異法人の夜-Foreigners night-

-Walk Together-
エピローグ「人々のそれから」
 年明けからさほど経たぬ頃、梢はふと夜半に目を覚ました。
 足音を立てず、気配を殺して屋敷の玄関口まで進む。そこには荷物をまとめた草薙樵の姿があった。
「どうしたんだ、その恰好」
「なんだ、お前か」
 声をかけると樵は一瞬ぎょっとした顔を浮かべたが、相手が梢だと知って少し安堵したようだった。
「ここで話すのもアレだ。少し外出ようぜ」
 こちらの返事も待たずに樵は外に行ってしまった。寝間着姿ではあるが、やむをえまいと半纏を羽織って後に続く。
「このまま出立するつもりか? 出立は日が明けてからだって言ってただろ」
 日中、夕観は今後もこれまで通り古賀里家の復興を目指していくと言っていた。樵に関する懸念も晴れたので、明日の朝には出立する――そんな話をしていたのだ。
「あれは夕観とフィストの話だ。俺はしばらくあいつらと離れる」
「なんでまた」
「……ほら、俺がいたらあいつらもいろいろと困るだろ」
 わざとらしく下卑た笑みを浮かべる樵だったが、梢は同調しなかった。
「あんたがそういうこと気にする性格ならもっと早くに離れてるだろ」
「言うじゃねえかこの野郎」
 面白くなさそうに鼻を鳴らす樵。
 彼は真っ暗な空を見上げながら「分からねえんだ」と言った。
「これまで俺は自分の命がいつ尽きるとも知れないもんだと思って生きてきた。将来のことなんか全然考えてなかった。ただ、そんな俺でもあいつらはずっと一緒にいてくれた。恩義なんて他人行儀なことは言わねえが、あいつらのために残りの命全部使ってやろうと考えていたんだ。けど、前提条件が変わっちまった。当面はくたばらずに済みそうだ――そう思うと、これまでみたいにあいつらと一緒にいた方がいいのか分からなくなった」
「分からないなりに一緒にいるってのは駄目なのか?」
「それはしたくねえな。一人で、少し世の中を改めて見てみたい。俺がこれから何をするのかきちんと考えておきたい。流されるままに生きるようなつまらんことはしたくないんでな」
 そこまで言って、樵は視線を梢に戻した。
「お前とは妙な縁がありそうだ。もし何か困ったことがあれば連絡しろ。気が向いたら助けてやるよ。あの人への借りもある」
「借りなんて気にしてないと思うぞ、多分。けどまあ、困ったときは手を借りるかもしれない」
「そうそう。若輩者は素直に先輩を頼ればいいんだよ」
 樵はそこまで言って、軽く手を上げた。
「じゃあな。夕観たちはあーだこーだ言うだろうけど、上手いこと言っておいてくれや」
「はいはい。それじゃあな」
 そうして草薙樵は夜の中に一人消えていった。
 何の迷いもなく、軽やかな足取りで。
「……で、あーだこーだ言わないんですか?」
 物陰に向かって梢が声をかけると、そこから夕観とフィストが出てきた。
「気づいていたのね」
「気配には敏感なもので。追いかければとっ捕まえることはできると思いますよ」
「やめておくわ。樵を引き留めるのは無理よ。一度言い出したら絶対曲げないんだから」
「同感だ。それにこちらとしても止める理由はない。一緒にいようといまいと――あいつが俺たちの無二の友人であることに変わりはないのだから」
 二人の様子を見て、梢は自分の懸念が杞憂だったことを悟った。
 三人の間にはきっと他人には見えないものがあるのだ。なら、他人である自分があーだこーだ言うことはない。
 今までとは少し違う形になるかもしれないが、きっと彼らは、これからも共に歩み続けていくことになる。

