識人の捜し物

第三話「右腕」
 翌日の目覚めは最悪だった。
 昨晩のことが頭から離れず、あまり眠れなかったのである。
 命を狙われたことによる緊張感も消えず、何度も夜中に目が覚めてしまった。
「こんなことなら、昨日聞いておけばよかったな……」
 もっとも聞いたら聞いたで、驚愕の事実を知らされた興奮で眠れなくなりそうだが。
 悪魔、魔力、退魔士。
 全然現実味のない単語だが、彰はそれを頭ごなしに否定することは出来なかった。
 自分自身、おかしな右眼を持っているのだから。
 斑目の遺体がどうなったかは知らないが、騒ぎになっていないことを考えると本当に消滅したのかもしれない。
 あれが悪魔かどうかは分からないが、少なくとも普通の人間ではないだろう。
 あれだけの力を持っていたら、それは既に人間の範疇を越えている。
 そういう意味では、倉凪永久と名乗った少女も同じである。
 だが彰は、彼女のことを恐ろしいとは思わなかった。なぜかはよく分からないが、
 ……まぁ恩人を恐がるっていうのも失礼な話だしな。
 ということで、とりあえず納得していた。
「なんだぁ、あれ」
「さぁ。でもなんかこわーい」
 自分に向けられたのであろう声を耳にして、彰は思考を中断した。
 左眼を開けて、視線を横に向ける。
 涼宮高校の校門があった。
 そこから、次々と下校する生徒たちが出てくる。
 校門の脇に立っている彰に気づき、何人かはひそひそと話をしているようだった。
 彰は極力気にしないよう努めた。
 この前髪のせいで人目を引くのは分かっているし、それが見慣れない人物であれば警戒の念を抱いてもおかしくはない。
 ……ただ、いちいち声に出したり指を指したりするのは、いささか失礼じゃないか?
 彰とて、好きでここにいるわけではない。出来ることなら早く立ち去りたかった。
 そうして少し苛立ちが溜まってきた頃、ようやく目当ての人物が出てきた。
 ところが彼女は彰に気づいていないのか、そのままどこかへ行こうとしていた。
「おい、ちょっと待ってくれ!」
 慌てて彼女の後を追う。
 周囲の視線がこちらに集中するが、そんなことを気にしてはいられない。
 ここで置いていかれては、待っていた時間が無駄になる。
「倉凪永久!」
 フルネームで呼ぶと、彼女はびっくりした顔で振り返った。
 彰に向けられていた視線が、一斉に彼女へと移る。
 途端に顔を赤らめた永久は、物凄い力で彰の腕を引っ掴む。そのまま勢いよく歩きながら、
「なに大声で叫んでるのよ!?」
「いや、こっちに気づいてないみたいだったから……って痛っ、痛い!」
 細い腕のどこにそんな力があるのか、永久に掴まれた腕が万力に締め上げられたように痛む。
「そんなのはいいから早く来て。ここだと目立つでしょ」
「分かった、分かったから離してくれ!」
 彰が悲鳴をあげるたびに、周囲からひそひそと話し声が聞こえてくる。
 そのことに気づき、永久は彰からさっと手を離した。
 永久の後を追いながら、彰は己の失態を後悔していた。
 校門前に出向くのはさすがにまずかった。
 あの様子だと、明日には妙な噂が立てられている可能性が高い。
「……悪かった」
「うぅ……」
「何か誤解とかされたりしたら、ちゃんと俺も出向いて説明する」
「余計勘繰られるわよっ!」
 周囲に学生服の姿がないことを確認し、永久は振り返って彰を睨みつけた。
 その相貌は鋭さを増し、眉間にはたっぷりとしわが寄っている。
「だいたい、なんであんなところにいたのよ?」
「いや、考えてみれば昨日、どこで会うか決めてなかったから。制服は涼宮のだったし、あそこで待ってればそのうち来るだろうと思ってたんだけど」
 彰がそう言うと、永久の表情からは苛立ちが消えた。
 その代わり徐々に困惑の色が浮かび上がってくる。
「そうなの?」
「ああ。そういえば、君はどこに行こうとしてたんだ?」
「……昨日もらった名刺」
 永久は鞄から、彰が渡した名刺を取り出した。
 名刺には彰の名前、アドレスなどの他に、端の方にこう書かれている。
『御用の方は涼宮駅前の掲示板まで』
