魔法使いの旅

図書館の話
 ある町の片隅に、今はもう使われていない図書館があった。
 町の住人たちは誰もが目に止めず、決して口にしない。
 なぜならその図書館は、はじめから存在していなかったのだから――――。

 都会と言えるであろう町も、探せば静かで人気のない場所などいくらでもある。
 そんな場所の一つに、その男は座り込んでいた。
 くたびれた背広の下に、紺色のスーツを着込んでいる。
 不精髭を撫でながら煙草を吸い、だらしなく四肢を伸ばしていた。
「なかなか、見つからない」
 誰に向けたものでもなく、確認のためだけの言葉を吐き出す。
 その眼光には疲労と失望の色が宿っていた。
 全てを収めし幻想の図書館。
 男はそれを欲している。

 彼は物心ついたときから知的探究心のカタマリだった。
 あれも知りたい、これも知りたい。

 ……全部知リタイ。

 その一念だけで彼は今まで生きてきた。
 自分が興味を持ったことは全て知ろうとしてきた。
 故にその欲望は休むことなく……次第に加速していく。
 学校などに入る前には人体構造を熟知していた。
 小学校に入る頃には既に男女の情事について悟っていた。
 中学校に入る頃には社会の仕組みを理解した。
 高校に入る頃には周囲の人間を研究し尽くした。
 大学は途中で退学した。
 二年の頃に、社会の表舞台には決して表れない“魔術”の存在を知った。
 大学での生活に虚しさばかり覚えていた彼はすぐさま魔道へと走る。
 ……それに反対した両親はそのとき殺した。
 死体は今でも発見されていない。
 証拠となるものは何一つ残らず、両親は行方不明ということになった。

 魔道の世界でも彼は異端者として扱われた。
 魔術師たちの総本山とも言うべき同盟での生活は快適だった。
 世界がまるで反転したかのように、今までの当たり前が覆されていく。
 自分の無知を悟り、彼は再び知ることに没頭していく。
 その姿は、魔道を極めようとする者たちにさえ不気味に映った。
「アレには目的がない。ひたすらに知を貪り喰らう怪物だ」
 そんな評価など彼は気にしない。
 彼が求めるのは自身という存在の価値ではなく、知識であった。
 異名がある。
 いつ誰が、どういった形で名づけたかは分からないが……彼はそれを気に入っていた。
 が。
 魔道の世界にさえ、彼は飽きた。
 魔術を極めたわけではない。
 彼にはそれだけの才能がなかった。
 魔術の会得には才能の有無が大きく関わってくるし、人によって得意な魔術のカテゴリも異なる。
 極めるなど、普通に考えれば不可能だった。
 彼は魔術の、知識面だけを極めた。
 知ってしまえば、それさえただの理屈と成り果てる。
(さて、どうする)
 知ることがなくなってしまうと、彼は次第に苛立ってきた。
 彼の生き甲斐はなにかを知ることであり、それがなければ生きている価値すらない。

 ――――死のうか。

 そう思い立ち、死ぬための方法を思案しているときだった。
「この世全ての知を収めた図書館があるらしい」
 魔道の道から外れたときに知り合った、蛇王の名を持つ男がそんな情報を寄越してきた。
 彼は狂喜した。
 それはまさに、自分のためにあるような場所ではないか。
「正確な場所は分からん。貴様が自分で探してみろ」
「君はいいのか?」
「私にはそのような暇はない。復讐者と殺し合いでもしている方が有意義だ」
 言い捨てて、男は去った。
 それ以降その男とは会っていない。

 あれから数年。
 望んだものはまだ見つからない。
 ただ、あと少しというところまで着ているのは確かだった。
「なぜならその図書館は、はじめから存在していなかった」
 この町に伝わる図書館の言葉。
 彼は確信していた――ここに、望んだものがある、と。
「……あと、少し」
 夕闇に包まれながら、彼は1人微笑む。
 誰に向けたのか、なんのためのものなのか。
 そんなことを一切感じさせない、空虚な笑み。

