魔法使いの旅

ある家族の話
 ――――――――/八月三日

 死にたいと思うような気分って、どんなものなんだろう。
 僕は幸か不幸か、そこまで思いつめるようなことがなかったので、よく分からない。
 ナナシ曰く「お前は自分が死んでも世界が滅んでも、にやにや笑ってそうだ」とのこと。
 そんな、常時楽天主義の僕からすれば自殺者の心など分かるはずもない。
 僕は物心ついてからろくに「自分は不幸だ」と思ったことがない。
 生きてる以上明日があって、明日には今日なかったことが待ち受けている。
 そう考えるだけで幸せなのだ。
 ……おめでたい気もするけど。
 実際のところ、世の中僕のような楽天主義はあまりいないのだろう。
 だから自殺者は結構いるし、生きているのに死んだような目をしている人もいる。
 旅を続けるうちにそうした人々も見てきたし、何言っても無駄そうな感じがしたので関わるのを放棄した人もいた。
 翌朝見事に脳天かち割ってたっけ。
 本人、果たして満足してたのかどうか……それは僕には分からない。
 でも、昨日の子は妙だった。
 二日連続で、しかも同じ場所で自殺を図る。
 失敗して「やっぱり死にたくない」と言い出すわけでもなく、泣き言漏らしたり喚き散らしたりもしなかった。
 比較的落ち着いている。
 そのくせ、何もかも諦めているようには見えない。
 なんだか、自分が死ぬことで何かを変えようとしているようなところがあった。
「師匠曰く、自殺の先には終焉が待つのみ。……ってことだったんだけど、はてさて」
「昨日の娘が気になるか」
 バッグの中からナナシが涼しい声をかけてくる。
 こいつは寒さに弱いが暑さに強いらしい。
 実に羨ましい本だ。
 ちょっと腹立たしいので引き裂こうと思います。
「待て。……誰か来るぞ」
 僕の気配に気づいたのか、やけにタイミング良くナナシが言ってくる。
 そんな嘘臭いアドバイスは当然無視し、僕はナナシへの報復計画を――――
「――――何、やってるんですか」
 横合いから聞こえてきた小さな声に、僕は動きを止めた。
 首だけを回転させて、声の主の方を見る。
「あれ、君は」
 そこに立っていたのは、昨日の子。
 なにやら胡散臭そうに僕の手を見ている。
 彼女の目の前では報復計画は断念せざるを得ない。
 仕方なく僕はナナシから手を離し、バッグへと放り込む。
「まだ、いたんですね」
「え?」
 いてはいけなかったのだろうか。
 あるいは、この船の持ち主さんからクレームが来たとか。
 でもこれ、廃棄処分されてるようにしか見えないよなぁ。
 文句言われたら不法投棄で訴え返すのはアリだろうか。
 そういえば裁判てやったことないよなぁ、やってみたいよなぁ。
 異議あり! とか。
「旅人なんでしょう?」
 っと、つい思考がまた関係ない方向へ。
 僕の悪いクセだ。
「旅に出ないのかってことかい?」
 コクン、と彼女は頷いた。
「そう言われても、旅立つにはいろいろと準備が必要不可欠なんだ」
「……お金も食料もないんですか」
「サバイバルなんだよ」
 適当に濁しておく。
 素直に「ありません」とは、さすがに言いたくない。
「親からキツく言われてるんだ、人生これサバイバル。金や食料に目が眩んでしまうと、大切なものを見失う。だから極限まで自分を追い詰めろと――――」
「……」
「嘘ですごめんなさい」
 とてもキツイ視線を持ち合わせのようで。
 目つきが悪いってわけじゃないんだけど、なにか僕へ向ける視線に棘がある気がしてならない。
「……親」
「ん?」
 ふと、彼女の口から小さな声が漏れた。
「どんな親だったんですか」
「うーん……実の親についてはろくに知らないけど」
「え?」
「育ての親も小学生の頃に死んだし。その後僕を引き取ってくれた師匠とは喧嘩別れだったな。去年戻ってみたら死んでたよ」
 僕にとって親と呼べる人々。
 彼らに関する説明をしていくうちに、彼女の表情は深く沈みこんでいた。
「ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。大したことじゃない」
 人間がいつか死ぬのは当たり前のことだ。
 僕を引き取ってくれた両親は病死だった。
 最期は安らかな表情で、でも僕のことを心配しながら逝った。
 まぁ親の最期としては、普通なのではないかと思う。
 師匠に関しては、既に存分悲しんで泣いた。
 僕が悲しんだ、数少ない思い出だ。
 だけど、いつまでもそのことで泣いていたら師匠にどやされる。
 それに僕はめそめそ泣いてるよりは、不謹慎ながらも笑ってみせるくらいのほうがいい。
「そういえば、なんでここに来たの?」
「……」
「また、自殺?」
「……いいえ。散歩です」
 なぜだろう。
 散歩という、ただそれだけの言葉なのに、彼女に言われるととても安心する。
 なにしろ自殺未遂の前科二犯だ。
 そんな彼女から、平穏な日常に分類されるであろう単語を聞けただけでも嬉しい。
「そっか、散歩か」
「はい、散歩です」
「僕もご一緒していいかい? ここら辺はあまり詳しくないから、ガイドでもしてほしいな」
「別に構いません」
 視線を海の方へ逸らしながら、彼女は許可してくれた。
 相変わらず無愛想というか、怖い印象は残っている。
 だけど、そんな彼女を観察するのも面白いような気がしてきているのだ。
「……あ」
「なんですか」
「いや、自己紹介がまだだと思ってね」
「飛鳥井秋人。さすらいのマジシャンさん」
「な、なぜそれをっ!?」
 やばい。
 もしかして彼女、魔術師かっ?
 いつのまにか情報を抜き取られている辺り、精神をどうこうする泉家の人だったりして。
「昨日、言ってました。貴方が」
「……」
 バッグの中でナナシが笑いを噛み殺しているのが、手に取るようによく分かる。
 後で海水浸しの刑に処してやる。
 とりあえず失態を誤魔化すため、僕は口を開いた。
「それじゃ、君の名前は何かな?」
「――――蒼井です。蒼井水渡」
「ミナト? 港?」
「水を渡ると書いて水渡と言います」
 ふぅん……。
 水を渡る、か。
 そんな名前の彼女が、海に向かって歩いていた。
 その光景を思い浮かべると、なにやら奇妙な感じがする。
 ま、彼女の行動と彼女の名前は関係ないか。
 僕の名前と僕の生き方が関係ないように。
 彼女は僕を待つことなく、スタスタと歩き始めている。
 側にいるであろう夏名さんに対して頷いてみせながら、僕は彼女の背中を追い始めた。
 ……そういえば、彼女はなんでここに来たんだろ?

