魔法使いの旅

鬼は外
 節分の日は外に出ないほうがいい。
 鬼で溢れかえっているから。
 そんなことを誰から聞いたか、よく思い出せない。
 ただその言葉を言った人は、とても真面目な表情をしていた。
 狂いそうな思考をどうにか押し留めて、無理矢理聞かせていたような感じなのである。
 その鬼気迫る様子は思い出せても、どうしても誰かは思い出せない。
 けれどそれは些細なことなのだろう。
 そう思って、私は思考を中断した。
 目を開けてみれば、視界一杯に緑の山々が広がる。
 この辺りの中でも特に絶好の景色だと私は思っていた。
「さてと、あの旅人さんもそろそろ目を覚ますかな」
 昨日の夜、山の中で倒れていた旅人。
 日課である散歩の途中で見つけたのだが、どうやら消耗しているらしく、意識が薄れていた。
 かろうじて“旅人”であることは分かったが、それ以外は……名前さえも知らない。
 放っておくのも後味が悪いので家へと連れ帰ったのだが、そろそろ起きている頃合だろう。
 なにしろ旅人だ。
 このご時世に、なんとも珍しい。
 いろいろと面白そうな話も聞けるのではないかと、少し楽しみにしている。
 私は集めた山菜を手にして、急ぎ足で自分の家へと駆け戻った。

 家に戻ると、案の定旅人さんは起きていた。
「どうも。ところでここはどこでしょうか」
「私の家です。覚えてますか、昨日のこと」
「ええ、助けてもらったみたいで。申し訳ありません」
「いえいえ、こちらも毎日暇な生活してる身ですから」
 人助けですらも単なる道楽に過ぎない。
 それくらいに私の生活は停滞しているのだった。
「ところで旅人さんは、何故あんなところに?」
「いやぁ、この山に一人暮らしをしている変わり者の女性がいると聞いたんで、折角だから尋ねてみようと――ん? それってもしかして」
「私のことでしょうね、おそらくは」
 生まれてこの方十六年。
 この山だけを生きる場としてきたが、私以外に人間は見かけなかった。
 だから旅人さんが倒れていたときにはびっくりしたものだ。
 そのことを言うと旅人さんも驚いたらしい。
「ということは、この山からは出たこともないと?」
「ええ、そうですよ」
「それは凄いことだ。僕も旅を始めて数年になりますが、貴方のような人は始めてみましたよ……あ、悪く思われたなら申し訳ありません」
「いえいえ。でもですね、ちゃんと理由はあるんですよ」
 なんとなく変な人と思われたままなのは嫌だった。
 だから私は、家に代々伝わる“使命”の話をすることにした。
 旅人さんも興味深そうなので、少しだけ話すことが嬉しく思える。
「理由とはなんですか? よければお聞かせください。僕、何か色々なものを見てみたいという思いから旅を始めたんで、そういう話はとても魅かれるんです」
「分かりました。でも――」
 あまりにも興味深そうだったから、少しだけ焦らしてみよう。
 そんな悪戯心が芽生えた。
「とりあえずご飯にしましょう」
 旅人さんは気の抜けたような表情になって、笑った。