『1989年、7月4日。
 ある一組の夫婦が突如行方不明となった。
 4日早朝、隣に住んでいた女性と挨拶を交わし、以降目撃されていない。
 その女性の証言によると、その日は久々に息子が尋ねてくる予定だったらしく、とても楽しそうだったという。とても失踪するような人たちではなかった――。
 そのため警察はなんらかの事件に巻き込まれたとして捜査に乗り出した。
 ところが。
 近所に住む人々に事情を尋ねてみても、有益な情報は何一つ出てこない。
 隣家に住む女性も、
「物音一つしませんでした。どこかに出かけているのも見てませんし」
 唯一怪しいと思われたのは、その日尋ねてくるはずだった夫婦の息子である。
 だがこの息子は、天候の影響で電車が大幅に遅れた。
 彼が現場に到着したのは警察よりも後だった。
 状況証拠も物的証拠も何一つ発見されなかったため、事件はお蔵入りとなった』

『――――夫婦は今も家の中にいる。
 隣家の女性の言うとおり、彼らは息子の到着を待っていた。
 ただし楽しみにしていたわけではない。
 そんなものはただの見せ掛けに過ぎない。
 夫婦は息子のことを少しも可愛くも頼もしくも思っていなかった。
 その辺りの事情は、周囲の人間は知らない。
 人間とはその気になれば、恐ろしいまでの隠蔽力を発揮する。
 彼らの息子は化け物だった。
 知識を無限に貪り喰らう真性の怪物。
 夫婦は既に息子が、己の知識欲を満たすためにどんなことをしてきたかを知っている。
 人間関係の変動テストのために、友人のガールフレンドを強姦した。
 人間の精神状態をテストしたいという理由で、幼子から老婆に至るまで5人程の人間を拷問し、殺した。
 美味いかどうか確かめたいという理由で、小さい頃から飼っていたペットの犬を食った。
 それらが形となって表れているのは、実家にある彼の部屋だ。
 それほど広くない部屋の扉を引くことによって開けると――そこは本の世界となる。
 書斎とか、そういったレベルではない。
 部屋そのものが本で出来ているような錯覚を見るものに与える強烈な部屋だった。
 しかもその半分以上が、彼自身のレポートなのである。
 彼が記した、彼の行いの全てが、直に書き込まれた紙。
 それを最初に見たときに夫婦は、いずれ自分たちが殺されると直感した。
 果たしてその通りの結果となる。
 夫婦はその日、昼過ぎに死んだ。
 刺殺である。
 殺したのは――――』
 <世界犯罪史・未解決――日本ナンバー××××××より>

 彼の眼前には一つの建物があった。
 それは図書館などではなく――――廃校だった。
 夜の闇に包まれながら、辺りに静寂は訪れない。
 何者かの呻き声がずっと聞こえ続けてくる。
 それはよく聞けば風のようでもあり、またよく聞けば呪詛のようでもあった。
「ここ、なのか?」
 彼はその学校を知っていた。
 否、知らぬ場所などない。
 知識としてなら世界中の学校の成立から今日に至るまで、その間の全ての生徒の名前や卒業後の進路さえも答えてみせる。
 彼は深夜の校舎へと足を踏み入れた。
 今日まで何度も検討してきたが、やはりこの場所だという確信を強めた。
 該当する場所はただ一つ。
「図書室」
 明治後期、この町に学校が設立。
 当時は賑わいを見せていた学校だったが、第二次世界大戦中に空襲によって焼失。
 予算の都合で学校はそのまま放置されることになった――――。
 つまり。
 彼が今足を踏み入れている場所は。
 ……ありえない場所なのである。
 彼の知識は告げる。
 消失する少し前の頃から、この学校は改築するという計画が持ち上がっていた。
 その際に是非ともと薦められていたのが――――学校図書館だった。
 しかし空襲という災厄が全てを無に帰した。
 出来るはずの無かった図書館。
 そこには一冊の本も入ることはなかった。
 だから求めたのだろう。
 あらゆる本を。
「私と、同じ」
 ふふ、と陰鬱な笑みを浮かべる。
 眼だけがギラギラと輝いていた。
 やがて視界にプレートが止まる。
 そこには歪な、子供の落書きのような字で『としょかん』と書かれていた。
 プレートは埃まみれで年季を感じさせた。
 その下にある扉はゴツゴツとした、木の板そのものだった。
 きちんと作られていなかったから、こんなものになっているのだろうと納得する。
 それよりも、板の隙間から見える暗闇に彼は心躍らせた。
 あの向こうには全てがある。
 なにもかもを知ることができる、彼にとっての理想郷が。
 恐る恐る手を板へと伸ばしてみる。
 触れてみると、まるで成人男性の腕に触れているような感覚だった。
 そのくせ、隙間の闇から吹き込んでくる空気はいやに冷たい。
 彼はそれを恐怖とは思わなかった。
 その先にある快楽への道でしかない。
 そう考えていたのである。