 夕観たちが出立してから間もなく、刃たち異法隊のメンバーも屋敷を去ることになった。
 零次から頼まれていたのは榊原たちの護衛だったので目的はとうに果たしていたのだが、事の推移を見定めるまでは、ということで残っていたのである。
「亨。零次。最後に少し話がある」
 それぞれが雑談に興じる中、刃が二人に声をかけた。
「実は今回の件で飛鳥井家から異法隊日本支部再興の援助を受けられることになった。もっとかかると思っていたが、あと一年か二年もすれば何らかの形で支部の活動を再開できるようになる」
「……それって、大丈夫なの?」
 亨が懸念しているのは、再興した日本支部が飛鳥井家の影響を受けるようになるのではないか、という点だった。
 復活するにしてもどこかの下部組織のようになってしまうのでは、以前の日本支部と同じ道をたどる恐れがある。
「赤根も同じ懸念を抱いていたようだ。だが異法隊本部の存在もあるからな。飛鳥井家の下につく形にはならない。多少の影響力はあるだろうが、そこを気にするよりも組織として真っ当なスタートを早く切る方が先決――というのが俺と藤村の見解だ」
 刃の言葉には過信も不安も見受けられない。
「……大丈夫そうだね」
「お前に心配されるとはな。俺が頼りなくなったか、お前が頼もしくなったか」
「後者だよ、多分」
 かすかに表情をほころばせる刃と、少し得意げに応える亨。今は別々に生活している二人だが、兄弟同士今も通じ合うものがあるように見えた。
「……本題はこれからだ。近いうちに活動が再開できる。だが今のところメンバーは少ない。俺たち三人のほかはここにいない新人が一人いるだけだ。だから、活動再開の折には二人にも参加してもらいたいと考えている」
 刃からの要請は半ば予想していたことではあった。
「……僕は、少し待たせてほしい。大学まではきちんと出ておきたいんだ。手伝いとかはできると思うけど……本格的な進路ということなら、きちんと悔いのないように考えておきたい」
 亨の言葉に刃は失望した様子を見せず、むしろ満足げに頷いてみせた。
「そうだな。そうすると良い」
「……なんか意外な反応だね」
「参加してもらえるなら助かるが、参加してもらえないならもらえないでやりようはある。こちらのことは気にするな」
「――その言葉を聞けて安心した」
 と、零次が口を開いた。
「俺は、新しい異法隊日本支部には参加しないと決めている。すまないとは思うが」
「え、そうなの?」
 亨が驚きをあらわにした。零次は参加するものと思っていたらしい。
「理由を聞いてもいいか? こちらに問題があるなら改善したい」
「刃たちに問題はない。あるのはこちらの方だ」
「……隊長のことか?」
 零次の父――そして前の日本支部の隊長。彼の行いによって日本支部は壊滅状態になったといってもいい。
「今や俺が前隊長の息子であることは広く知られているだろう。そして前隊長の所業もな。皆が気にしないと言ってくれたとしても、俺の存在は必ず異法隊の活動に支障をもたらす」
「それくらいの支障はこちらで取り払うつもりでいるが」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、やはり俺の方で気にしてしまう。だから俺は――外から新しい異法隊を助けたいと思う」
「外から?」
「……具体的にどうこうというのは、実はまだ考えていないんだが」
 頭を掻きながら零次は言った。
「すぐに思いつくものでもないだろう。……だが、そうだな。組織の外の協力者というのも悪くはない。例えば、俺たちが再び道を誤ろうとしたときに止めてくれるような奴が一人は欲しいところだ」
 刃は納得したように頷いた。
「すまないな。期待に沿えずに」
「いや、むしろある意味では期待以上だ。俺は異法隊再興のことばかり考えていたからな。少し離れた視点での意見を聞けて蒙を啓かれたような思いだ」
「兄さん、ちょっと大げさじゃ……」
「かもしれん。だが良い話ができたというのは本心だ」
「――刃。そろそろいいか?」
 と、いつの間にか赤根や藤村は雑談を終えていたらしい。
「すまん。今行く」
 刃は零次たちに会釈すると二人のところに向かった。
「それじゃあな」
「たまには連絡くださいよ」
「榊原家にもたまには顔を出せ」
「ああ、そのときはよろしく」
 手を振りながら、三人は去っていく。
 それを見送る零次の隣に立って、涼子は少しおかしそうに言った。
「零次って異法隊の皆と一緒だと少し表情変わるわね」
「そうか?」
「うん。ちょっとだけ妬いちゃうかも」
「馬鹿を言え」