 閉鎖された世界で生きなさい。
 それが貴方の喜びなのだから。
 そう、信じてください。
 せめて私が生きている間は。

 朝食が終わると、旅人さんは散歩に出かけたいと言った。
 食後の運動なんだそうだ。
 私も散歩は好きだから、一緒に行くことにした。
「た、旅人さん足早いですね」
「うーん、旅慣れてるからかな。これでも遅めに歩いてるんだけど」
「うぅ、住み慣れた場所だからこっちが足早いのが普通だと思うんだけどなぁ」
 旅人さんは一見華奢に見えるけど、実際は物凄くマッチョなのかもしれない。
 そう思ったことが顔に出ていたのか、旅人さんはこちらを見て困ったような笑みを浮かべた。
 なんとなくそれが恥ずかしくて、私は歩くスピードを上げる。
「それで、さっきの話なんだけど聞かせてもらえるかな」
 こちらが何かを言うよりも先に旅人さんから口を開いてきた。
 なんだかどんどん向こうのペースに乗せられている気がする。
「……ええとですね。旅人さん、この山の名前知ってますか?」
「いや、知らない。なんて言うんだい?」
「高鬼山って言うんです。鬼がうじゃうじゃいるからそういう名前がつけられたんです」
 旅人さんを驚かせようと、声を低くして大袈裟な調子で言ってみた。
 でも旅人さんにはあまり効果はなかったらしい。
 さして驚く風も見せず、ただ私が続きを言うのを待っているようだった。
「……あれ、今ので終わり?」
「いえ違います。でも旅人さん、驚かないんですね……もうちょっと驚くと思ったんだけどなぁ」
「ああゴメンゴメン。僕はどうも鈍いところがあるらしくて」
「はぁ、まぁいいですけど。それで、私の一族は巫女の家系なんです」
「巫女? 鬼たちをどうにかするための、とか?」
「はい。私の家には代々鬼を封じ込める力が受け継がれているそうなんです」
 詳しくは知らない。
 私は気づけばここにいた。
 かすかにある記憶の中で、誰かがそんなことを言っていたような気がする――それだけ。
「ですが、その力は山から出ると失われてしまうそうなんです。だから私はここにいないと行けないんですよ」
「なるほど。貴方はこの山の生き神とでも言うべき存在なんですね」
「い、生き神だなんて恐れ多いですよ」
「謙遜しなくても構いません。僕の連れにもドジな女神がいますから」
 ――ひどいですよぅ。
 そんな声がどこからか聞こえた気がした。
「……今、何か聞こえませんでした?」
「気のせいでしょう。ええきっと気のせいです」
 爽やかな笑顔で旅人さんは力説した。
 私は少しだけ気になったけど、もっと気になったことがあったので尋ねてみた。
「あの、お連れの方がいるんですか?」
「ええ、現在は麓の村で観光中です。生意気な年寄りとちょっとドジな女性なんですよ」
「はぁ……あの、なんだか殺気みたいなのが満ちてる気がするんですが」
「ははは、僕は何も感じません。では散歩を続けましょう」
 なぜか旅人さんは手にしていた鞄を何度も叩きながら歩いていく。
 また追い抜かれたことに軽い嫉妬を覚えながら、私は慌てて追いかけることにした。

「旅人さんは、どうなんですかっ」
 旅人さんは歩くのが早い。
 追いついたとき、私は息が上がってしまっていた。
 これは不覚。
「どうって言いますと?」
「なんで旅に出ようと思ったんですか? あちこち歩いて回るのって、すごく大変だと思うんですけど」
「それはさっき言ったとおり。新しいものを探すために……」
「それは旅の心構えというものじゃないでしょうか。あまり“理由”という感じはしません」
「――――」
 旅人さんはポカンとした顔で、その場に立ち止まった。
 そのまま腕を組んで、妙に難しそうな顔つきになる。
「そうか、言われてみればそうだよな。理由、理由か……なんだったっけな」
「あ、あの。私変なこと言いましたか?」
「いいえ、むしろとても大事なことを言ってくれました。ありがとう」
「はぁ、ど、どうも」
 私は散歩の途中で立ち止まるのはあまり好きではなかった。
 が、旅人さんが立ち止まっているので仕方がない。
 大人しく私もその場にぽつんと立ち尽くした。
 しばらくして、旅人さんはポツポツと自分の生い立ちを語り始めた。
「僕は生まれた頃から旅をしていたようなもんでした」
「そうなんですか……?」
「元は飛鳥井家という、ある筋では高名な家に生まれたそうです。しかし実の親父がまた旅人だったらしくて、生活苦しくなったっていうんである家の人に預けたんです。他に三人の兄弟がいたそうですが、同じようにどこかに預けられたんでしょう」
 凄い話だ。
 そんな転々とした生活なんて、私にはちょっと想像もつかない。
 それだけに少し羨ましい気もした。
 こんな停滞した生活にはない、刺激があるのだろうから。
「僕が知ってる両親って言うのはその人たち。でも小学生の頃に死んだ」
「小学生……学校、通ってたんですか?」
「途中で転校することになったけどね。貴方は――」
「あはは、私はここしか知りませんから」
 話には聞いたことがある。
 ここと外を繋ぐために、山の麓に一つだけ郵便箱が置かれている。
 そこすら村からはかなり遠いというのだが、月に一回見に行くと必ず何か入っていた。
 外のことはそこから知るのだ。
「それで、そのあとはどうしたんですか?」
「うん、ある魔術師に引き取られた」
「魔術師……本当にいるんですか?」
「鬼と同じですよ。まぁいるところにはいます……例えばこことか」
 旅人さんは自分の胸に手を当てながらそう言った。
 ……えーと、それは。
「旅人さんが、魔術師ってことなんですか?」
「そうです。まぁ僕の場合魔法使いと言うべきだけど」
 どう違うのかよく分からない。
 旅人さん曰く「魔術は普通のもので、魔法は危険なもの」らしい。
 だとしたら旅人さんは危険なのだろうか。
 ……深く考えないようにしよう。
「それで、その魔術の師匠とは喧嘩別れしてね。そのまま放浪の旅さ」
「え、それじゃ旅の理由って」
「感情的なもので始まっただけかな。――――外の世界に出てみたいっていうのもあったけどね」
 外の世界に出てみたい。
 なぜか、その言葉を聞いた瞬間、ひどく不安になった。
 同時にとても心躍るような気がした。
「外の世界は楽しいですか?」
「大変だし辛いし汚いし、とんでもないところだよ」
「そうですか……」
 何故だろう。
 そう言われるとさっきとは逆に、安堵するものの何か腹立たしい。
 なんか、さっきから変だ。
「――――でも面白いね」
 なんでそう、私を揺さぶることばかり言うのか。
 私の中で、小さな焦燥が芽生えた。
 不思議とその焦燥が大きくなるという、確信も共に芽生えた。

