識人の捜し物

第六話「灰色の霧」
 翌日は晴天。
 日曜日ということもあって、町中はいつも以上の賑わいを見せていた。
 平日は学校や仕事場に密集する人口が、束縛から解き放たれて好き勝手に動く一日。
 そんな日に、彰は暗澹たる面持ちで溜息をついた。
 ……あんなこと、言わなければ良かった。
 彰は今、駅前にある大型デパートの屋上から町を見下ろしていた。
 眼帯をずらし、眼下に広がる町並に不審な『線』がないかどうかを見張っているのである。
 ここは一般用に開放された場所で、野外レストランが一軒あった。
 設置されたテーブルに腰かけながら、彰はじっと屋上の下を見ている。
「あれ、彰食べないの?」
 と、テーブルの向かい側に座る永久が、不思議そうに尋ねてきた。
 極力そちらを向かないようにしていたのだが、声をかけられた以上相手の方を見て話すのが礼儀である。
 彰は視線を、眼前の永久に移した。
 彼女は美味しそうにダブルのソフトクリームを食べている。
 オーソドックスなのが好きらしく、乗せてあるのはバニラとチョコだった。
「凄く美味しいよ?」
「そうか。出来るなら食べたいもんだ」
「じゃあ頼んできてあげよっか」
「いい、いいから大人しく座っててくれ」
 立ち上がりかけた彼女を無理矢理座らせて、彰はもう一度溜息をついた。
 今日の永久は、昨日とは一味違っていた。
 本当に、遠慮がない。
 今まで猫を被っていたのかと言いたくなるほどだった。
 図々しいというわけではないのだが、余計な気遣いは一切捨てたらしい。
 彰は朝早くからあちこち連れ回されて、既にくたくただった。涼宮町の半分は歩いた気がする。
 もっとも、その遠慮のなさは嫌なものではない。
 疲れはしたが、それもどこか心地良さを感じさせるものだった。
 彰の態度が不満なのか、永久は口を尖らせた。
「大丈夫だって、私が払ってあげるから」
「いや、いい。俺が奢ると言ったんだ、好きなだけ食ってくれ」
 半ばやけになって、彰は財布をテーブルの中央に置いた。
 永久は笑ってそれを彰に返す。
「意地張らなくてもいいのに」
「自慢じゃないが一旦口にしたことは絶対に守る主義なんだ」
「頑固ねぇ」
 感心半分、呆れ半分といった眼差しを受けて、彰は苦笑した。
「昔、先生が言ってたんだ。約束は絶対に守れって。……まぁ、出来ない約束はするなとも言われたけど」
「先生?」
「ああ、俺が唯一尊敬する人だ」
 彰は右眼に手を当てながら、永久に昔のことを話した。
 かつては、この眼をどうしても受け入れられなかった。
 そのことで周囲とぎこちなくなってしまい、終いには右眼を抉り出そうと本気で思った。
 そんなとき、彰は『先生』と出会った。
 夕暮れの公園。ベンチで一人ぼーっとしている彰の前に、その男は突然現れた。
 ――君、世界を嫌ってそうな眼をしているね。
 最初、彰は相手にしなかった。
 だが男は構うことなく彰の隣に腰を下ろし、勝手になにやら小難しい話を始めた。
 その内容が不思議と面白くて、聞き流せなかった。
 次第に真剣に耳を傾けるようになり、いつしか彰はその男を『先生』と呼び慕うようになった。
「先生からはいろんなことを教わった。当たり前だけど、忘れがちな大切なことを。俺はそれをなるべく守るようにしてるんだ」
「……いい先生に会えたんだ」
「ああ。今頃、何してるんだろうなぁ……」
 つい懐かしくなって、空を見上げた。
 冬の空も終わりが近づき、少しずつ青々としてきている。
 まだ風は冷たいが、もう少ししたら暖かくなってくるだろう。
「……彰が捜し屋始めたのって、その人がきっかけ?」
「いや、捜し屋稼業は小遣い稼ぎに、右眼の力に慣れるための訓練。それ以上に荒事に慣れたのは、気のせいだと思いたい」
 もう一つ。
 自分でも分からない『何か』を捜すという目的もあるのだが、あまりにも漠然としているので話すのはやめておいた。
「そういう永久はどうなんだ?」
 そう質問する彰の頬は、かすかに赤くなっている。
 永久、と下の名前で呼ぶことに抵抗があるのだ。
 慣れてないのもあるが、相手は黙っていればかなり可愛い女の子である。
 普通の人付き合いにさえ不慣れな彰が照れるのは、当然だった。
 ちなみに呼ばないと永久が不機嫌になる。
 こちらには遠慮するなと言っておいて自分は遠慮するのか、というのが主な言い分だった。
 もっともなので、反論出来ない。
「どうなんだ、って?」
「退魔士を始めたきっかけ」
「ああ、それは……いろいろかな。一番のきっかけは、四年前の事件だけど」
「事件?」
「そ。――私の友達が、器にされたの」
 永久の声が若干沈む。
 彼女の『線』も大きく揺れ動いた。
 まずい質問をしたか、と彰は内心舌打ちする。
 しかし、彰が制止するよりも早く、永久は話を続けた。
「小学校の頃からの友達でね。休み時間とか放課後とか、いっつも一緒にいたの。家が近かったから登下校も一緒になることが多かった。時々喧嘩もしたけど、本当に、仲良くやってた」