 そこから更に月日が経ち、榊原邸が無事修復したという連絡があった。
 長らく飛鳥井家の屋敷に厄介になっていたが、家が元通りになったのならいい加減帰るべきだろう。
 そういう話をしたところ、意外にも郁奈がぐずった。
「……すみません。まさか郁奈がこうも聞き分けないとは」
 冷夏が申し訳なさそうな表情を浮かべる。
 普段聞き分けの良い子だったから、皆が帰ることに対し駄々をこねるとは思っていなかったのだという。
「考えてみればあの子、最近はよく笑ってたものなあ。きっと皆と一緒で楽しかったんだろう」
 お茶菓子をつまみながら呑気そうに語るのは幸町だ。彼は冷夏より少し遅れてこの家に戻ってきた。飛鳥井本家の方でいろいろと暗躍していたようで、「今回は疲れたなあ。しばらく何もしたくないや」とだらだらするようになっている。
「孝也。あなたからも郁奈を説得してください」
「難しいと思うけど、やってみるかな」
 よっこらせ、とこたつから這い出て幸町は郁奈が立てこもっている部屋に向かった。
 だが、それから五分もしないうちに「やー無理だったよ」と戻ってくる。
「ここで皆一緒に暮らせばいいじゃん、だってさ。いっそのことそうしちゃう?」
「そういうわけにもいかないでしょう」
「ま、そうだよね。でもこう言ったらなんだけど、僕は少し安心したかな」
「安心、ですか?」
「あの子、まだ八つだからね。仲の良いお兄ちゃんお姉ちゃんともっと一緒にいたいって我儘言うのは普通だろう? むしろ今までが良い子過ぎたからさ。そういう意味でちょっと安心した」
「……そうですね。そういわれると、確かに」
 幸町の言葉に冷夏も頷いた。
 郁奈はこれまで「二〇〇五年の十二月」という悪夢に囚われていた。それが終わったことで、ようやく年相応の子どもらしさが出せるようになったということなのだろう。
「……どうでしょう。皆さん、しばらくこの家に住むというのは」
「お前さんまで甘やかす側に回ってどうすんだ」
 さすがに榊原がツッコミを入れる。
「少なくとも俺は帰るぞ。家主が家を空けたままにしておくことはできん。それにここからだと通勤が辛い」
 真っ当な社会人である榊原は今も日々警察署で勤務しているが、この屋敷はそこから結構な距離がある。
「すまないが我々も学校があるので、ずっと残るというのはちょっと……」
「私もそろそろ部屋に戻らないと。随分空けちゃってるから……」
 零次や涼子も頭を振る。
「そうですよね……」
 はあ、とため息をつく冷夏。
「ときどき遊びに来る……というのでは駄目でしょうか」
 遥が提案するも、冷夏は「うーん」と唸った。
「遊びに来ていただければあの子も喜ぶと思いますし、私たちとしても歓迎いたしますが――多分、あの子が今駄々をこねているのはそういうことじゃないと思うのです」
「多分『今』が終わっちゃうのが嫌なんじゃないかな」
 美緒が冷夏に続けて言った。
「いーちゃんにとっては長い長い地獄のような二学期が終わった後の冬休みなんだよ、今は。でも休みが終わったらどうなるか分からないから、それが嫌で――怖いんだと思う」
「……そうですね。おそらく、そうなのだと思います」
「なら、これからもこういう時間があるってことを行動で示せばいいと思うわけよ!」
「なんか聞くのが怖いけど、何しようってんだお前」
「宴会!」
「……」
 美緒の提案にげんなりとした表情を浮かべる梢。
 しかし、意外と他の面々の受けは良かった。
「楽しそうだね! 私料理作るよ!」
「今回はいろいろあったからな……。打ち上げみたいなのはあってもいいかもしれない」
「あ、未成年組はお酒駄目だよ。僕は飲むけど」
「孝也……。ああ、でもやる分には構いませんよ」
 誰も止める者がいない。自分の方がマイノリティだと気付いた梢は釈然としない面持ちを浮かべつつ、腰を上げるのだった。

