魔法使いの旅

ある家族の話
 ――――――――/八月三日(II)

 あれからどれだけ時間が経っただろう。
 私の前に、いつのまにかお父さんが立っていた。
 心配そうな顔でこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫か、水渡」
「……」
「浅海と、何かあったのか?」
「何もない」
 私が言うと、お父さんは表情を暗くした。
 どんどん気持ちが沈んでいく。
 もう私のことなんか放っておいて、一人にして欲しかった。
 今更何かを取り戻そうとするお父さんにも。
 今更何もかも忘れてしまった浅海にも。
 自分勝手な両親に、私はうんざりしている。
 周囲の子にとっての『当たり前』をくれなかった親。
 ……大嫌いだ。
「浅海は……記憶喪失らしいんだ」
 その口振りから察するに、お父さんは私が"あの浅海"と既に会っていると思っているようだった。
「俺のことも覚えていない。ここが何なのかも分からない。そして――――」
「私のことも忘れた、でしょ?」
「……ああ。だけど、不幸中の幸いと言うか……一つだけ、いいこともある」
「そんなのあるわけないでしょ。いい加減なこと言わないで」
「浅海な……」
 私の声を乗り越えて、お父さんは言った。
「――――部屋から出たんだ」
「……」
 嘘。
 そんなことがあるわけない。
 全てに怯え、全てに怒り、全てを嫌うあの浅海が。
 いくら記憶をなくしたからって、そんな、外に出られるはずがない。
「浅海は、恐怖症に陥った原因さえも忘れてしまったんだよ」
「原因……」
「怖い思い出を忘れた。だから、浅海は今部屋から出て……そこにいる」
「……っ」
 ハッとして身体を起こす。
 私の部屋の扉。
 それは閉ざされていたけど、
「いるの? そこに」
 扉の向こう。
 そこに、浅海がいる。
 返事はなかった。
 けど、なんとなく気配を感じる。
 浅海は今、私の部屋の前に立っている。
「水渡、これはもしかしたらチャンスかもしれない」
「……」
「浅海はどんな理由であれ、部屋から出れた。一歩を踏み出せるようになったんだ。もしかしたら、ここから浅海はやり直せるかもしれない。記憶だって、些細なことで戻るかもしれないと先生も言っていたよ」
 つまり、この嘘のような記憶喪失は、浅海のためのもの?
 全てを忘れたのは、浅海のためのこと?
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるように呟く。
 身をベッドへと戻し、お父さんとは反対のほうを向いて横になる。
「チャンス? そんなのどうだっていい。私はもう付き合うのに疲れた。浅海を助けたいんだったらお父さんが助ければいいんじゃない? 私、今まで充分以上に助けてきたし、これ以上助ける義理も義務もないの」
「水渡……」
「それとも『母親のことなんだから、子が助けるのは当然』とか思ってるの? その逆は今まで全くなかったけど……!?」
「……」
 なんて都合のいい話だ。
 これ以上私が付き合う理由なんてどこにもない。
 家族だから、という理由を掲げるのなら、私はこう言おう。
 ――――家族とは何か。私とあなたたちは……家族なのか?
 馬鹿馬鹿しい。
 あまりにも愚かな物語だ。
 飛鳥井さんはこんなものを私に見せたかったのか。
 やってられない。
 もう寝る。
 おやすみなさい。