 旅人さんと一緒に家まで帰ってきたときには、精神的にも大分疲労していた。
 本人はそんなつもりはないのだろうけど、なんだかおちょくられた気分。
 外の世界に関する期待と不安、この山に対する停滞感と安堵。
 その天秤が今、すごく揺れているような気がした。
「大体山全部歩いて回ったのかな?」
「そうですね。まさかここまで歩くとは思いませんでしたけど」
 そうだ、肉体的にも大分疲労していたんだっけ。
 まさか旅人さんがここまで歩くとは思ってなかったから、私はかなり疲れてしまった。
「毎日こんなに歩くんですか?」
「いや、いつもは起きてる時間ほとんど歩いてるからもっと歩くよ」
「……」
 信じられない。
 旅をするというのは、そんなにも大変なことなんだろうか。
 ……既に日も暮れている。
 とりあえず私は夕食を準備することにした。
 旅人さんは今夜もう一泊してから山を降りることになった。
 夜間の出立は道に迷う危険があるからだ。
 私が夕食を作っている間、旅人さんはまた外に出て行った。
 少し一人でやりたいことがあるらしい。
 元気だなぁ、と思う。
 それとも、私がおかしいのだろうか。
 分からない。
 ――――比較するものが何もないから。

 夕食のとき、旅人さんはこれまでの体験を語ってくれた。
 ある町で強盗を捕まえたこと、ある町では険悪だった親子の仲を取り持ったこと。
 海で漂流したことや、雪山で死にかけたこと。
 内容は凄まじいもので、とても大変そうなものだった。
 けど旅人さんは語り上手なのか、本心からそう思っているのか、とても旅のことを嬉しそうに話す。
 聞いているこっちが羨ましくなるくらいに。
「例えば日常の中においてふっと衝動的なものが湧き上がってきたとする。いきなり走り出したいとか、飛び跳ねてみたいとか」
「あ、私もそういうことたまにあります」
「だろう。そんなときに旅なんかしてる立場だと躊躇わずに出来るんだ。僕の性格かもしれないが……些細なことでさえ解放と風の匂いを感じることが出来るんだ。それが旅の醍醐味の一つだね」
「そうなんですか……他にも醍醐味が?」
「各地での伝統行事とかを見るのも楽しいね。土地に触れるって言うのかな。歴史の歩んできた道を垣間見ることが出来る。それが二つ目の醍醐味かな」
「ここの鬼の風習なんかも?」
「そうだね。鬼を封じ込める巫女の話、とても楽しく聞かせてもらったよ。それで、最後の醍醐味は……やはり人との出会いだろうね」
 人との出会い。
 まるで未知の響きだった。
 私は旅人さん以外に人間を知らない。
 本当は知っていたのかもしれないけど、今は覚えていない。
 でも旅人さんと出会ってこうして話をしていると、とても楽しいことのように思えた。
 こんな経験をいつもしているなんて、羨ましいものだ。
「旅人さん」
「はい、なんでしょう」
「旅ってやっぱり楽しいですか?」
「おやおや、興味おありですか?」
「そ、そういうわけじゃありません。私はこの山を離れるわけにはいきませんし……」
 単なる好奇心。
 本当に旅に出てみたいなんて、思っちゃいけないはずだ。
 が。
「旅に出たければ、出ちゃえばいいじゃないですか」
「……え?」
「自由を求めて旅人になる。それもまた選択の一つです」
 いとも簡単に。
 なんでそんな風にあっさりと言うのだろう。
 それは決してやってはいけないことなのだ。
 私はこの山にいないといけない。
 そうしないと鬼たちが騒ぎ出すのだ。
 そう、教えられた。
「駄目ですよ」
 だから、義務なのだ。
 そう言うことは。
「旅人さんには言ったじゃないですか、鬼が暴れて回るから私はこの山から離れられないんです」
「そうですね。そう聞きました。そのうえで僕は“自由になってはどうか”と言っているんです」
「なんで、」
 と言いかけた私を制止して、旅人さんは言った。
「――――そんなものは、嘘だからですよ」