 ――――が。

「あなたは、本当にその扉を開けるんですか?」
 背後から自分とは違う誰かの声が聞こえてきた。
 緩慢な動作で振り返る。
 と同時に窓が一斉に開き、強い風が怒涛の勢いで入り込んできた。
 ゆらめくカーテンの前に、月光に照らし出されて一人の男が立っていた。
 前髪が右側だけ長い、どことなく妙な雰囲気の男。
 その男のことは、知らなかった。
 知らないものは興味対象となる。
 彼はひとまず男へと向き直った。
「君は誰だ?」
「魔法使いです。今晩は、知識の怪物さん」
 魔法使い。
 それは興味深い。
 興味深いが――――それも、図書館を得れば、じっくりと知ることができる。
「私がなぜここに来たと思う」
「その扉の向こうにあるものを、得るため」
「……知っているのか、この先を」
「ええ。そこには確かに貴方が望む全てがある」
 男の言葉に嘘はないと確信。
 その瞬間、彼の胸のうちから喜びが溢れ出てきた。
「しかし」
 男は目を細め、確認するように尋ねてきた。
「貴方は本当にそれでいいのですか」
「いい。私は全てを知る」
「――――そうですか」
 嘆息すると、男はふわりと陽炎のように儚くなった。
 彼はもはやそんな些事には構っていられなかった。
 夢が。
 全ての夢がこの先にある。
 あらゆる知識を詰め込んだ図書館が、今そこにある。
「私は知る」
 勢いよく扉を開け……。
「――――世の全てを。それがエンドレス・ノウレッジの意義だ」
 眼前に、見果てぬ巨大な闇が広がった。

「いいんですか? あの人を放っておいて」
「構わないですよ、彼は別に害にならない」
 月光に照らし出されるグラウンドの中央で、一組の男女が立っていた。
 先ほどの男と、着物の女性。
際限なき知識(エンドレス・ノウレッジ) か。また随分と皮肉なあだ名をつけたなぁ。誰だか知らないけど、その人は彼がああなると予想していたんだろうね」
「……どういう、ことなのでしょう?」
「彼は永遠に知識を欲し続けるという、そのまんまの意味ですよ。全てを内包する無限の図書館があったとしますよ? そこに行き着けば全てを知ることができると思いますか?」
「えーと、それは……できないんじゃないかと」
「それは、なぜ?」
「本を読むのに時間がかかりますし……“全て”を知るとなると」
「そうです。全てなど、知るにはいったいどれだけの時間をかければいいのか。さらに、本を読み続けている間にも知識というものはどんどん増えていくんです」
 新たに人が生まれれば、それだけ世界に存在する知は増大する。
 一秒時が経てば、細かい部分にならば違いが出てくる。
 明日の天気はなんだろうか。
 一年後のこの国はどうなっているのか?
「彼がどんなに頑張って本を読み続けたとしても、“全て”に追いつくなどありえない。故に彼は、永遠に知を追い続ける奴隷となる」
「だから…… 終わりなき知識(エンドレス・ノウレッジ)
 女性は悲哀と、そして恐怖の混ざった声で呟いた。
「……あいつが追い求めているのは知識ではない」
 男の側に浮かぶ一冊の本が、二人の言葉を否定した。
「アレは情報を収集しているに過ぎん。永遠に知識を追い続ける奴隷とは――ある意味では、俺のことだ」
 本。
 それは人が情報を形として残すためのもの。
 そして人に知識の源となる情報を与え、学ばせるもの。
 それは確かに、人の知識に酷使される奴隷と言えるかもしれない。
 ――ふと、彼女は男に聞いてみた。
「彼は、まず最初に何を知ろうとするのでしょう」
「そうですねぇ、僕から言わせれば下策も下策ですが……彼ならやはり――――」

 闇の中。
 どこまでもどこまでも続く本棚を前にして、彼は高らかに笑い続けた。
「私は知る。全てを知る。そのためにはまず」
 ぴたりと、笑いが止まる。
 狂気を孕んだ瞳で、彼は闇を見据えた。

「――――不老への道。全てを知るには無限の時間が要る」

 例えその結果、無限に知の奴隷となるとしても。
 彼は迷わず、一歩を踏み出した。