたが、それだけでは済まない何かを感じた。
 そんなやり取りを続けるうちに、晃夜の精神の方が先に疲弊してきていた。
 肉体を強化する自身の異法と、式泉運命の運命の流れを見る異法。この両方をフル活用することで、武術や魔術の達人の経験を得た遥を相手に終始優勢な状態を維持していた。だがいくらやっても勝利は訪れない。この異界が消えない限り、遥は何度でも立ち上がってくる。その事実に、晃夜の心の方が折れそうだった。
 ……いや。
 そこで、晃夜は不意に違和感を覚えた。
 ……待て。どれくらい戦った? もう随分と時間が経過しているはずだ。
 以前戦ったとき、この倉凪梢の異界はさほど長持ちしていなかった。あのときは元々万全の状態ではなかったのかもしれないが、それにしたってこれほど規格外な異界を長時間維持し続けられるのはおかしい。
「……どうしたのかな」
 思索に耽ろうとする晃夜は、その声で現実に引き戻された。
「来ないなら、こっちから行くよ」
 遥だ。傷を修復した彼女が、恐れもためらいもなくこちらに突っ込んでくる。
 動き自体は直線的で単純なものだったが、姿勢と踏み込みの深さのせいか思ったよりも速く感じる。
 それに、これまで防戦一方だった遥が攻めてきたことで晃夜にも動揺が生じた。
「ぐぁっ……!」
 異法の使用、そして身体の反応が僅かに遅れて、腹にまともな一撃を受けてしまう。的確に急所を突いたであろうその一撃は、思っていた以上の衝撃を晃夜に与えた。
 ……いや、違う!
 肉体的なダメージもそうだが、それとは別の何かを晃夜は感じ取った。
 だが、それに気づいたときはもう遅かった。
「もう、待たないよ」
 遥の静かな宣言。それは彼女の猛攻開始の合図だった。
 衝撃によって動きが固まった晃夜に対し、遥のラッシュが襲いかかる。肉体強化をしている晃夜相手にそのすべてが有効打になるわけではなかったが、一発を受ける度に晃夜の表情は次第に青ざめていった。
「や、やめろ――!」
 剛腕を振るおうとする。先程まではその一撃で遥の身体を両断していた。しかし今回は空振りに終わってしまう。
 振るわれた一撃を紙一重で避けた遥は、晃夜の顎目がけて掌底を放った。
 避けられるはずの攻撃。しかし、晃夜の身体は自身のイメージほど速く動いてくれなかった。
 視界が震える。脳が揺さぶられる感覚に、強烈な吐き気が込み上げてくる。
 気づけば、晃夜は仰向けに倒れていた。
 自分を覆い尽くさんとする異界の森だけが視界に映る。
 ……やられた。
 後の祭りというやつだろう。
 遥はただこちらの攻撃を耐えていたのではない。防戦に徹していると見せかけて、彼女の攻撃は既に始まっていたのだ。
 顎への一撃による衝撃は治まってきたが、それでも身体がずしりと重く感じた。
「式泉遥……貴様、私にも『共有』を仕掛けていたな」
 気づかれないように、本当に少しずつ。
 こちらの攻撃が遥に当たる度に、ほんの僅かな間『共有』を発動していたのだ。
「私から少しずつ魔力を奪い、どこぞに潜んでいる倉凪梢に回していたのだろう。だからこの異界はどれだけ時間が経っても消えない」
 分かってしまえば単純な話だった。
 異界がある限り晃夜は遥を殺しきることができない。
 異界の中で遥以外の姿が見えない以上、晃夜としては遥を相手にするしかない。
 遥を相手にすればするほど魔力が奪われ、次第に身体能力も落ちていく。時間はかかるだろうが、こちらが弱まったタイミングで一気に攻勢に転ずれば勝利を掴みとることも可能だ。
 相当な覚悟がないとできない案ではあるが――これをやられてしまうと、晃夜側に打てる手はなくなってしまう。詰みだ。
 遥を無視して時間切れを狙うというのが唯一の一手だった。そしてそれは、晃夜の行動原理からすると選び難い一手である。
「この案、倉凪梢が考えたとは思い難い。貴様自身か……あるいは冬塚涼子か。どちらにしても汚い案だ。さすがはあの外道どもの末裔なだけある」
「……」
 遥は答えなかった。視界に彼女の姿は入って来ない。迂闊に近づいて反撃されるのを警戒しているのだろうか。
「もう、いいと思う」
 遥のその言葉に応じるかのように、視界を埋め尽くしていた森は消えた。
 元の、戦場と化した街の空が見えた。
