魔法使いの旅

旅愁
 どれほどの時間、どれほどの場所を歩いてきただろうか。
 彼は再び、この場所へと戻ってきた。
 第二の故郷とも言うべき、この場所へ。

 空虚に佇む墓石を前に、秋人は立ち尽くしていた。
 墓石には名前すら刻まれていない。
 ただ、綺麗な長方形の石が置かれているだけ。
 そこに故人の生きた証は、残されているのだろうか。
 秋人には、そんなものは感じられなかった。
「まさか、ね」
 肩から荷物袋を下げ、腹の底から吐き出すような声で言った。
 その視線は墓石には向けられていない。
 ただ、空を見ようとしていた。
 墓石などを見ることに、意味はない。
 こんなモノは、ただ故人を思い出すためのキッカケに過ぎない。
 誰かが生きて、死んだことの表れ。
 秋人はそんなものに頼らずとも、故人のことを鮮明に思い出すことができた。
 だから、墓石は見ない。
 空を見上げたところで、何があるというわけでもないのだが。
「いけない、どうも感傷的な気分になる」
「無理もない」
 秋人の隣に浮かび上がる、奇怪な書物が声を発した。
 名前のない魔道書ということから、ナナシと呼ばれている本である。
 皮肉屋で、尊大な態度を取ることが多いナナシも、今はどこか元気がない。
「人の死に接するときは、そうであるのが普通だ。何も、感じなくなるな」
「それ、師匠の言葉」
「ああ、そして俺があいつに送った言葉でもある」
 秋人はいつもならそこで、なんだナナシの言葉か、と返す。
 だが、今の彼はただ黙っている。
 吹き抜けるような青空が、余計に感情を揺さぶるようでもあった。
 こんな空を見ていたら、懐かしい日々を思い起こしてしまう。
 それは、辛い。
 秋人は背中を反らし、腕を空に目掛けて高々と掲げた。
 やがて、そのまま勢いに乗って仰向けに倒れこむ。
 地面は泥だらけで、服が汚れた。
 見えるのは広がる青空。
 秋人はそれを、敢えて見ようと思った。
 きっと今なら沢山思い出せる。
 思い出せば、哀しくなるだろう。
 だが、今はそうしようと思った。
 おそらく時が経てばこの思いは風化し、ただの光景に過ぎなくなってしまうから。
 今できることは今やってしまおう。
 そう思って、秋人は青空を焼き付けながら目を閉じた。

 目の前にあるのは、ただの青。
 それは空なのか海なのか、咄嗟には分からなかった。
 けれど、分からなくていいとも思った。
 どちらであろうと関係ない。
 青の中に秋人はいた。
「また、こんなところにいたのか」
 背後から、高らかに人の声が鳴り響く。
 ゆらゆらと揺れる景色の中、秋人は振り返った。
 そこにいたのは、中肉中背の女性だった。
 見た目はそれなりに若そうだが、既に40代半ば。
 秋人とは、親子ほどの年の差があった。
 もっとも、そのことを言うとしこたま殴られるのだが。
「いい加減にしないか、秋人。こんなところにいたら、すぐに呑まれるぞ」
 彼女の言葉は、どこかしら飛びぬけているところがあり、非常に分かりにくい。
 普通の人間が聞いたとしたら、間違いなく混乱するだろう。
 そして、魔術師たちでさえ、その意味を理解するのに時間がかかる。
 が、秋人だけは例外だった。
「呑まれませんよ。仮に呑まれたとしても、すぐに戻ってきます」
「意志が強いのはいいことだが、お前の結界制御法は不完全だ。自身の実力を過大評価するな」
 彼女は厳しい人だった。
 甘えや妥協、油断や過信を許さない。
 学校の先生に似ているな、と秋人は常々思っていた。
 彼らは広大な幻海の中にいた。
 世界に漂う魔力が創り出した、虚構の海。
 それは虚構だからこそ、美しかった。
(世界が思い出してるんだ)
 もっとも綺麗だった頃の海を。
 秋人は、この原因不明とされる自然現象をそんな風に考えていた。
「見惚れてるのは別にいいんだけどね。お前も男なら女とかに見惚れた方がいいんじゃないか?」
「師匠とか?」
「お前みたいなガキはお断りだ」
 それでもなぜか彼女は笑って、秋人の頭をゴシゴシと撫で回した。
 痛いのだが、同時になにか心地よさを感じる。
 普通じゃない場所で、彼は魔法使いに育てられた。
 振り返ってみれば、ただそれだけの話。
 幻の海はどこまでも澄んでいて、まるで雲ひとつない青空のようだった。