 二度目の目覚めは最悪だった。
 窓の外から朝の光が射し込んでくる。
 お父さんの姿も、浅海の姿もない。
 私は適当に着替えて、そのまま部屋から出ようとした。
 けど、ドアノブを手にしたところで動きが止まる。
 ……聞こえてきたのだ。
 お父さんと浅海の、楽しげな声が。
「ええと、どうですか? 私、一生懸命作ったつもりなんですけど」
「ああ、美味しいよ。昔と変わらない。懐かしい味だ」
「そうですか……良かった」
「水渡もこれを食べれば、何か思いを変えてくれるのかもしれないが……」
 掴んだドアノブをそのまま手放した。
 今部屋から出ればあの二人と顔をあわせることになる。
 それはとても嫌なことだった。
 家族みたいに話す二人。
 嘘のようなことだった。
 私が知る限り、お父さんと浅海が話をしたところなんてほとんど記憶にない。
 あんな優しげな浅海の声も聞いたことがない。
 偽りだらけだ。
 こんなの、私は認めない。
「……水渡さん、私のことを嫌いみたいですね」
 浅海が今更なことを言っている。
「私、どんな人間だったんですか?」
「どんな、と言われても」
 ……早くもボロが出始めてきた。
 お父さんは困ったような声をあげている。
 浅海に『前の浅海』を告げればどうなるか、ということを心配してるんだろう。
 言えるはずがない。
 偽りを大事にしたいと思うなら、真実を告げられるはずがない。
「……言っていいのかな」
「言ってもらえませんか。あの子とも家族なら……私、このままは嫌なんです」
「ふぅむ」
 お父さんはしばらく気の進まないような唸り声をあげていた。
 けど、結局言うことにしたらしい。
 浅海は、と前置きしてから。
「とても強情で、ちょっと捻くれてて、少しワガママなところもあったけど……」
 少しじゃない。
 あれはワガママの化身。
 あれに付き合わされて、私がどれだけ――――。
「――――――その実、本当に優しい人だった」
 ……。
 ……。
 …………お父さんの、嘘つき。
 あの女に優しさなんて、欠片もなかった。
 その後も『普通』の会話は続く。
 聞いていて気持ち悪くなるのは、これが偽りだからなのか。
 それとも、私が『普通』じゃないからか。
 そんなことを考えながら、
「そういえば水渡遅いな……そろそろ様子でも見てくるか」
「私も、一緒に行っていいですか?」
「……ああ、そうだな」
 私は即座に窓から飛び出した。
 靴も履かずに、家から飛び出して――――あそこへ向かった。

「こんにちは、水渡さん」
 いつもの砂浜。
 かつては飛鳥井さんが寝泊りしていた船には、夏名さんがいた。
 どうやら彼女も飛鳥井さんと同じような境遇のようだった。
 その割に、飛鳥井さんのようなみすぼらしさを感じないのはなぜだろう。
 むしろ神々しさ、というか後光が見え隠れしてるような……。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
「靴も履いてないですし、何かあったのかと思ったんですけど……」
「なんでもないんです、靴は別のところに置いてきただけですから」
 そうですか、と頷く夏名さん。
 そんな彼女の手には一冊の本があった。
「よう小娘。相変わらずシケた面してるな」
「……」
「無視するなよ」
 とても夏名さんが話しているとは思えない。
 心なしか、声も夏名さんのものにしては低すぎるような……。
「俺の正体を探るつもりか? お前には無理だと言っておこう。そもそも俺は現人類が発祥する前に栄えていたホモ・ムゥムゥ……」
「ナナシさんの言うことは置いといて」
 夏名さんが本の口を塞ぐ。
 ……いや、実際に口なんかないけど。
 ついでに言うと、今夏名さんと本の声が全く同時に出てた気もするけど。
「何か、嫌なことでもありましたか?」
「……別に、何もないですけど」
「そうですか」
 深く問い詰めたりはせず、夏名さんはそのまま口を閉ざした。
 私は海を眺め、彼女は空を眺める。
 二人並んで青いものを見つめていた。
 長い沈黙。
 波の音が聞こえ、雲が少しずつ流れていく。
 そんな中、夏名さんが私を見てにっこりと微笑んだ。
「……私、空が好きなんです。特に夏の空が」
 夏名さんは静かに呟く。
 私はちらりと彼女を見る。
 彼女は語り始めた。
「昔、私にもまだ『家族』がいた頃がありました。色々と役に立てないかと頑張ってみたんですが、皆に嫌われる結果になってしまいまして。余計なお節介が過ぎたのかもしれませんね」
 私とは正反対だった。
 家族の役に立てと半ば強要された生活を送ってきた私。
 家族の役に立とうとして、認められなかった夏名さん。
 どちらの方が、悲惨なのだろう。
「それで、皆が出かけて一人家に残されたときに、よく空を見ていたんです」
「空を?」
「ええ。まだ父が生きていた頃、よく一緒に空を見ていたんです。草原に寝そべって、流れる雲を数えるんです。父や家族と一緒に、声を出して」
 ……一緒に、か。
 そう言えば、私にはお父さんや浅海と一緒に何かをした記憶なんてない。
 いつも私は一人だった。
 それを寂しいと思ったこともあるけど、それはもう何年も前の話。
 寂しさなんて、とっくに忘れてしまった。
「いいですね、一緒に……ですか」
「はい。父は結局その後死んでしまい、私は家族からも嫌われることになってしまいましたが……空を見ると、今でもあの頃を思い出します。家族皆が仲の良かった、あの頃を」
「……本当、羨ましいです。私にはそんな記憶、ありませんから」
「あら、ないんですか? こういう思い出」
「ありません。家は……皆、バラバラだから」
「そうでしょうか」
 夏名さんは口元に人差し指をあてながら首を傾げる。
「私はそうは思いませんけど。あなたにも、きっとそういう思い出、あるはずですよ」
「……ありませんよ」
「あると思いますよ。だから水渡さんはここに来て、何かに悩んでいる。苦悩している。違いますか?」
「――――違います!」
 ムキになって返してしまった。
 言ってから後悔しても、出た言葉が引っ込んでいくわけじゃない。
 夏名さんはきょとんとこちらを見ていた。
「っ……す、すみませんでした。大声あげて」
「全くだ。最近の子供は怒りっぽくてかなわん」
 夏名さんよりも先に、本が動いた。
 まるで自分の意志を持っているかのように動き回る。
「お前、そんなに『違います』とか『何でもない』とかばかり言ってて疲れないか? 人生の十分の一くらいは損してるぞ」
「……」
「ま、俺や夏名は他人だからそれでも別にいいがな。家族を前にしてもそれだと……辛いと思うぞ」
 本が語る戯言。
 それを前にして……私は何も言い返せなかった。
「水渡さん」
 本をバシバシ叩きながら夏名さんが笑いかけてくれた。
「……こういう言い方だとちょっと不愉快かもしれませんけど、あなたはまだ子供です。子供は……誰かに甘え、怒られ、傷ついて、傷つけて……そうして成長していくものだと思います。それが出来なければ、あなたは子供のまま大人になってしまいますよ」
 ……波の音が聞こえる場所で。
 ……雲が流れるこの場所で。
 私は、楽になりたいと願った。