 広間の方から賑々しい声が聞こえてくる。
 部屋にこもっていても否応なく聞こえてくるその声に、なんだか一人こもっているのが馬鹿らしくなってきた。
「……なによ。みんなして」
 自分がこれだけ寂しい思いをしているというのに。
 そう思いながら部屋の戸をそっと開けて、広間の方へと向かっていく。
 その途中、郁奈はある部屋の前で足を止めた。
 戸を軽く叩いてから、そっと開ける。中は薄暗い。
 そこには一人の男性が横になっていた。上泉陰綱だ。
 彼は涼子を守ろうと一夜と激闘を繰り広げていたが、胸を突かれて戦闘不能になった。
 命を落としてもおかしくない傷だったが、肉体強化の魔術で心臓を強化し、かろうじて致命傷を避けていたのである。
「……どうかされましたか」
 郁奈の気配に気づいたのか、陰綱は上体を起こした。自由に歩けるほど回復はしていないが、こうして話をするくらいのことはできるようになっている。
「あちらでは皆盛り上がっているようです。郁奈様も行かれてはいかがでしょう」
「陰綱はいいの?」
「怪我がなければ芸の一つでもお見せするところですが、生憎の状態ですので。ああ、食事なら先ほど涼子様が持ってきてくださいましたので、いただきました」
「そう。……お祖母様はどうされたのかしら」
「少し前に遥様が声をかけておられたようです。不首尾だったようですが……。今は、一人になりたいときなのでしょう」
「そう。……そうよね」
「未了様のことを気にされているなら、それは不要かと思います。郁奈様は郁奈様で楽しんで来られると良いでしょう。この『今』は――そして『これから』は郁奈様たちが勝ち取ったものなのですから」
「……うん。分かった。ありがとう」
 陰綱に礼を言って郁奈は広間に向かった。
 どうやって入ろうかと迷いながら中を覗き込んでいると、不意に背中から抱き締められた。
「やっと来たね、郁奈ちゃん!」
「は、遥!?」
 声と背中に当たる感触で相手が誰だか瞬時に察する。
「みんな~、郁奈ちゃん来たよ~!」
 郁奈を抱きかかえた遥が広間に入ると、全員がわっと声を上げた。
 なんというか、全員できあがっているように見える。
「は、遥……もしかして飲んでるでしょ!?」
「え~、大丈夫だよぅ。幸町さん言ってたよ、これくらいは飲んだうちに入らないって」
「孝也ーっ!」
 郁奈の渾身の叫びは、幸町に届かなかった。彼は既に爆睡モードに入っていたのである。
「れ、冷夏は……」
 と、救いの主を探そうとしたが、郁奈が見つけたのは涼子や零次を捕まえてぐちぐちと語り続ける冷夏の姿だった。
「だいたい、本家はいっつも私を軽く見て馬鹿にするんです。新参者だの放蕩者の子だの。でもそれって私悪くないと思いません? 悪くないですよね? だいたい全部親が悪いんですよ親が。飛鳥井本家の嫡男だったくせしていきなり家出て旅してあちこちで女作るとかなんなんですか! ろくでなしですよ!」
 とてもこの場を収められるようには見えない。
「ほら、郁奈ちゃん! 私たちでいっぱい美味しいもの作ったから食べて食べて!」
 目の前の皿に様々な料理が乗せられていく。確かに美味しそうだがちょっと待って欲しい。
「た、食べるからちょっと待って!」
「いっぱいあるからねぇ~」
 郁奈が食べるたびに遥は相貌を崩した。顔は既に真っ赤である。どう見ても完全に酔っぱらっていた。
 だが、そんな表情がふと素に戻った。
「……郁奈ちゃん、本当にありがとうね」
「え?」
「郁奈ちゃんが夢のことを教えてくれなかったら――私たちは何もできなかったと思うから」
「……」
 なんと応えれば良いか分からず戸惑っていると、遥は再び表情を崩した。
「デザートもあるよ。私と梢君でオリジナルパフェ作ったんだぁ~」
 どんっ、と重々しい音を立てて前が見えなくなる大きさのパフェが置かれる。
「遠慮せずに食べてね!」
「……う、うん」
 すべて食べ終える頃には、良くも悪くも郁奈の不安は吹き飛んでいた。

 翌日。
 飛鳥井の屋敷を離れるタイミングで、ちょうど緋河天夜が訪ねてきた。
 彼は事件が一旦収束するとそのまま家に戻っていたのだが、その後の顛末を聞き知って一度顔を出しに来た、ということらしい。
「万事が万事丸く収まったというわけではないみたいだが、無事解決したようでなによりだ」
「今回はいろいろと手を貸してくれてありがとうな」
「困ったときはお互い様というやつだ。そこまで大したことをしたわけでもない」
「したことの大小じゃないさ。困ったことがあったら気軽に連絡してくれ、俺の方でも力になれることがあるかもしれない」
「あんたの力を借りるほどの事態には遭遇したくないけどな……」
 梢の申し出に笑みを浮かべつつ、天夜は屋敷の中に視線を向けた。
「泉家の姫さんは、まだ?」
「ああ。少しずつ回復はしてきてるみたいだけど……気を持ち直すにも時間は必要だろう」
「……そうか」
 天夜は少し物思いに耽るような表情を見せた。
「あんたたちももう出るみたいだし、あまり長居しても悪い。俺はそろそろ行くよ」
「そっか。なんか悪いな、タイミング合わなくて」
「こっちがアポなしで来たんだ、別に気にしなくていい」
「これからどうするんだ? また家に戻るのか」
「いや、少し実家に顔を出しておこうと思う」
 天夜は現状家を出て一人暮らしをしていると聞いたことがある。実家とは何かいろいろあるようだったが――。
「うちもいろいろあるが、一月に少し顔を出すくらいはしておいた方が良いかな――と、少しそう思ったんだ」
 手を上げて去っていく天夜。
 その背中は、少しだけ寂しげに見えた。