「喧嘩別れして、戻ってきてみればこんなものが用意されてるなんてな」
 ナナシの言葉が、秋人を現実に引き戻した。
 空は茜色。
 もう青空は過ぎ去ってしまったらしい。
「でも誰が用意したんだろう。結界のせいで、普通の人は入ってこれないし」
「あいつには、魔術師の知人もいなかったしな」
 ふむ、と考える仕草をしてナナシは声を上げた。
「お前、過去に戻って確かめてみたらどうだ?」
「いいよ」
 秋人はにべもなく断った。
 ナナシはふわふわと宙に浮かびながら、沈黙する。
「死に目に直接会ったらもっと辛い」
「会えないのも辛いぞ」
「どっちもどっちさ。ただ、死に目に会えない辛さは体験済みだから」

「秋人。お前、人の死をどう思う?」
 常に男のような口調で彼女は語った。
 以前秋人は、実は男なのではと尋ねたこともあったが、そのときは無言で第二級魔術を喰らわされた。
 第三級魔術が人間を殺害するのに十分であることを考えれば、情け容赦なしと言ったところだろう。
 それ以降、秋人はそのことに関しては怖くて尋ねることができなかった。
「寂しいですね」
「……お前は時折シンプルに物を言いすぎだな。私はもう少し正確な考えを聞きたかったんだが」
「そんなことを言われても」
 困るなぁ、と思いながら秋人はもう少し考えた。
 そもそも彼は人の死に触れたことがない。
 いや、正確に言えばあるのだが、そのことが彼の中に実感として残されていなかった。
「例えば僕の家族が死んだとしましょう。そうしたら僕はやはり悲しむと思います。しかし死んだのが他人であったとしたら、僕が抱く感想は二種類に分かれます」
「二種類か」
「大きく分けると、ですが。死に方が同情を誘うほど悲惨な物であれば、僕はしばしの間、その死を記憶に留めておきます。もし、有り触れた死に方だったならば、僕はその死に関心すら持ちません」
「それはなぜだと思う?」
「積み重ねた時間の差じゃないですか?」
 問いかけに問いかけで返す。
 彼女はそういったことをあまり好まない性質の人間だった。
 やや不快そうに顔をしかめ、腕組みをしながら秋人を見る。
「積み重ねた時間の差か。つまり、共にいた時間に比例して故人を思う気持ちは強くなり、短ければ薄れると言うことか」
「だと思います」
「それならば問うが、数年間会っていなかった幼馴染と、数ヶ月前に知り合ったばかりの恋人。どちらの死にお前は心を痛める」
「難解な質問ですね。付き合いは当然幼馴染の方が長いんですよね」
 ああ、と彼女は頷いて秋人の答えを待つ。
 そよ風に、生い茂る草が揺れ動く中、秋人は額に手をあてて思案していた。
 なかなか答えが見つからない。
 かと言って、焦るわけでもなく秋人は考え続けた。
 こういうときは下手に安易な答えを言うよりも、どれだけ時間をかけようとも実のある答えを言う方が、師の受けはいい。
 やがて日が沈みかけた頃、ようやく秋人は口を開いた。
「恋人でしょうか。そのとき身近に感じている人間と、遠く離れてしまった幼馴染とでは」
「つまり、時間の積み重ねだけでは人の死の重さは量れないと」
「そうですね。僕が軽率でした」
「いや、いい。お前のいうことも間違いではない。そんなものは人によりけりなのさ」
 カラカラと笑いながら彼女は立ち上がった。
「要するに、もっとも大事なのは認識なんだと思うよ、私は」
「認識、ですか?」
「そう。故人が自分にとってどれだけの人間であったかの認識。絶対にもう会うことはないという認識。その他故人に関する様々な認識を得て、その結果が死であった場合に人は始めて悲しむのさ」