 その一文に気づいて、彰は困ったように頭を掻いた。
「なるほど、それでそこに行こうとしてたのか……」
「昨日のうちにきちんと確認しておけばよかったわね……ごめんなさい」
「いや、こっちこそすまない。どっちかって言うと迷惑かけたのは俺の方だし。助けられたうえに迷惑までかけてたら世話ないな」
 後半は自分自身に向けた軽蔑の言葉だった。
 彰は視線を落とし、重い溜息をつく。
 お互いの間に気まずい空気が漂い始める。
 それを払拭しようとしたのか、永久が口を開いた。
「……ねえ、最初にこっちから質問していい?」
「あ、ああ」
「どうやってあの鞄を見つけたの? あんなところにあったの、偶然じゃ見つけられるはずないと思うんだけど」
「それは『線』を辿ったんだ。……ってこれだけじゃ分からないか」
 彰は顔の右半分を覆い隠す前髪をどけて、永久に眼帯をみせた。
 そのまま眼帯を外し、自分の右眼を指差す。
「俺の右眼は、なんていうか変な『線』が見えるんだ。人が一番強く思っている対象に向けた、意識の『線』、みたいなものが」
「例えば?」
 永久に問われ、彰は彼女が発する『線』を見た。
 透き通った綺麗な直線である。
 自らの経験に当てはめて、それがどんな意味を内包しているかを考える。
「……君は今、純粋でいてかなり強い好奇心を俺に向けてる」
「それ、会話の流れから充分察することが出来ると思うんだけど」
「うぐっ、それもそうだな。えーと、それなら……」
 何かいいものはないかと視線を動かす。すると、ちょうどいいものが道端にあった。
 自動販売機である。
「よし、昨日のお礼も兼ねて何かジュースでも奢ろう。ただし君は欲しいものを言わなくてもいい。俺が『線』を利用してそれを当てる」
「いいの?」
「ああ。だから欲しいものを心の中で思い浮かべてくれ」
 彰に促されて、永久は自動販売機の前に立つ。
 彼女は並べられたジュースを見比べて、やがて数秒もしないうちに頷いた。
「決まったよ」
「なるほど。……これだな?」
 彰は永久の『線』が示す飲み物のボタンを迷わずに押す。
 がたん、という音と共に出てきたのは牛乳だった。
 それを見て、永久が感嘆の声をあげる。
「すごい、本当に一発だー……。しかも全然躊躇せずに押したわね」
「その方が説得力あるだろ?」
「うん、確かに。そっか、そういう力なら捜し物とかもしやすいか」
「そういうこと。昨日は斑目に『捜したい物』を強くイメージさせて、発生した『線』を辿っていったんだ。それで学校に着いたんだよ」
 出てきた牛乳をごくごくと飲みながら、永久は得心したように頷いた。
 どうやら彰の力については理解してもらえたらしい。
 どことなく微笑ましいその光景に頬を緩ませながら、彰は眼帯と前髪を元に戻した。
「それじゃ、今度はこっちが質問してもいいかな?」
 永久は牛乳を飲みながら頷く。
 気合の入った飲み方が少し気になったが、彰は昨日からずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「君は斑目……昨日のやつを悪魔って呼んでたけど、それはどういう意味なんだ?」
 彰が言い終えると同時に永久は牛乳を飲み終えた。
 販売機の脇にあるごみ箱にパックを捨てながら、
「悪魔は悪魔よ。第六種、六の魔族、不義の象徴、裏切りの代名詞とも言われてるわ」
「いや、それじゃさっぱり分からないんだが……。そもそも悪魔って、黒い肌に蝙蝠みたいな羽とか生やしてるものだろ? あれは、どこからどう見ても人間にしか見えなかったけど」
「うーん……貴方が言ってるようなのとは、少し意味が違うんだけど」
 自動販売機から離れ、再び歩き出す永久。彰もその後に続く。
 夕暮れ時の住宅街には徐々に夕闇が広がりつつあった。
 永久の影法師を踏みながら、彰はその背中を見つめる。
 どちらかと言えば小柄な体格。
 夕陽に照らされ金色の光を纏う少女は、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