 ――――――――/八月四日(II)

 あれから日中は家に帰っていない。
 夜、お父さんや浅海が寝静まってから家に帰ることにしている。
 料理も洗濯物も掃除もきちんとされている家。
 ……私の仕事がない家。
 あれだけ雑事を嫌がっていた私は、それがなくなることで疎外感を抱くようになっていた。
 なんて矛盾。
 おそらく、また家事をやれと言われれば私は不服に違いない。
 一体私は何がしたいのだろうか。
 こっそり冷蔵庫の前まで来ると、張り紙がしてあった。
『水渡さんへ 夕飯作っておきました。上から二段目の段にあるトンカツのお皿に入っているものがそれです。他にもいくつか用意したので、好きなもの食べてください 出来れば、今度一緒にご飯を食べれたらと思います おやすみなさい 浅海』
 ……こんなの浅海じゃない。
 いつも人に口うるさく説教したり喚いたりする。
 それが蒼井浅海という人間だ。
 何年もかけて私の中で育ってきた浅海という人間のイメージだ。
 罵詈雑言紛いの言葉を投げつけられたことはあるけど、こんな言葉を出せるような性格じゃない。
「……誰が食べるか」
 冷蔵庫を開け、トンカツの皿は無視して他のものを適当に取る。
 私としては浅海の用意したものなど、ゴミ箱に叩き込んでやりたいぐらいだった。
 でもそれをしたら浅海と同レベル。
 私はそこまで酷いことはしない。
 そのまま食べられそうなものをいくつか取って部屋へ戻る。
 今日は雲で月が隠れているのか、薄暗い夜だった。
 部屋の中はしん、として音もない。
 何も変わらない場所。
 ……どことなく、居心地が悪くなった。
 また海にでも行こうかな。
 思い立てば即実行。
 窓際に用意した靴を履いて、私はこっそり夜の町へと繰り出す。
 本当に静かで穏やかな、夜の町へ。

