識人の捜し物

プロローグ「先生」
 真実は認識で創られている、と彼は言った。
 毎日夕方に公園を訪れる不思議な青年。名前すら知らない彼との会話は、 不瞳彰(ふどうあきら) にとって良い刺激となった。その日も彼は落ち着いた声でゆっくりと話をしていた。彰はそれを熱心に聞いている。
「さて、その意味を説明するために、まずはあの二人組を見てみよう」
「二人組って、あれ?」
 彰は自分たちの対面にあるベンチを見た。そこには若い男女の二人組が座っている。とても親しげに話をしていた。
「僕はあの二人、恋人同士と見たね」
「どうだろう。確かにそれっぽいけど」
「少なくとも今の僕らにとって、あの二人は恋人同士に見える。それが真実だ」
「真実ってそんなに軽々しいものかな……」
「一人一人が様々な真実を持ち合わせているからね。尊重すべきものではあるけど、さほど希少価値はないよ」
 青年は穏やかな口調で断定する。そして彼は彰の方に視線を向けた。正確には、彰の右眼を覆い隠す眼帯を見ている。
「さて。それじゃ――君の右眼であの二人を見てごらん」
 青年に促され、彰は若干ためらいながらも眼帯を外した。露わになった右眼で改めて男女を見る。そこには、先ほどまではなかったものがあった。
 ベンチに座る男女の間に二本の『線』。それが何を意味するか、彰はよく分かっている。
 男から女に向けられた『線』と、女から男に向けられた『線』。それはどちらも暖かな光を発していた。強くもなく、弱くもない光。
 それを確認し、彰は首を振った。
「あの二人は恋人じゃないね。それにしては安定し過ぎてる」
「ふむ。それでは家族か友達と言ったところかな」
 彰の断定に異論を挟まず、青年は何度も頷いた。
「これで僕らは認識を改めた。あの二人は恋人ではない。それは事実なのだろう」
 再び眼帯で右眼を隠す彰に、青年は穏やかな笑みを向けた。
「君のその眼は、我々のものよりも事実に近い。しかし、それも確実と言えるものではない。君はあの二人が恋人ではないと見抜いたが、それ以上のことは分からないだろう?」
 彰は黙って頷いた。彰の右眼が捉える『線』は、そこまで細かいことは分からない。
「普通よりも少し深い事実が見えるだけ。そう割り切ることは簡単じゃないけど、決して無理なことでもない。それに、大切にすべきものは事実ではなく真実なんだよ」
 青年は彰の頭を撫でながら、諭すように言った。
「仮に、あの二人のことを、その右眼で見なかったらどうだっただろう。僕らにとって、あの二人はずっと〝恋人かもしれない二人組〟ということになる。特に事実を追う必要もなかったし、わざわざ見なきゃいけないということもなかった。僕らなりに認識して、真実を得た時点で手を引くことも出来た」
 彰は頷いてから、もう一度二人を見た。左眼だけなら、あの奇妙な『線』は見えない。
 本当に仲の良さそうな二人だった。家族か友人かまでは分からない。少しだけ事実が気になったが、それだけのことだった。
 やがて男女二人はベンチから離れ、やがて公園から出て行ってしまった。
「恋人同士じゃないのは確かだと思う。けど、結局どんな関係だったのかは分からなかったな」
「別に構わない。分からないというのも、それはそれで一つの真実なんだ」
 次第に陽は落ちていく。夕闇に包まれつつある公園に、青年の柔らかな声だけが響き渡る。
「事実というのは、それだけでは意味を持たぬ材料に過ぎないんだ。どんな材料を与えられても、それに意味を与えるのは君の認識だ。事実は君の認識を経て真実になる。君だけの真実になるんだ」
 そうして彼は締めくくるように告げた。
 最初の言葉を、もう一度口にする。
「――真実は認識で創られているんだ」
 彰は青年の言ったことを少しでも理解しようとした。必死に頭を働かせ、やがて納得したように頷く。
「君の眼は、本来知らなくてもいい余計な事実まで捉えてしまう。けれど、大事なのは君自身なんだ。見えてしまったものをどう受け止めるか。どう認識するかが大切なんだよ」
 青年は夕焼け空を眺めた。小さな雲がゆっくりと流れている。時折遠くからカラスの鳴き声が聞こえてきた。
「この夕焼け空と同じだ。これを見て寂しいと思う人もいる。和やかな気持ちになる人もいる。憂鬱になる人もいるかもしれないね。それ自体は別に良くも悪くもないけど、そこには必ず意味が与えられる。意味を与えるのは君自身だ。僕はこの空を見ると寂しい気持ちになるけど、君はどうだい?」
「俺は……綺麗だと思う」
「それは良かった。何かを見て綺麗だと思える心ほど、貴重なものはないのだから」
 その声はどこか寂しげだった。彰は気になって青年の方に視線を向ける。しかし、彼の表情は夕闇に覆われて窺うことが出来なかった。
「……今はまだ、右眼が捉える事実を受け止められないかもしれない。でも、いつかはきちんと受け止められる日が来るかもしれない。君が持つ、君にしかない真実。そこから見える風景が、いつか美しいものになるかもしれない」
「かもしれない、ばっかり」
「そればかりは君の成長次第だからね。……どんな事実と出会い、それにどんな意味を与えるのか。どんな真実を創り出すのか。そこからどんな成長を果たすのか……全てはこれからのことで、さすがの僕もそんなことまでは分からない。……ただ、そうだな」
 青年はベンチから立ち上がり、彰の正面に回る。
 今度は光が当たって青年の顔が見えた。いつも以上に穏やかで優しい。そのくせ、見る者を不安にさせるような表情だった。
「一つ約束しよう。――――どんなときでも、自分の真実から目を逸らさないこと」
「目を、逸らさない……?」
「ああ。そうすればきっと、君はより良き世界を見ることが出来るようになる」
 そう言って青年は彰の頭を力強く撫でた。少し痛かったが、彰は嫌がらなかった。別に心地良いわけではない。ただ、彼の様子から察してしまったのだ。
 こうして話せるのも、これが最後なのだと。
「君が少しでも世界を美しいと思ってくれることを願う」
 そう言って青年は、最後に軽く彰の頭をポンと叩く。そしてそのまま踵を返し、一度も振り返ることなく公園の出口に向かって歩いていく。
「……先生!」
 思わず大声を上げてしまった。何かを言わずにはいられなかった。
 青年は首だけを回し、ちらりと彰の方を振り返る。
 彰はベンチから立ち上がり、真っ直ぐに青年を見据えて言った。
「俺、約束する! 先生との約束守るから!」
 他に言うべきことはいくらでもあるのに、出てきたのはそんな言葉。それでも青年は満足したらしく、にっこりと会心の笑みを浮かべた。
 彰も同様の笑みを浮かべる。
 そして、笑顔のまま彼を見送った。
 夕陽が沈むまで、ずっと見送っていた。

 ――――その日見た夕焼け空以上に綺麗なものを、彰は未だ見つけ出せずにいる。