 昨日のお爺さんにうまい棒を数種類恵んでもらい、体力を回復しながら歩いていく。
 僕の隣には彼女――――水渡ちゃんが並んで歩いていた。
 ゆったりとした歩き方なので、僕の方が彼女に歩調を合わせることになる。
 堤防に沿って歩いているため、常に右手には海が広がっている。
 反対側には、民家があったりなかったり。
 三軒くらい並んでいることもあれば、隣家との距離がかなり開いている家もあった。
 会社や仕事場などは一切見受けられない。
 恐るべきことに、あのお爺さんの店以外には店らしきものも見えないのだ。
 のどかと言えばのどかだが、見方によっては無の境地ナリ。
 閑散としていて一抹の寂しさも感じられるのでござる。
「って、また暑さにやられて思考がっ」
「……」
 水渡ちゃんからは冷たい視線。
 本格的にイカレ始めた住所不定無職の魔術師を前にすれば、まぁこんな反応だろう。
「水渡ちゃん、どこか涼める場所ないかな……?」
「海の中は涼めますよ」
 ……どうかなぁ。
 べたべたするし、あんまり涼むことも出来そうになさそう。
 なにより、過去(少なくとも二回は)入水自殺しようとした水渡ちゃんが言うと、なにやら危険な香りがする。
「海以外で、どこかないかな」
「……」
 海が駄目だということにご立腹なのか、水渡ちゃんは僕から視線を逸らした。
 怒られても嫌なものは嫌なんだい。
 だいたい君を助けて二度も海にダイブしたから、僕の身体は今ベトベトなのだ。
 シャワーで流せよ、という人がいるかもしれないが、それは無理。
 ここら辺は海水浴場というわけでもないので、僕が使えるようなシャワーはない。
 シャワーを精製する魔術なんてないし(あったとしても僕は未修得だ)、近々どうにかしたいところ。
「僕、海に入ったら融けるんだよ」
「……昨日も一昨日も融けたんですか?」
「うん。主に脳みそが」
「納得しました」
 そんな戯言を繰り返しながら僕らは歩く。
 いや、それで納得されても僕はちょっと悲しいよ?
 しばらく歩くと、水渡ちゃんはある方向を指差した。
 彼女の指先を追っていくと……ずっと向こう側に、ぽつんと何かが見える。
 白くて細長い建造物。
「灯台?」
 水渡ちゃんはコクンと頷く。
「今は古くて使われてませんが、なぜか取り壊されないのです」
「ふーん……」
「あの中に入れば涼しいです」
 あ、そういう意味か。
 なんだ、ちゃんと僕の要望に応えてくれたじゃないか。
 根は優しい子なのかもしれない。
「そっか、それじゃそこに入って涼もうかな。水渡ちゃんはどうする?」
「私も、ご一緒します」
 こうして僕らは、灯台の中へと侵入することになった。