 重くなった身体を奮い立たせて身を起こす。魔力は生命力にも通じる力だ。それを大量に奪われてしまっては、まともに身体を動かすことも難しくなる。
 眼前には、遥と梢が立っている。
「……無様なものだ。すべてを捨てて復讐を選ぼうとしたのに、その復讐心を利用されて負けることになろうとは」
 結局自分の歩んできたすべては間違いだったのだろうか。
 そんな虚しさを覚えつつ晃夜は二人を見た。
「……あ」
 二人の奥に、人影が見えた。
 遥にも少し似た女の人影。
 あの裏切り者だ。
 女は、能面のような表情でこちらに近づいてきた。
「遥。梢さん。少し……この子と話をさせてくれませんか」
 女が二人にそう言うのを聞いて、晃夜の中の暗い炎が再びふつふつと燃え上がった。
「話すことなどない。もはや私に語る言葉はない。さっさと殺せ」
 拒絶の言葉を受けて女の眼差しが微かに震えた。
「殺すも殺さないも決めるのは俺たちだ」
 倉凪梢が疲労混じりの声をあげた。直接戦ってこそいなかったが、あの異界を長時間維持し続けるのは相当な労力を必要とするのだろう。よく見ると生気がない。
 そんな彼に肩を貸しながら、遥が言った。
「話してください。ただ、晃夜さんの出方次第では止めさせてもらいます」
「……ありがとう」
 遥に支えられながら梢が少しずつ下がっていく。
 後に残されたのは、あの女と自分の二人だけだった。

 残された親子の会話は、なかなか始まらなかった。
 千年以上もの長きにわたる断絶がある。晃夜はもとより話す気などなかったし、未了の方もなんと声をかければいいのか分からずにいた。
「……晃夜」
 意を決して未了が口を開く。晃夜はそれを聞いているのかいないのか、ずっとうつむいたままだった。
「聞かせてくれないかしら。あなたがこれまで歩んできた道のりを。あなたがこれまで思ってきたことを、全部」
「……」
「私は、親失格かもしれない。今こうして向き合っていても、あなたが何を思い、こうしてここまで来たのかが――分かっていると、自信を持っていうことができない」
「……」
「でも、知りたいの。失格かもしれないけれど、それでも私はあなたの母親だから」
「母親?」
 晃夜がぴくりとその言葉に反応する。
「違う。貴様は母様なんかじゃない」
「……晃夜」
「私の母様はどんな状況だろうと決して私や父様を捨てるようなことはしなかった。翼人の掟で殺されそうになった私を救ってくれた。翼人たちに追放された父を見捨てなかった。それが私の母様だ。貴様は違う」
「……」
 娘からの言葉に、未了は何も言い返さなかった。
 見捨てたつもりはない。そう言ったところで何も変わらないと理解しているからだ。
 晃夜が見捨てられたと感じている以上、それは彼女の中でどうしようもない事実として確立しているのだろう。
「私は、いつあなたの母親ではなくなってしまったの?」
「……分からないか」
「……」
「あのときだ。私が、父様と母様の仇を討とうとしていた、あのときだ」
 言われて、未了の脳裏にかつての記憶が蘇る。
 囚われていた部屋に血塗れの晃夜がやって来た。晃夜は両手にたくさんの首を持っていた。未了を捕らえていた魔術師たちの首だ。
 晃夜は痛ましげな、ひどく辛そうな表情を浮かべながら未了の拘束を解いて――そのまま何も言わずにその場を後にした。
 日頃の扱いからひどく消耗していた未了は、そのとき晃夜が何を考えているのかすぐに理解することができなかった。
 最初はそれが我が子であるということすら気づけなかった。かつて自分の側であどけない笑みを浮かべていた晃夜と、悲痛な表情で血にまみれた晃夜がどうしても結びつかなかったのだ。
 思えば、それが致命的な問題だったのだろう。
 思考が覚束ないままふらふらと牢から出た未了は、何も考えず導かれるように歩みを進めた。
 その先で見てしまったのだ。
 幼い子に向けて憎悪の眼差しを向ける晃夜の姿を。
 その幼子は、望まぬ形ではあったが、未了が生んだ子どもだった。
 どんな経緯であれ、生まれてきた子どもたちに罪はない。それは理屈ではなく、未了の中にあった本能のようなものだった。
 ふらふらな身体で、気力を振り絞って幼子を突き飛ばした。
 鈍い痛みが走った。そして、そのとき同時に聞こえてきた。
 ――母、様……?