 あの堤防の前へ行くと、珍しいことに駄菓子屋がまだ開いていた。
 店の前にはお爺さんが一人、砂浜の方をじっと見つめている。
「……おや、蒼井んとこの」
 お爺さんが私に気づいて会釈する。
 私もそれに倣って頭を下げた。
「こんな時間に出歩いちゃいかんぞ。……ご両親が心配する」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
「ちゃんと言って出てきたのか?」
「はい」
 私が大丈夫と言ったのは、『心配なんてしない』という意味。
 でもそう言ったらお爺さんは何か反論するだろう。
 それは面倒くさいので、適当に話を合わせておくことにした。
「お爺さんはどうしたんですか? もう店は閉める時間だったと思いますけど」
「うむ。……ああ、いや。わしもとうとうボケてきたかな、とな」
「え?」
「何かこう、大したことじゃないのかもしれんがな。忘れてることがあるような気がするんじゃよ」
 そう言ってお爺さんは砂浜の方へ視線を戻した。
 何かを忘れている。
 ……それは、ひょっとしたら。
「お爺さん、旅のマジシャンを見かけたことありますか?」
「……今、下の砂浜にいる女性のことかい?」
「いえ、男の人です」
「ふぅむ……男の旅人。マジシャン……」
 お爺さんは必死に思い出そうとしているのか、眉間にしわを寄せてなにやら唸っていた。
 だが一分もしないうちに息を吐き出し、
「――――駄目じゃなぁ。思い出せん。さっぱり分からんわい」
 ……駄目か。
 結構仲良さそうに見えたんだけどな。
 でも、お爺さんが薄情なわけではない。
 この事態が異常過ぎるだけ。
 忘れたことなんて――――――。
「…………」
 不意に、何かが脳裏をよぎった。
 胸を中心に、徐々に身体全体が冷えていくような感覚。
 寒い。
 これは、何?
「そう言えば、あの砂浜で昔はよく遊んどったの。そういうことなら覚えてるんじゃが」
「……遊んでた?」
 誰が?
「お前さんじゃよ」
 それは、今もそうでしょ?
 いちいち昔は、なんて言う必要なんか……。
「――――昔は、家族全員でよく遊んでたじゃろ。航路と一緒に海に入ったり、浅海さんと一緒に砂浜で城作ったり。懐かしいのぉ」
 え?
 ……何、それ。
 ――――――私、そんなの覚えてない。
「そんなこと、ありましたっけ?」
「お前さんは覚えとらんのか? ま、もう十年くらい前……お前さんが幼稚園の頃じゃからなぁ」
「そんなこと、あったんですか?」
「あったぞ。わしゃよく覚えとる。あの頃は婆さんも生きとって、お前さんらを微笑ましげに見守っとったもんじゃい」
 お爺さんは確信を持って頷く。
 嘘や冗談を言っているようでもない。
 それに、私はお爺さんの言葉に動揺していた。
 胸の奥に隠れていた大事な何かが、強く揺さぶられる。
「砂浜……」
 口にすると、その言葉は不思議な魔力を持っているようだった。
「あの、砂浜……っ」
 見えない力に突き動かされ、私は砂浜へ駆け出す。
 お爺さんが何か叫ぶのが聞こえたけど、今の私に立ち止まることなんて出来ない。
 堤防から飛び降りようとしたところをどうにか抑えて、階段を急いで駆け下りた。