「お母さん」
 屋敷を離れる前。
 一度挨拶をしておこうと、遥と涼子は未了の元を訪れていた。
 未了は相変わらず暗い表情のままだったが――二人の声には反応を示した。
「私たち、もうそろそろ出るね」
「……そう」
 未了は小さく頷いた。
 関心がないから反応が薄い――というわけではない。どう応えればいいか分からずにいるのだ。
「お母さんも、今度秋風市に遊びに来てね。歓迎するから」
「もしサカさん家が嫌なら私の部屋でもいいわよ。そんなに広くはないけど、二人なら全然大丈夫だし」
「……」
 未了は頷くべきか迷いながら、口をつぐんでしまった。
「……二人とも。今更だけど、無理はしなくていいのよ」
「無理って?」
「私のことを無理に母と呼ばなくてもいいの。……私は泉の里が滅んでから、あなたたちを探そうとしなかった。母親失格よ。あなたたちだけじゃない。私は、優香も、晃夜も、誰も――」
 そこから先は、言葉にならずに消えてしまった。
 未了は涙を流してはいなかった。しかし、彼女が泣いているのだということは遥たちに十分伝わっていた。
「お母さんが私たちを探そうとしなかったのは、私たちを信じるに足る人たちに預けたから。自分みたいに普通じゃない人が関わらない方が子どもたちにとっての幸せになるから。そう考えてたからだって、陰綱さんに聞いたよ」
「結果として私たちの方もいろいろあったけど……それは結果的にそうなっただけだから。母さんのことを責めるつもりはないわ。多分優香姉さんも……晃夜さんも同じだと思う」
「お母さんとどう向き合えばいいのか、正直私たちもまだよく分からないところはあるんだけどね。でも、だからこそ、今はこうして向き合おうとすることができるようになったわけだから――逃げずに向き合いたいんだ。だってお母さんが今こうして目の前にいてくれるんだもの」
 遥の言葉に、未了は顔を上げた。
「これからでいいじゃない。これから、母娘らしい時間を過ごしていこうよ」
「うん。私たちはそうしたいと思ってる。……お母さんは、違う?」
「――いいえ。違わないわ。……違わない」
 未了は何度も何度も頭を振った。
 少しだけ、表情の陰りが消えた。
「……ありがとう。遥、涼子。今度、私の中でいろいろな整理がついたら――遊びに行ってもいいかしら」
「うん。絶対来てね」
「むしろ来なかったら許さないからね」
 未了の口元が綻んだ。
「それじゃ、気を付けて帰りなさい。他の皆さんにもよろしくね」
「うん」
「母さんも、元気で」
 手を振りながら去っていく娘たちを見送る未了の目から――涙が零れ落ちた。
 それは、冷たいものではなかった。

 そうして――いろいろな別れを経て、彼らはようやく家路についた。
「どんな風になってるかな、新しい家!」
「前と同じだ。変に変えられても困る」
 運転席の榊原と助手席の美緒の話を聞きながら、零次がふと呟いた。
「……そうか。帰れるんだな。一人も欠けずに」
「ああ。おかげさまでな」
 梢がそれに応える。
「今後も無茶したら駄目ですよ、先輩。姉さん泣かせたら地獄まで追いかけてしばき倒しますからね」
「分かってるよ。こんな俺でも死んだら泣く奴がいるってのは十分理解した。もう一人で無茶はしないさ」
「無茶という点では涼子ちゃんも心配だけどね」
「同感だ。というか冬塚も倉凪も生存率という点では大差なかったから、人のことは言えないというか……」
「零次?」
「すみません、なんでもないです」
 彼らのこれからを思わせるような、賑やかな帰路。
 一人ではなく、皆で進む道。
 目の前に広がる夕焼け空が、明るく輝いて見えた。



 ――草薙樵――
 その後、彼が特定の組織に属することはなかった。
 ただ、彼の名は数多の記録に残っている。
 いくつもの事件の解決に力を貸したその在り方から、後年英雄視されることになったという。