 信じられないものを見るかのような目をこちらに向けてくる晃夜。その少女を我が娘だということに気づいたのは、そのときだった。
 すべてが手遅れだった。自分が受けたのは致命傷で、元々衰弱していたこともあってか声すらかけることができなかった。
 ただ、自分の取った行動が晃夜にとって望ましいものでないことは、彼女の絶望に満ちた表情で分かった。
「……あの子を、あなたから庇ったときのことね」
 晃夜の眼差しが凶悪さを増す。
「私と父様は、ずっと母様を探していた。長く苦しい旅だった。何度も根をあげそうになった。それでも続けたのは――母様に会いたかったからだ」
 そこで晃夜は言葉を区切った。
「だが……母様はいなかった。いたのは卑しい売女だけだ。私と父様が探し求めていた母様は、どこにもいなかった。そうだろう。でなければ、あんな屑どもの餓鬼を助けようとなんてするはずがない……! 私と父様を置いて、命を捨てるような真似をするはずがないんだ!」
「……」
 晃夜の叫びに未了は目を伏せた。
 娘からの否定の言葉に目を背けた、というわけではない。
 彼女は考えていた。あのときは何も分からず、ただ本能的に動いた。
 今ならどうか。晃夜が泉家の子らを殺そうとしている。それに対し、自分はどう動くのか。
「……晃夜」
 意を決したかのような未了の一言に、晃夜の罵声が止まる。
「あなたの思いは分かったわ。けど……その思いを知っても、私は同じようにする」
 それを聞いて、晃夜は絶望とも失望とも取れるような表情を浮かべた。娘のそんな顔を見るのは辛かった。だが、それに怯まず未了は続ける。
「あなたにとっては無関係な……おぞましい復讐の相手かもしれない。けど、あのときのあの子も……今この時代に生きる泉家の人々も、皆私にとっては大事な子ども。だから殺されそうになっているなら、私は助けたいと思う」
「……そうか」
 晃夜が暗い声で呟く。
「だったら、ここで私を殺せ。私は止まらない。ここで殺さなければ、貴様のいう大事な子どもを皆殺しにするぞ」
「そんなこと、できるわけがないでしょう」
 未了は叱りつけるように厳しい口調で言った。
「あなたは私を母だと思っていないのかもしれないけど――私にとっては、今だってあなたも大事な子どもなんです。子どもを殺す親がいるわけないでしょう」
「ほざ――」
 反論しようとした晃夜の言葉が止まる。
 未了が、晃夜を力強く抱きしめたからだ。
「このっ……は、離せ……!」
「離しません」
「離せって言ってるんだ!」
「離しません!」
 晃夜は引き剥がそうともがくが、魔力の大部分を奪われているからか力が入らない。それに未了の力も想像以上に強かった。
「離しません。今のあなたは……ここで離したら、もう手の届かないところに行ってしまう。だから離しません。私は、あなたとこれ以上離れていたくない!」
「ふ、ふざけるな……!」
 晃夜のもがく力が少しずつ弱くなっていく。
「今更、親みたいなことを言うな……!」
 声が、少しずつ嗚咽混じりになっていく。
「もう戻れないんだ……! 私は、もう後戻りできない道を選んでしまったんだ……。もういらないんだ、母様なんか」
「――ごめんね」
 未了の短い一言が、晃夜の動きを止めた。
「ずっとさびしい思いをさせて、ごめんね」
「……ぁ」
「あなたが後戻りできない道を選んでしまったというなら……一緒に歩ける新しい道を探しましょう。あなた一人では見つけられなくても、私と一緒なら見つけられるかもしれない」
「……ぅ、ぁ」
「だから、もう休みましょう。歩みを止めて……これからのことを考えましょう」
「――――ァァッ」
 声にならない声が、掠れきった嗚咽が晃夜の口から洩れる。
 そのとき晃夜がどんな表情を浮かべていたのか、未了からは見えなかった。
 だが、それでいい。見えなくて、良かったのだと未了は思った。

 それから、どれだけの時間が経っただろう。
「……もう、いいかの」
 晃夜の声が収まりつつあったとき、不意にしわがれた声が聞こえた。
 梢と遥ではない。二人は遠くから未了と晃夜の様子を見守っている。声が聞こえる距離ではない。
 どこかで聞いた声だと未了が思ったとき、ずぶりと嫌な感触がした。
「――え?」
 胸を見る。銀色の何かが胸から生えていた。それはそのまま晃夜の左胸まで達している。
「……ぁ、か、あ……さ、ま」
「ふむ」
 その銀色の何かが引き抜かれて、未了と晃夜の身体はぐらりと横に倒れる。未了の顔に、引き抜かれたとき噴き出たであろう血が飛び散った。
「すまぬな。そなたは不変ゆえ放っておけば治るであろうが……巻き添えにして傷つけたことは謝罪しよう」
 異変に気づいた遥たちが叫んでこっちに駆け寄ってくるのが見えた。
 ……なにが。いえ、誰が。
 薄れゆく意識の中、残された力を振り絞って身を返す。
 見えたのは、ぼろぼろの着物をまとった小柄な一人の老人の姿だった。