 砂浜に達した瞬間、雲に隠れていた月が現れた。
 水面が月光で照らし出され、薄暗い闇の海がほんのりと明るくなる。
 そんな海に一歩踏み入れた瞬間、明確な記憶が浮かび上がる。
 先ほど脳裏をよぎったあやふやなものが、はっきりと形になって現れた。
 ……あれは夏。
 あれは夕刻。
 まだお父さんが今の仕事を始める前の頃。
 まだ浅海が恐怖症じゃなかった頃。
 まだ私が浅海を『お母さん』と読んでいた頃。
 まだ私たちが……一緒だった時。
 近くの町へ、ちょっと贅沢な買い物をして。
 そこから車で帰ってくる途中。
 私たちはいつも、ここで遊んでいた。
 まだ小さかった私は、両親が止めるのも聞かずに海へ駆け出して。
 何回か溺れそうになったけど、その都度お父さんや浅海が助けてくれた。
 お互い服がびしょ濡れになるのも気にせず、水をかけあったり。
 砂浜で、将来住んでみたいとか言いながら、お城を作ったり。
 そして、最後に決まってこう言うのだ。
「――――――――また、皆で来ようね」
 それは、とても遠い日々。
 あくまで昔の話。
 今の私たちにはありえない話。
 でも、ずっと昔には……確かにあった。
「思い出しましたか?」
 いつからいたのか、夏名さんの声が聞こえる。
 何のことか、なんて聞くまでもない。
 私は力なく頷いた。
「……なら、その思い出を大事にしてください。今度はもう、手放さないよう」
「確かにそれは思い出に過ぎない。今はないものかもしれない。だがな小娘。……過去あっての、思い出あっての今ということを忘れるな。思い出は消えたりしない。今へと変わっていく……いや、変えていくんだ」
「変えるのはあなたですよ、水渡さん」
 波を足元に感じながら、私はその声を受け入れていた。
 ゆっくりと面を上げ、空を見上げる。
 月が淡い光を放ちながら、地上を照らし出す。
 それは太陽ほど眩しすぎず、夕陽ほど寂しくもない。
 不思議と、心地よい光だった。
 波の音だけが耳に聞こえる。
 ……やがて振り返る頃には、夏名さんの姿はどこからも消えてしまっていた。
 さようなら、二人目のマジシャンさん。
 私は少しだけ……解った気がします。



 ――――――――/八月五日(II)