「……え」
 旅人さんの突然の言葉に対して、かろうじて漏れたのはそんな呟き。
 それ以上のものは吐き出せなかった。
 吐き出すほどのものを、私は持ちえていなかったのだ。
 まるで薄い氷の上に立っていたことに、ようやく気づいたような感覚。
 しかもその氷は今にも壊れそうで、怖くて動くことも出来ない――。
 そんな私のことなどお構いもなく、旅人さんは続ける。
「もう一度言いますがそんなものは嘘なんです。これは確信です」
「……そんな、なんで」
 どこかで分かっていたような気がする事実を、私は必死に振り落とそうとする。
 夢であって欲しいと願うように。
「まぁ結論から言うと――――鬼は“貴方”だったんですよ」
「わた、し――?」
「はい。貴方は鬼を封じるためにこの山に閉じ込められていたんじゃありません。貴方自身が鬼だったから、周囲から隔離されるよう仕向けられたのです」
「そんな、根拠は……」
「僕は麓の村から来ました。麓の村ではこんな伝承があったそうです……曰く、高鬼山には独りぼっちの鬼がいる」
 独りぼっち。
 それは私が聞いていた鬼のことじゃない。
 だって鬼は沢山いると聞かされてきた。
 この山で独りぼっちなのは“私だけ”ではないか……。
「……村ではね、何十年か一回に鬼に生贄を捧げる儀式があるらしいんですよ。年端もいかない小さな子供を一人選別して、鬼に差し出すんです」
「い、生贄……? 私、そんなの知りません。そんなことしてません!」
「別に生贄と言っても取って食われたわけじゃないんでしょうね。おそらくは、生贄に捧げられた子供が次の鬼となっていくんでしょう」
「……」
「心当たりはありますか? 小さい頃の記憶とか、残ってます?」
「いえ――――」
 何もない。
 私には何もなかった。
 ……そう思った瞬間、鮮明な記憶がありありと浮かび上がってきた。

 ――――ずっと昔、一人の女の人がいた。
 その人はとても寂しそうにしていた。
 なぜならその人は鬼だったから。
 本当に鬼だったのかどうかは分からない。
 けれど、周囲の人たちは皆そう言っていた。
 おそらくはその女の人が持つ、不思議な力のせいだったのだろう。
 皆が女の人から離れ、この山は女の人が独りぼっちになった。
 本当はもっと沢山いたのに。
 女の人と他の人たちは同じだったのに。
 女の人は、気づけば独りぼっちになっていた。

「麓の村は、もう誰もいません」
 旅人さんの言葉に、私ははっと顔を上げた。
「皆死に絶えました。当時は鬼の祟りだとか言われていましたが……結局、流行病でした」
「……では、あの郵便箱に置かれていたものはなんだったんですか?」
「あれは郵便箱とは言いません、ゴミ捨て場ですよ。あそこで食べられそうなものとか、綺麗なままのものを見つけたことがありましたか?」
「……」
 では、私は何のためにこの山にいたのだろう。
 私だけじゃない。
 これまでずっと、私のような人がいた。
 その人たちは、なんだってこんな風になっていたのだろう……。
「人は自分と違うものを恐れる、そして都合がいい……鬼は外、福は内ってね」
 どこか自嘲気味に旅人さんは笑った。
 そして、
「――――さて、貴方はこれで自由になったわけですね」
 そんなことを、言い出した。
「自由、ですか」
「ええ。もう“鬼”はどこにもいない。どこにもね。貴方はここにいる義務はない。ここに残るか、別のところへ引っ越すか、それとも旅に出るのか。貴方は自由に選ぶことが出来る」
 そんなことを急に言われても困る。
 今までずっと当たり前だと思っていたものを急に粉々にされたのだ。
 何かを決定する意思よりも、まずは信じられる確かなものを見つけなければならない。
「そうですね、今の貴方はひどく不安定だ。すぐに決めろなんて言わない」
 旅人さんはそこで始めて、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「それをいつ決めるか、ということもまた――自由なんですよ」

 翌朝起きると、旅人さんの布団は綺麗に折りたたまれていた。
 荷物もないし、本人の姿もどこにもない。
 おそらくはもう旅立ったのだろう。
 そして、もう二度と会うことはないような気がした。
「……」
 私は山を降りて見ることにした。

 郵便箱――ではなく、ゴミ捨て場のところまでたどり着く。
 そこから先は大草原と山が広がっている。
 確か歩いて半日ほどで、村へと到着する。
 かすかな記憶を振り絞って、私は駆け出した。
 躊躇いはない。
 ただ、確かめなければならないという義務感があった。
 そう、私はまだ自由になんかなっていない。
 確かめなければ、私は始まらないのだ。

「……鬼は一体、どっちだったんだろうね」

 その夜、月に照らされる道を歩く一人の旅人がいた。