 昼間だというのに、灯台の中は真っ暗だった。
 常時持つことにしてる懐中電灯がなければ何も見えなかったんじゃないかなぁ。
 比較的ゆったりと歩ける螺旋階段を昇っていく。
 水渡ちゃんもどうにかついてきているようだった。
「そういえば水渡ちゃんは、ここにはよく来るの?」
「たまに」
「そっか。この灯台はいつ頃出来たか知ってる?」
「明治中期だったと思います。少なくとも大正に入る前には初点灯が済まされていたらしいですけど」
「そりゃ古いな」
 今はもう使われてないってのも納得できる。
 取り壊されない理由はよく知らないけど、土地の人にとってはいろいろな意味のあるものなのだろう。
 生まれて、生きて、役割を終えた。
 人間で例えるなら、定年退職後のご老体ってところかな。
 それとも、役割を終えた=「死」と考えれば、ここに残っているのは偉大なる墓標なのか。
 ……少しだけ、思考が沈む。
 ――――そんな僕の胸中を吹き飛ばすような光が、視界に飛び込んできた。
 暗闇の螺旋階段が終わり、蒼き光に満ち溢れた大空が姿を現す。
 突如現れた青空は、僕自身をどこまでも連れて行ってくれそうな気がした。
 身体がふわりと空を舞い、背には翼が生え、どこまでも遠くへ飛んでいく。
 ……だがそれは幻想だ。
 僕は鳥じゃない。
 そりゃ、人は飛行機を生み出したし、魔術にだって飛行系のものはある。
 だが、鳥たちがそうするように……生きることそのものの飛行は出来ない。
 僕らにとって飛行は手段であり――――手段である以上、結局は地に落ち着いてしまう。
「どうかしましたか?」
 いつまで立っても螺旋階段の出口からどこうとしない僕。
 水渡ちゃんは、そんな僕を訝しげに見ていた。
「なんでもないよ。ただ、青空は綺麗だと思ってね」
 必要な部分もそうでない部分も、まとめてガリガリ削って、極限まで縮めてしまえば……綺麗という単語が相応しいのだろう。
 どこまでも続く青空。
 それにしても、結局終焉は来る。
 青空の向こうには真っ黒な宇宙があり、それでさえもどこかで終わりを迎えるに違いない。
 終わり。
 死。
 灯台のように。
 青空のように。
 僕はどこまで行けて、どんな形を残すのだろう。
 あるいは、何も残さないのかもしれないが――――。