 <蒼井 航路>
 少し唐突だが、昔のことを思い出した。
 俺、蒼井航路が今より『家』に近かった頃のことだ。
 まだ浅海の事件が起きる前で、水渡が四歳くらいの頃だから……十年くらい前。
 当時の俺は、今とは別の職業に就いていた。
 どちらかと言うと、乗り気になれない仕事だった。
 けど、家族を食わせていくためにも無職ではいられない。
 夢を追いかけることは諦めて、大人しく人生を歩もう。
 そう思っていた頃のことだ。
「あの頃の浅海はまだ大人しかったかな。結婚して、子供が生まれて、まだまだ妻、母として緊張してたからかもしれない」
「そう、なんですか?」
「ああ。そうだな……丁度、今の君みたいな感じだよ」
 そう言うと、浅海は少しはにかんだ笑みを浮かべた。
 そうした笑みも懐かしい。
 ここ数年、浅海が笑ったことなど見たことがない。
 何かに怯え続け、喜怒哀楽のうち喜と楽が抜け落ちてしまったような彼女。
 そんな彼女を見るのが、俺には辛かった。
 だから、こうして彼女の笑顔がまた見れるのは嬉しい。
 本当に嬉しいことだ。
 ……例え、全てを忘れた結果だとしても。
 辛い記憶は忘れてしまった方がいい……なんて考えてる訳じゃない。
 しかし、袋小路に陥った浅海にとって、なんらかのキッカケになれば幸いだと思っている。
 そして、出来れば全てを乗り越える強さを手にして欲しい。
 いつか全てを思い出して欲しい。
 そう願っている。
「それからしばらくして、偶然にも俺は長年目指していた職に就くことが出来たんだ」
「……航路さん、あまり嬉しそうじゃありませんね」
「まぁ、ね。得るものがあれば失うものもある。身を持って体感することになるとは思ってなかったけどね」
 俺が夢を叶えた直後。
 まるで、代償をいただくぞと言わんばかりの……最悪の事件が起きた。
「……浅海。そろそろ休もう」
 俺にはこれ以上、このことを彼女に話す勇気がなかった。
 今、浅海は非常に危うい状態にある。
 下手に記憶を呼び戻せば、何もかもが台無しになってしまう。
 それは避けたかった。
「航路さん。何か……あったんですか?」
 急に話を変えたのが良くなかったのか。
 浅海が不安そうな面持ちで問いかけてきた。
 そんな彼女の肩を押して、
「なんでもない。さ、部屋まで戻ろう。送っていくよ」
「い、いいです。自分の部屋くらいなら……覚えてますから」
「そうか。それじゃ、ゆっくりお休み」
 何度かちらちらとこちらを見る浅海へ笑顔を向けて、俺は内心溜息をついた。
 あの事件のことは、考えるだけで嫌気が差す。
 もう二度と思い出したくない。
 しかし、確かにあった事件。
 水渡が覚えていないのは、幸か不幸か。
 ――――――まだ水渡が小学校に上がる前、家に強盗が入った。
 俺はその頃、長年夢だった仕事に就いたことで夢中になっていた。
 帰りは遅くなることが多くなり、浅海はいつでもそんな俺を待っていた。
 幼い水渡と一緒に、待っていたんだ。
 その日、俺は仕事が早く終わりそうだから夕食には間に合うと電話を入れた。
 なんとなく、意識が仕事から家族へと傾いたのだ。
 けど、その後仕事が急に長引くことになった。
 ……そのとき俺は、やはりすぐには帰れないという電話を入れるべきだった。
 午後七時半。
 家のチャイムが鳴った。
 浅海は、俺が帰ってきたと思って扉を開けた。
 予め早く帰ると電話したから、俺だと信じ込んでいたんだろう。
 俺は鍵を持ってるから、チャイムなんか押すはずもないのに。
 浅海はきっと、俺の帰りを楽しみに待っていた。
 だからつい、出てしまったんだと思う。
 …………俺が家に帰ったときには、周囲にパトカーが来ていた。
 警官たちに事情を説明され、俺はすぐに病院へ向かった。
 そこに、顔中を腫れ上がらせた浅海がいた。
 俺の姿を確認すると、まるで子供のように泣きじゃくった。
 怖かったと。
 それでも水渡は守ったんだ、と訴えるように言った。
 浅海が傷ついた原因は俺にもある。
 自分に腹が立った。
 浅海には、何度謝っても謝り足りないくらいだった。
 けど、そんな後悔の念もやがては消えていった。
 浅海は事件の日から徐々におかしくなっていった。
 精神科医にも診せたが、治療は難しいと言われた。
 根気良く接することが大事だと言われたから、俺は多少無理してでも浅海と接してきた。
 だが、俺が接しようとすればするほど……浅海は俺を拒絶するようになった。
 ……俺は何度も謝った。それでもなお、追い討ちをかけると言うのか?
 そんな思いが芽生え始め、やがて俺は仕事に専念するようになった。
 浅海とはなるべく関わらない方が互いのためだと言い訳して。
 当時、ようやく留守番出来るようになったばかりの水渡に色々なことを押し付けて。
 俺は『家』から、逃げ出したんだ。
「……何が互いのためだ」
 拳を掴んだ左手に力が入る。
 俺は結局、何もしなかったんだと。
 水渡が呪いの言葉を残して死ぬまで、そのことにすら気づかなかった。
 いや、気づかなかったんじゃない。
 気づきたくないから、目を逸らしていただけだったんだ。
 そんな俺を、今更誰が許すものか。
 だけど、今度はもう逃げない。
 今まで傷つけた分、今度こそ守る。
 浅海も水渡も、絶対に守る。
 そして、もう一度三人で――――家族をやり直すんだ。
 絶対に。

 最近水渡は俺たちを避けている。
 今更家族を取り戻そうとする俺に嫌悪感を抱いたのか。
 全てを忘れ去った浅海が許せないのか。
 俺たちが寝静まった頃に戻ってきて、冷蔵庫の中身を物色しているようではある。
 だが二日の深夜……いや、あれは三日になっていたか。
 あれ以来、水渡は俺たちの前に姿を見せたことはない。
 不安になる。
 水渡は死を選んだ。
 八月七日……明後日に。
 もしもまた、あのような出来事が繰り返されるのなら。
 俺は今度こそ水渡を止めたいと思う。
 もう、あんな結末はごめんだ。
 でも俺は知らない。
 水渡がどこで死んだのかを知らない。
 もし、あの出来事が繰り返されるなら。
 何を思い、何処で水渡が死を迎えようとしたのか。
 それが分からなければ止められない。
 無論、そんなことにならなければ一番いい。
 だが不安は消えない。
 もう二度と失いたくないと思っているのに。
 俺は結局、未だ家族のことを知らないままだった。