「適切な言葉があるとすれば……それは人間の敵ってとこね」
 後ろにまわした手を組みながら、永久はひらりと振り返る。
 その口から飛び出た物騒な単語に、彰は首を傾げた。
「人間の敵……それが、君のいう悪魔なのか?」
「正確には違うわ。悪魔の中にだって人間に協力的なのもいるし。全面的に戦ってたのは千年以上前だって聞いてる」
「随分と昔の話になるんだな……」
「今も水面下じゃ揉め事が絶えないけどね」
 永久は肩を竦めて溜息をつく。
「ちなみに、昨日の奴は下っ端。身体の中身が魔力だけだったのがいい証拠よ」
「魔力って、あの黒い霧か?」
「ええ、持ち主によって形は違うけど。……私が『翠(すい)玉(ぎょく)の太刀(たち)』を出すときに白い光が見えたでしょ。あれが、私の魔力なの」
「『翠玉の太刀』?」
「私が持ってた刀」
 あれか、と彰は頷いた。
 あの刀を振るう彼女の姿は、今も目に焼きついている。
「魔力っていうのは用途が広くてね。普通じゃ考えられない、様々な神秘を引き起こせるの。昨日の奴みたいに、魔力を利用して生命を創り上げることも出来る」
「……」
 彰は斑目の姿を思い浮かべた。
 本性を表す前の彼は、まさしくただの人間にしか見えなかった。
 あんなものを創り出せる魔力というものが、少し恐い。
「嘘みたいな話だな……」
「そうね。本当に嘘みたい。……でも生きてるのよ、彼らも」
 永久はやや落ち込んだように言った。
「それを狩るのが、私たち退魔士。彼らにしてみれば、殺し屋みたいなものかしらね」
 永久の声は若干沈んでいた。
 そういえば、と彰は昨日のことを思い返す。
 彼女は斑目をすぐには殺そうとしなかった。
 一度は逃げる機会も与えていたのである。
 結果的に斑目は永久の手によって倒されたが、彼女も本当はそんな結末は望んでいなかったのかもしれない。
 そう思うと、少しほっとする。
 なぜかは彰自身、上手く言葉には出来なかったが。
 そんな彰を見て、永久は不思議そうな顔をした。
「……なんで笑ってるの?」
「え? あ、いや……なんでもない」
 永久に指摘されて、彰は慌てて緩んでいた表情を元に戻す。
「悪魔についてはだいたい分かった。けど斑目が下っ端なら、その裏に誰かがいるってことか。そいつが、斑目に命じてあの鞄の中身を狙ったってことなんだよな」
 そうやって言葉にすることで、彰はあることに気づいた。
「つまり、他にもいるのか。……斑目みたいなのが」
「ええ。そいつは今もどこからか、アレを狙ってるでしょうね」
 永久はその鋭い双眸を細めながら淡々と告げる。
 彰の背筋が震えた。純粋な恐怖が全身を駆け巡る。
 人気のない住宅街。
 どこかに誰かが潜んでいる気がして、つい視線を動かしてしまう。
 そんな彰の様子を見て、永久は安心させるように表情を和らげる。
「大丈夫よ、今はそんな気配ないし。それに、アレも持ってないしね」
 と、両手をひらひらと振ってみせた。
 確かに、永久が持っているのは学生鞄だけだった。問題の鞄は見当たらない。
「アレ、か。結局どこにやったんだ?」
 昨晩、別れるときに永久は例の鞄を持っていた。
 どこか別の場所に隠すと言っていたが、彰はその場所までは教えてもらっていない。
 永久は首を振った。申し訳なさそうに、
「貴方を信用しないわけじゃないけど、教えることはできないわ。極力誰にも洩らさない方がいい。少しでも見つけられる確率を減らしたいから」
「……だったら、なんで屋上に置いてたんだ? あんなとこ、すぐにばれると思うんだが」
「ああ、屋上は今出入り禁止になってるの。去年の暮れ頃に男性教師と女生徒の密会場所として使われてたのがばれて、以後厳重に鍵がかけられてたのよ」
 永久の言葉に、彰は首を傾げた。
「昨日は鍵なんてかかってなかったぞ……?」
「私が開けといたから」
「……なんで?」
「放課後、屋上の方をじっと見てる怪しい二人組がいたから。もしかしたらアレを狙ってる悪魔かな、と思って屋上で待ち伏せてたの。立ち入り禁止になってる屋上にまっすぐやって来れば、そいつらはほとんど黒でしょ。その場合、どうやってアレの隠し場所に気づいたのか聞き出してから倒そうと思ってたの」