 ――――――――/八月四日

「日曜日にやってる例の家族アニメには、僕と同じ魔法を使う奴がいるに違いない」
「いたとしてもそれは作中の人物じゃない。テレビ局という集団だ」
「いや、案外作中にいるかもしれない。二次元を舐めてはいけないよ。次元こそ違えど、それは一つの世界なんだから」
 なんかもうすっかり馴染んじゃった僕の宿(仮)。
 そこで退屈を紛らわすため、僕はナナシとくだらない戯言に興じていた。
 相変わらず野外生活だし、金もほとんどない。
 だがしかし、僕の状況は少しだけマシになってきているのだっ。
 なにせ水渡ちゃんとお爺さんという二人の味方が出来た。
 前者はパンを、後者はうまい棒を気前良く僕にくれる。
 なんとありがたいことか……!
「でも秋人さん、これからどうするんですか?」
 と、隣に浮かぶ夏名さんが尋ねてきた。
「金銭面での回復は難しそうですし、この先旅をするには少々心許ない気がします」
「うーん、それは確かに。食べ物はあれど、残金が少なすぎるからなぁ」
「この町では仕事にありつくことも難しそうですしね」
 バイトという単語が存在しなさそうな町だしなぁ。
 民家にだいたい車が置かれているのを見ると、普通に仕事行く人は車で移動するらしい。
 海が近いとはいえ、市場もなければ漁をしている人もいないし。
「私としてはこういう町、好きなんですけどね」
「そうなんですか?」
「はい。仕事だなんだという町よりは、なんていうか……日々の生活というものが強く感じられます。私、そういう雰囲気とか好きなんです」
 ……夏名さん。
 本当の名前はとうの昔に失われ、僕がつけた仮初の名を持つ女性。
 八百万の神々の一員であり、既に失われた命でありながら――――彼女は生き生きとしている。
 死とは終わりではないのか。
 そのことを考えると、夏名さんは実に不思議な存在だ。
 普通に考えれば、彼女のような人はイレギュラーなのだろう。
 そもそも、幽霊や神々を直に認識できる人がほとんどいないこの世の中で、彼女を思考材料に出来る人はほとんどいない。
 死とは終わりである、ということを語る哲学者に、
「夏名さんはどうなんですか?」
 と言ったところで、相手はそれを認識できないのだから、頭から否定するか、適当な理屈を並べていなされるのがオチなのだ。
 だが、彼女は確かにいる。
 世界がそれを否定しても、僕やナナシは彼女を認識している。
 だから僕は、『死とは終わりである』という考えを素直に認められない。
 それとも。
 彼女は一旦終わって、再び始まったとでも言うのだろうか。
 分からない。
 結局は師匠の言うように――――何事も認識次第、ということなのだろう。
 人間は常に自分と言うフィルターを通してしか物を見れないのだから。
 何が正しくて何が間違いなのかを決めるのは自分であり、他の人が必ずしも賛同してくれるとは限らないということを、知らねばならない。
 以上、脳内戯言終了。
「この町は僕も好きですよ。あまり騒がしいのは好きじゃないんで……この数年間旅をしてきましたが、人の多い東京や大阪、京都なんかは行かないことにしてるんです」
「そうなんですか? 勿体ないですよ。京都行って、銀閣寺でも見に行きませんか?」
「まぁ、京都とかは時期次第では。東京は絶対嫌ですが」
「東京ってそんなに騒がしいんですか……」
「知り合いに聞いたところ、朝の電車は異常らしいです。あんな狭い土地になぜあれだけ人がいるのか、不思議なくらいですよ」
 確か東京だけで、イギリスだかどこだかの国と同等の電力を消費してるって言うし。
 日本の首都は恐ろしい。
 大地震とか起きたら日本が根本から崩れそうだ。
「……っと、例の子が来たようだ」
 ナナシの感覚が水渡ちゃんの到来を告げる。
 すぐさま夏名さんは姿を消し、ナナシもバッグへと身を潜めた。
 なんか後ろめたいけど、魔道を行く者なんて日陰ものだしなぁ。
 やがて堤防を降りてくる水渡ちゃんの姿が見えてきた。
「おはよう。さて、今日はどんなマジックを見せようか――――」