 ――古賀里夕観――
 魔術師として数々の功績を上げ、古賀里家を無事再興させた。
 そのため後世では古賀里家中興の祖と呼ばれる。
 彼女が再興した古賀里家は以前と異なり『破壊』だけでなく『再生』を専門とするようになったという。

 ――フィスト――
 古賀里夕観の傍らで、彼女を支え続けた。
 彼女との間に子どもたちが生まれると、彼女と子どもたちのどちらを『一番』にするか迷うようになったという。
 時折夕観の側から離れることもあったが、その間何をしていたかは明らかになっていない。

 ――矢崎刃――
 数年後に異法隊日本支部を復活させ、支部長に就任する。
 落ち着いた佇まいと確かな実力、正確な判断力から多くの隊員に慕われたという。
 私生活は非常に質素だったというが、温かな家庭を築けたそうだ。

 ――赤根甲子郎――
 矢崎刃とともに異法隊日本支部を復活させる。
 持ち前の諜報力を生かして異法隊のために暗躍したというが、具体的な事績は明らかになっていない。
 口は悪いが面倒見のいい性格だったようで、意外にも女子隊員からの人気は高かったという。

 ――藤村亮介――
 矢崎刃とともに異法隊日本支部を復活させる。
 刃の補佐役として、対外的な交渉や組織内部の問題の調停などを行った。
 彼なくして新生異法隊日本支部はありえなかったとまで言われている。

 ――飛鳥井冷夏――
 飛鳥井家当主の養子となり、後年正式に家督を継承する。
 後に大きな事業を成す新興の魔術の家柄の後援を多数行ったことから、後世『偉大なる支援者』と呼ばれた。
 一方、飛鳥井家が保持していた土地を多く分け与え同家の勢力が弱まったことから、当主としての評価は分かれている。

 ――幸町孝也――
 飛鳥井冷夏の元に婿入りして飛鳥井孝也となった。
 飛鳥井家の後援で魔術を活かした医療局を設立し、初代局長に就任する。
 個性的な部下に振り回される日々だがそれなりに楽しんでいる――とは本人の弁。実際は割と振り回す方だったらしい。

 ――緋河天夜――
 事件解決後、故郷に戻った。
 その後の彼については別途記録があるため、そちらを参照されたし。
 時折秋風市を訪れたり、古賀里夕観たちと会ったり、草薙樵と組んで何かやらかすこともあったという。

 ――上泉陰綱――
 生涯を通して真泉未了の護衛役としての任を全うした。
 この事件の少し後にある女性と籍を入れており、一男一女を授かったという。
 その腕前に惚れ込んで弟子になろうとする者が後を絶たなかったとも言うが、彼が弟子と認めたのは三名だけである。

 ――常盤――
 泉の里の留守居役としての役を未了から解かれ、その後は世界中を旅して回るようになった。
 特定の組織に属さぬ私人として多くの記録を残しており、後世の研究者から重宝されるようになる。
 余談だが、実は彼女には弟が一人いたらしい。ただ、その詳細については一切記録に残されていない。

 ――真泉未了――
 この事件後、人間と翼人の橋渡し役として活躍した。
 娘や孫たちのところにも少しずつ顔を出すようになったという。
 後に泉家の者たちを弔うための寺を建立したと伝わっている。



 偉丈夫が一人、進んでいく世界の線を見送っていた。
 ここには彼しかいない。
 語り合う相手もなく、たった一人で進み続ける世界を見続けている。
「……一つの世界が変わったか。これで流れが変わる。他の世界でも、二〇〇五年の結末が変わり始めるだろう。そなたがそのすべてを犠牲にして出来たのは『誰かに助けを求める』ということだけだったが……それが、流れを変えた」
 偉丈夫の言葉には、もうここにはいない誰かを労うかのような優しさが含まれていた。
「こうして少しずつ世界の流れを変えていけば――そのうちわしやそなたが幸せになれる世界も生まれるのだろうか」
 答えはない。必要ともしていない。
 どうせ『不変』の身だ。時間は無限にある。ありえないと思われていた可能性が作られる様もこの目で見た。やらない理由はどこにもなかった。
「……では始めよう。また長い長い旅路になりそうだが……彼らに倣って、わしも……私も諦めずに行くとしよう」
 道は進んでいく。
 今は一人でも――いつかまた誰かと出会えるだろう道だ。