「ところが、その片割れは何も知らずに協力させられてた捜し屋で、あわや殺されそうになった。だから助けに入った、ってわけか」
 実に情けない役回りだな、と胸中で自嘲する。
「でも、そんなに警戒してまで守ろうとしてる、そのアレって……なんなんだ?」
 もっとも重要なのはそこだった。
 斑目が狙い、永久が守ろうとしている、鞄の中身。
 それがなければ、彰はこの一件に関わっていなかっただろう。
 最初は違法性のある代物だと思っていたが、悪魔や退魔士などというものが関わっている以上、それよりも遥かに非常識な物と考えるべきだろう。
 どんな返答が来るのかと身構える彰に対し、永久は短く告げた。
「『右腕』よ」
 簡潔だが、咄嗟には理解しがたい返答だった。
「『右腕』って……あの鞄の中に?」
「ええ。言葉通り『右腕』。あの鞄に入っているのはそれだけよ」
 彰は顔をしかめた。
 人間の右腕がそのまま入っている光景を想像してしまったのである。
 だが、そんなはずはない。
 ただの人間の右腕に、そこまでして守る理由などない。
「……なんの、『右腕』なんだ?」
 核心に迫る問いかけ。
 尋ねる彰の声は震えていた。
 永久はかすかに目を伏せ、彰に背を向けた。
 再び前を見ながら歩き出す。
 答える気配のない永久に、彰がもう一度尋ねようとしたとき。
「――〝天魔〟」
 彰の言葉を遮るかのように、永久の一言が放たれた。
 開きかけた彰の口は、彼女の言葉を繰り返す。
「天魔?」
「奴らの代表格。王、みたいなものよ」
「悪魔の、王……」
「そう。魔王とでも言った方が分かりやすいかしら」
「ってことは、あの鞄の中には……」
 想像して、彰は全身を貫く寒気に襲われた。
 昨晩、彰が見つけ出したものの正体。
 それはつまり――『魔王の右腕』ということになる。
 下っ端の斑目でさえ、彰にとっては充分恐ろしい相手だった。
 天魔というのがどれほど危険な存在なのか、想像するだけでも恐ろしい。
「その天魔は今から六年前に、多くの退魔士たちの犠牲によって封印されたの。その後、退魔士たちの生き残りは封印された天魔をいくつかに分割した。二度と復活しないようにね」
「その、分割されたうちの一つが『右腕』ってことか……」
「そういうこと。悪魔たちは天魔をどうにか復活させようとして、私たち退魔士から天魔の欠片を奪おうとしてるの。『右腕』も二年前に盗まれたものを、ついこの前私が取り返したものなのよ」
「斑目が盗っ人とか言ってたのはそういうことか……」
 アレはもともと我らのもの、とも言っていた。
 確かに斑目たちにしてみれば、自分たちの王の身体である。
 所有権を主張するのも頷けた。
「そいつが復活すると、やっぱり危険なのか?」
「ええ。六年前の戦い、私も詳しいことは知らないんだけど……天魔との戦いで死んだのは総勢一万人を越えるって聞いてる」
「い、一万……!?」
 想像を遥かに上回る数字に彰は愕然とした。
 あまりに飛び抜けていて、それが『奪われた命』という実感が全く持てない。
 彰が落ち着くのを待ってから、永久は険しい表情で続ける。
「戦場になったのはヨーロッパ全土。五十日かけてどうにか天魔を封じることに成功したらしいけど、最後の戦場となった町は文字通り死屍累々の有様。六年経った今でも、一般人が足を踏み入れれば狂死するって言われてる」
 そこまでいくと、もはやそれは災害の域に達している。
 そんな戦いがもう一度起きたらどんなことになるのか、彰には想像もつかない。
「無茶苦茶だ……」
「そうね。でもそれが実際にあったことなの。……そして、下手すればまた起こるかもしれないことでもある」
「……っ」
 彰は息を呑んだ。
 永久の話した凄惨な戦いは、完全に終わったわけではない。
 もしその天魔が復活したら、同じことが繰り返されるかもしれない。
 この涼宮町に屍の山が築かれる可能性も充分にある。
「だから、アレは絶対に守り抜く。連中に渡すわけにはいかないの」
 永久は小さな声で、しかし力強く言った。