「相手が憎い奴だったら?」
「それでも多少なりとは悲しみがある、本人の意識していないところで。嫌な奴が消えたという喜びもあるかもしれないけど、死の本質が生者にとって喪失であることには変わりはないしね」
「快楽殺人者とかはどうなんでしょう。大量殺人鬼とか」
「連中は“認識”していないだけだ。つまり前提が違う。自殺者なんかもそうだな。彼らは苦しみからの解放として死を選択した。
 それは当人たちにしてみれば手段であるという意味合いが強いんだろうが、結局は結果としてそれを迎え入れなければならない。けど、そのときには既に彼らは死んでいるから認識できないんだ。
 解放という結果を求めて、死を手段とする。しかし、その実得られるのは死までで解放なんてどこにもない」
「……皮肉な話ですね」
 嫌な気分になったのか、秋人は僅かに顔を歪ませた。
「でも師匠の言い分だと、ちょっと矛盾してません? この世には魂魄というものが確かに存在するでしょう」
「幽霊のことか。アレは死んでるわけじゃないと私は見ている。生きてもいないし死んでもいない。停滞存在に過ぎないよ。それのどこに解放がある? かえって、キツイ牢獄に閉じ込められたような気分になるだろうさ。そんなんだから、幽霊どもは生きてる人間を妬むんだよ。やっぱ死ななきゃ良かった、あいつら生きててむかつくぜ、って」
 しれっと言い放つ彼女の口調には、一切容赦がない。
 まるでその場に幽霊がいて、そいつを斬って捨てようとしているみたいだった。
「だから私は自殺願望を持ち、挙句未練タラタラ幽霊なんぞになる輩が一番嫌いだ。もっとも愚かなのは、停滞への道を歩むことだと言うのに」
「分かったから、そろそろ語りを止めたらどうだ」
 と、そこに第三者の声が割り込んできた。
 今までずっとその場にいながら、黙って聞いていたナナシである。
「お前は話が長いのが難点だな。小僧もそんなに一度に聞かされては混乱するだろう」
「む。ナナシに正論を吐かれるとたまらなく頭にくるけど、確かにそうだな」
 そんな風に言って、彼女は苦笑した。
 周囲はもう暗く、月明かりに照らされた3者の姿は、幻想的な雰囲気に満ち溢れていた。

「多分、この墓は師匠が用意したんじゃないかな」
「は?」
 過去を振り返った後、唐突に秋人が言った。
 ナナシはその言葉の意味を理解できず、素っ頓狂な声を上げる。
「ほら、師匠って思い切りよかったじゃないか。自分の死期を悟って、中途半端に未練残さないように自分の死の象徴とも言えるものを用意したかったんじゃないかな」
「つまり、自分の墓を用意することで自身の死を認識し、未練なくすっぱりとあの世に行こうとした、と」
「そう。師匠ってどこかそんな雰囲気あったしね」
 なるほどな、と呟いてナナシはため息をついた。
「俺の知る中ではもっとも綺麗な自殺だよ、それは」
「それ、師匠が聞いたらどう言うかな」
「嫌がるだろうな。別に自殺じゃなく、認識しただけだって」
 そんな光景は容易に想像できた。
 そして、想像することでしかその光景があり得ないと分かったとき、秋人の目から涙がこぼれた。
「久々だね、泣いたのなんて」
「ここで泣けるだけ泣いとけ。下手すりゃもう機会はないぞ」
「ああ」
 静かに墓石の前に佇みながら、秋人は故人のことを強く想った。
 少しでも、彼の人を強く認識しようと。
 その死を認識しようとした。
 そうすることで、彼の人を忘れないようにするために。