 今日は大奮発して凄いマジックを見せた。
 おかげで水渡ちゃんはチャーシューメンを奢ってくれました、まる。
「しかし、ここに行き着くまでが大変だった……」
 昨日とは違い、僕らは海から離れ、町の中心部とも言える場所に向かったのである。
 三十分歩いて、ようやく駅が見えてきた。
 一日数本という少なさだった。
 素晴らしすぎる。
 駅に行くまでに学校が見えたけど、やはりこの時期は人気があまりない。
 部活をやっている子とかはいたが、なんだか声もかけづらいし、商売にはなりそうになかった。
 ただ、学校を見たときの水渡ちゃんが気になった。
「学校で何かあったの?」
「何か、って?」
「なんだか、遠いものを見るような……そんな視線だったけど」
「――――」
 水渡ちゃんは答えない。
 その反応から察するに、普通の生徒とは別の印象を学校に持っているのだろう。
 それも、あまりいいものではないようだ。
「……大したことじゃ、ないです」
「そう?」
「はい。虐めとか、そういったものじゃないんです」
 確かに、虐められっ子といった弱々しい雰囲気は水渡ちゃんから感じられない。
 どちらかというと、もっと強そうだ。
 毅然としていて、なおかつ強引なところはない。
 大人びているのだ、こういった年頃の子にしては。
 ただ、大人びているというよりは……枯れている、といった方がいい気もする。
 あまりに若さがない。
 まるで、もう終わってしまっているかのような――――。
「小さなことの積み重ね……」
「ん?」
「それが、いつのまにか決定的になっていることもあります」
「ふむ……」
 つまり、大したことはなかったが……いつのまにか、決定的なことが完成しつつあった。
 それが、今の彼女を作り上げた。
 そういう解釈でいいのだろうか。
 だとすると、辛いだろう。
 大きな悲劇に対しては、あまり縁のない他人でさえ理解してくれたり、援助してくれたりする。
 だが、目に見えないほどの小さな悲劇には、余程近しい人間でさえ理解しようともしてくれない。
 下手をすれば被害妄想の一言で片付けられてしまう。
『結局、自分の辛さは自分にしか分かってもらえないんだっ!』
 そう言い残して自殺した少年がいた。

 彼は親に、毎日バイトをすることを強制させられていた。
 家はそれほど貧しいわけでもなく、親としては彼に様々な経験をさせたかったのだろう。
 元々引きこもりがちだった息子を立ち直らせたかったのかもしれない。
 彼は仕事をそつなくこなした。
 だが彼は、それでもバイトをする度に苦痛を味わっていた。
 あくまで彼としては“やりたくなかった”のだ。
 彼には夢があった。
 画家になるというもので、彼は部屋に何千枚という絵を残している。
 引きこもりがちだったというのは親の見方で、彼は絵を描いていただけ。
 バイトをし始めてからは、絵の練習がほとんど出来なくなっていた。
 親は、画家という職業に理解がなかったらしい。
 そんなものになるくらいなら、他のを目指しなさい。
 そう言われる度に彼は苦痛を感じたし、バイトをしろと言われるのも苦痛だった。
 結局バイトを始め、彼は絵を描く機会を極端に減らされたことになる。
 時間は有限なのだから、当然のことだ。
 親は満足した。
 彼は日々苦痛を味わっていた。
 一時は無理して睡眠時間を削り、絵を描いていたらしい。
 しかし身体に限界がきた。
 彼のバイトは夕方から深夜近くまで毎日あったのだ。
 なまじ仕事が出来たから、そうなったのだろうか。
 大袈裟と見るか、気の毒と見るかは人それぞれだろう。
 だが、その果てに彼はとうとう自殺した。
 僕に絶望の言葉を投げかけながら。
 ――――自殺の原因は不明。
 家族、友人、学校の教師、近所の人々、バイト先の人々。
 その全てが、自殺の原因に心当たりがないとした。
 バイトのため、絵がほとんど描けなくなったという苦痛。
 しかし周囲の人間は、彼の絵に対する情熱を理解していなかった。
 彼が味わったのは、他の人々にほとんど理解されない程、小さな苦痛。
 ……何千枚とある絵も、彼の両親が気味悪がって捨ててしまった。
 そのことをニュースの報道陣は知ることもなく、友人一同も、耳にしたところでさして気に留めなかった。
『絵は好きだといっていたし、それが出来なくなるという不満はあったみたいだけど……まさか“そんなこと”で自殺するとは思えない』
 彼の苦痛は、ソンナコトなのだ。
 彼の命は、ソンナコトで終わったのだ。
 小さな、積み重ねられていく苦痛。
 目に見えないほどの小さな苦痛。
 気づけばそれが、人の人生に決定打を与えていることもあるのだろう。
 無論彼が弱かったのもある。
 僕から言わせれば、彼は弱い。とんでもなく弱い。
 だが――――人間の大半は、彼と同じくらい弱いのではないか。
 理解されない。
 認識されない。
 小さすぎて、状況を変えることすら出来ない。
 変えてもほとんど意味がない。
 無意味。
 無為身。
 彼女の――――水渡ちゃんの痛みとは、なんだろう。



 ――――――――/八月五日
 この日、雨が降った。
 水渡ちゃんは来なかった。