 彰に対してではなく、自分自身に向けて言っているようだった。
 その姿は、やはり美しく頼もしい。
 だが、沈み行く夕陽のせいなのか――どこか、寂しげにも見えた。
「と、まぁ状況説明はこんなところかしら。私は退魔士として天魔の復活を食い止める。連中はそんな私を排除するか出し抜くかして、『天魔の右腕』を奪おうとしてるってわけ」
「分かった。……けど、それはいつまで続けるんだ? 君は、見たところ一人みたいだけど、大丈夫なのか?」
「そうねー……当面は、あと四日」
 永久は人差し指を一本立てて言った。
「四日したら、『九裁』から正規の退魔士が腕を引き取りに来る予定なの。とりあえず私が守らなきゃいけないのは、それまでの間ね」
「キュウサイ?」
「日本の退魔組織の総称。古くから続く退魔の家系が九つあって、その人たちによって運営されてるの。私はそこに所属してないから、あっちからしたらモグリになるのかな」
「ふうん……いろいろと、あるんだな」
 彰には、そう返答するのが精一杯だった。
 おそらく永久は今話したこと以外にも、いろいろなものを背負っている。
 彰には到底理解出来ないくらい、重いものを。
 それでも永久は、夕陽に照らされながら、金色の笑みを浮かべてみせた。
「でもま、誰かがやらなくちゃいけないことだしね。この町に退魔士は私だけだから、頑張らないといけないのです」
 その笑顔は、どこか儚い。
「なあ」
 彰は不安になって、何か声をあげようとした。
 そうしなければ、目の前の少女が消えてしまうような気がしたからである。
 しかし、彰が次の言葉を告げるよりも早く、永久の表情が一変する。
 次の瞬間、彼女はいきなり彰の身体を薙ぎ払った。
 見かけからは想像も出来ないほどの凄まじい力だ。
 彰は石ころのように道脇の塀に叩きつけられる。
 ……なんだ!?
 全身に走る衝撃を堪えながら、彰は面を上げる。
 そこには、変わらぬ姿勢で永久が立っていた。ただ、右肩にナイフが突き刺さっている。
 その意味を彰が理解するよりも先に、永久が見据える方向から三本のナイフが飛来した。
 永久は自らの肩に突き刺さったナイフを引き抜くと、それを手に飛んで来るナイフを一つ残らず叩き落す。
 そこで彰もようやく気づいた。今、何が起きているのかということに。
「貴方はどこか安全なところに隠れて!」
 永久の叫びが住宅街に響きわたる。
 彼女の視線の先には、一人の童女が立っていた。
 夕闇に包まれて、その顔は見えない。
 両手にはナイフを持っている。
 永久に投げられたものと同じ形をしていた。
「あ、あれが……?」
「早くどこかに隠れて、お願いだから!」
 永久はナイフをその場に捨て、右腕を軽く振る。
 すると、昨夜と同じように、その場で光が生じた。
 光は即座に刀の形を造り、永久の手の中へと収まった。『翠玉の太刀』である。
 彰はその光景を呆然と見ていることしか出来なかった。
 隠れようにも、この辺りではせいぜい電柱の陰ぐらいしか隠れ場所がない。
 永久は一度、不安そうに彰の方を見た。
 しかし、それを振り切るように、相手を鋭く睨みつける。
「直前まで気づかないなんて……私も気が抜けてたのかしら」
「そうだよぉ。お姉ちゃん、話に夢中になってたみたいだったもん。簡単に近づけたよ」
 くすくすと、おかしそうに笑う童女。
 その口元は、三日月状に歪んでいる。
「それでさぁ。お願いがあるの」
 ナイフを構え、童女は不気味なくらい可愛らしい声で告げる。
「――腕、ちょーだい?」
 刹那、童女は永久に向かって飛び込んできた。
 まるでバイクが突っ込んでくるような速さである。
 彰はかろうじてそれを目で追う。
 夕陽に照らし出され、童女が手にした二つのナイフが怪しく光る。
 永久は右手に刀を持ち、かすかに腰を落として構えた。
 両者の距離が零になる。
 その瞬間、童女は下方からナイフで永久の胸部を狙い、永久は一歩身を引き刀を童女の右腕めがけて放った。
 永久の方が動きは速い。童女は避けきれず、右腕を斬り落とされた。
 そこから覗いて見えたのは、斑目のときと同じ黒い霧。
 その霧を見ることで、ようやく彰はそれが悪魔なのだという実感を抱いた。
 見ると、永久の方も完全に避けきれたわけではないようだった。
 制服の右肩の部分が裂かれ、そこから赤い血が流れている。
「お姉ちゃん、ひどいね」
 そんな永久に対し、童女は非難の声をあげる。
「こんな子供の腕を簡単に斬り落とすなんて、残酷だね」
「……っ!」
 その一言に、永久の表情が苦しげに歪む。
 斑目を倒したときと同じように。
「ねえ、お兄ちゃんもそう思うでしょ?」
 童女はくるりと首だけを回し、いきなり彰の方を見た。
 人形のような顔立ちをしている。
 可愛らしいが、無機質な印象がある。
 正直あまり見ていたい顔ではない。
「そうだ。このお兄ちゃんでもいいよね。こんなひどいお姉ちゃんなんか放っておいてさ、私たちと一緒に遊ぼうよ」
 童女の話し方は不気味だった。
 顔の中で、口だけを動かして喋っている。
 斑目よりも、ずっと人間味の薄い仕草だった。
「私たち、知ってるよ。お兄ちゃんなら、意地悪なお姉ちゃんが隠した腕、簡単に見つけられるんでしょ?」
 童女は誘惑の眼差しを向けながら、ゆっくりと彰に手を差し伸べてくる。
 彰は動けない。『悪魔』を前にして、どう対処すればいいのか分からなかった。
 童女の手が、彰の頬に触れる。
 刹那、その腕が彰の目の前で斬り落とされた。
 童女は口元から笑みを消し、自分の両腕を切り落とした相手に冷たい視線を向ける。
「……本当にひどいね、お姉ちゃん。右と左。次はどこを斬るの?」
 責めるような口調。
 それに対し、永久は辛そうな表情を浮かべながらも、彰の前に立った。
「今更そんなこと非難するなんて、お門違いもいいところよ。それに、この人を巻き込んだりすることは許さない」
「ふーん。それじゃ、どうするの?」
 童女は試すように言う。
「私を、殺す?」
 永久が歯軋りをする音が彰にも聞こえた。
 肩もかすかに震えている。
 彼女は彰の方を振り返ることなく、吐き捨てるように言う。
「――ええ、そうするわ」
 言い終えると同時に、永久は刀を振り下ろす。
 童女の身体が袈裟斬りによって分断される。
 童女は何も語らず、しかし一度だけ彰の方を見てにやりと笑い、やがて地に落ちた。

 二人は住宅街の中にある小さな公園にやって来ていた。既に陽は暮れている。
 童女の遺体をあそこに置き捨てるのはさすがにまずいので、二人で公園まで運んできたのである。
 茂みの中に放り込んでおけば朝までには消えるだろう、と永久は言った。
 それから何をするわけでもなく、二人は揃ってベンチに腰掛けている。
 二人の間には、重い空気が漂っていた。
 襲い掛かってきた童女。
 あの悪魔は、斑目とは違った意味で恐ろしかった。
 今、永久は頭を垂れている。
 髪によって隠され、その表情は窺い知れない。
 そんな彼女を放って帰る気にもなれず、彰は付き合う形でここに残っていた。
「……傷、痛むのか?」
「大丈夫」
 永久の返答には覇気がない。
 彼女は右肩に二度攻撃を受けている。
 彼女自身は大したことないと言っていたが、今ひとつ信用出来ない。
 彰にも、永久がなぜ落ち込んでいるのかは分かっている。
 傷のせいなどではない。あの悪魔に言われたことを引きずっているのだろう。
 ……殺す、か。
 彰は無意識のうちに、彼女は悪魔を倒しているのだと認識していた。
 だが、そんなものは都合のいい解釈に過ぎない。
 彼女は、確かに悪魔を〝殺した〟のである。
 気にするな、と言ってやることは簡単だった。
 だがそんなものは気休めにもならない。
 彰は退魔士のこと、彼女のことをろくに知らない。
 ついさっき、知識として得ただけである。
 そんな男が適当なことを言っても、どうにもならない。
 これは、永久自身がどうにかするしかないのだった。
 だが、それでも。
 ……放っておけない、よな。
 横目で隣に座る少女を見る。
 そこにいるのは戦う力を持った退魔士などではない。
 ただの女の子だった。
 人間関係が苦手な彰としては、あまり妙な縁は持ちたくない。
 しかし、彼女には二度も命を救われていた。
 そのことで彼女に怪我まで負わせてしまっている。
 ここで逃げ出すのは、悪魔と戦うことよりも恐ろしい。
『恩と怨みは三倍にして返しなさい』
 本気か冗談か、かつてこの公園で彰にそう教えた男がいる。
 彼は別れ際、こうも言った。
 ――どんなときでも、自分の真実から目を逸らさないこと。
 今、彰にとっての真実とは何なのか。
 自分の命を助けてくれた少女は、たった一人で戦っている。
 彼女は強く、そして弱い。今もこうして傷ついている。
 その真実から目を逸らさないのであれば、やるべきことはほとんど決まっていた。
「――何か、手伝おう」
 そうやって口にすると、妙にすっきりとした気分になった。
 永久はゆっくりと顔を上げて彰を見た。
 彰が何を言っているのか理解出来ていないようだった。
 呆然とした表情を浮かべている。
 彰はもう一度、永久に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「何か手伝おう。戦いでは役に立てないかもしれないけど、俺の右眼は何かに使えるかもしれないだろ? 二度も命を救われたんだ、俺としてもこのまま帰ることは出来ない」
 話を聞きながら、永久は徐々に表情を沈めていった。
「その気持ちは嬉しいけど……止めておいた方がいいと思う。本当に危ないから」
 永久は寂しげに気づかいの視線をよこす。
 それに対し、彰は首を振った。
「確かに危ないだろうけど、俺ももう部外者面はしてられない状況みたいだしな。連中、俺のことに気づいてたし。俺が奴らの立場なら、手強い君は相手にしないで俺の方を狙ってくるだろう。俺の右眼を使えば簡単に腕の場所を探れるし」
 そうなれば、彰は永久に恩を仇で返すことになってしまうかもしれない。
 彰の力は、『右腕』を捜す悪魔にとっては欲すべきものだが、永久にとっては厄介極まりないものである。
 彰にとってもその事態は好ましくない。『右腕』発見に利用された挙句、殺されるのは目に見えている。
「だから、俺としても君に協力することで身の安全を図りたい。その代わり、俺も出来ることは全力でする。受けた恩は返すもんだし、その分は働いてみせる」
「恩なんて、気にしなくていいのに……」
 永久の声には困惑の響きが篭もっていた。
 しかし満更でもないのか、口元にはかすかに笑みが浮かんでいる。
「でも、そうね。貴方も狙われてる以上、なるべく一緒にいた方がいいのかも」
「戦いなんかだと役に立てそうにないのが残念だけどな。ま、その分コイツを上手く使ってみせるさ」
 と、少し大袈裟なくらい陽気な声をあげながら右眼を指差す。
 それにつられたのか、永久の表情が穏やかなものになっていった。
 彰は思う。
 彼女には戦士の顔や落ち込んだ顔よりも、こういった顔の方が似合うと。
 そんなことを考えていると、いつのまにか永久は彰に頭を下げていた。
「……ありがとう」
「な、なんで頭なんか下げるんだ? お礼言われるようなことはしてないぞ?」
「だって、手伝ってくれるって言うから」
「それは、単に命が惜しいからだ。自分で首突っ込んでおきながら、君に頼ろうって考えただけだよ」
「そうなの? でも、それでもいいや」
 永久は面を上げた。
 そこには、昨夜見た温かい笑顔がある。
「手伝ってくれるって言ってもらえて……少し、嬉しかったし。それなら、お礼を言うのは当然でしょ?」
 至近距離から浴びせられた不意打ちに、彰は心臓が高鳴るのを実感した。
 永久は綺麗だった。
 あの日見た夕焼け空に、勝るとも劣らないぐらい。
 その動揺を隠すため、彰は努めて厳かな声をあげる。
「それじゃ……よろしく頼む、倉凪永久」
「こちらこそ、不瞳彰さん」
 そう言って、永久は手を差し伸べてきた。
 彰がそこに自分の手を合わせ、二人は握手を交わす。
 永久の手のひらは思っていたよりも小さく、少し荒れていた。
 そして、その笑顔と同様に温かい。
 それがこの日彼女から得た、一番鮮やかな真実だった。