 そう言って、永久は首を振った。
「でも、私は助けられなかった」
 その声には、強い後悔の念がありありと表れていた。
「……助けて、あげられなかった」
 親しい相手が、気づけば悪魔の器にされていた。
 その事実を知ったときの永久はどんな思いだったのか。
 それを思うと、彰は何も言葉が出てこなかった。
「凄く悔しかった」
 永久はかすかに肩を震わせた。俯きがちの表情は窺い知れない。
「そんな思いはもうしたくないから。だから、私は退魔士の道を選んだの。……もうあの子みたいな犠牲者を、そして私みたいな思いをする人を出したくないって思ったから」
 そう言って、永久は面を上げた。
 そこには、力ない微笑があった。
 彰はじっと彼女を見て、それから空を見上げた。
 空には『線』がない。悪意とも害意とも無縁の世界が、そこに広がっている。
「……ほんと、そうだな」
 地上には悲しいことや辛いことが満ち溢れている。
 そんなものがなければ、空のように平穏であり続けることが出来れば、どれほどいいだろう。
 しかし、そんな彰の心は、次の瞬間に打ち砕かれた。
 ぞわり、と身体が震える。
 はっとして視線を下ろすと、永久が険しい顔つきで周囲を睨んでいた。
「……永久、これは」
「ええ、いるわね」
 彰も既に二度体験しているから、ある程度は分かる。
 悪魔が、近くにいるのだ。
 それも、かなり大きな気配の持ち主が。
「どうする?」
「とりあえず移動しましょ。ここだと他の人たちが巻き添えになる恐れがあるわ。……それに、これは多分挑発よ。こっちが動けば、あっちから姿見せてくるわ」
 彰が頷くと、二人は一斉に席を立ち上がって階段へと向かった。
 気配は離れることなくついてきている。
 ざわざわと体内で蟲が騒ぎ立てているようで、彰はどうにも落ち着かなかった。
 何度か気になって後ろを向いてみたが、それらしき姿は一向に見えない。
「後ろには私が注意を向けてるから、彰は前を見て!」
 永久の叱責に、彰は慌てて前を見た。
 気配を探る、なんて真似は彰の得意分野ではない。
 彰に出来るのは、右眼で絶えず周囲を警戒することぐらいだった。
 階段は人通りが少ない。
 皆エレベーターやエスカレーターを使っているのだろう。
 人気のなさが、悪魔の存在をより強く感じさせる。
 斑目のときも、童女のときも周囲に人はいなかった。
 両足をフルに動かして、四階へ至ろうとしたそのとき。
 眼下に、三人の男女が見えた。
「……永久!」
 後ろに控える永久に声をかけ、彰は足を止めた。
 下にいる三人は見た目こそ普通の人間だが、その周囲にはおぞましい空気が漂っている。
 さらに、彼らが発する『線』は蛇のように動きながら、彰と永久にまとわりついていた。
「彰、後ろにも三人いる!」
「挟まれたか……!」
 後方、五階からこちらを見下ろす三人の人影。
 下にいる敵を含めると、その数は合計六人。
 これまでは一人ずつ襲いかかってきたが、それでは勝てないと判断したのだろう。
 ……しかし突然六人、きついな……!
 それぞれが斑目や童女並の力を持っているのであれば、戦いにおいて彰はさして役に立たない。
 むしろこの狭い戦場では足手まといになってしまう。
 そんな状態で永久一人で戦うのは、さすがに分が悪すぎる。
 そのとき、下方にいた三人のうち、真ん中の一人が一歩前に出た。
 六人の中ではただ一人、女性である。
 艶やかな黒髪を腰元まで伸ばしており、表情や仕草の一つ一つが妖艶な香りを醸し出しているようだった。
 彼女だけが他よりも存在感が濃い。
 外見ではなく、もっと別の何かが突出しているような気がした。
「お初にお目にかかります、可愛らしい退魔士のお嬢さん。そして素敵な捜し屋さん」
 ぞくぞくするほど色気を感じさせる声だった。
 それが、かえってこの場では恐ろしい。
「私は六の魔族、『幻惑の一族』の第十三位、ベランジェールと申します」
 慇懃無礼に笑みを浮かべて頭を下げる。
 馬鹿にされているようで腹が立ったが、こちらが圧倒的に不利な以上、迂闊なことを言って相手を刺激するのは得策ではない。
 彰は歯軋りをしながら、ベランジェールと名乗った女を睨みつけた。
「そんな恐い顔、なさらないでくださいな」
 ベランジェールは人差し指を口に当てながら、おかしそうに目元を歪ませる。
 それを見た途端、彰の視界がぐにゃりと歪んだ。
 頭の中を直接揺さぶられたような感覚。
 彰はこみ上げてきた吐き気を堪えようと、喉や腹に力を入れた。
「彰、あいつの目は見ないで。惑わされたら駄目よ」
 彰の服を引っ張りながら、永久が厳かに告げる。
 既に先ほどまでとは違う、退魔士としての顔になっていた。
「……はじめまして、ベランジェール。十三とはまた、貴方たちにとっては素晴らしい数字ね。仲間内ではさぞかし羨ましがられてるのかしら」
「ええ、そうね。自分でもとても気に入っているわ、上に昇るのが恐ろしいぐらい」
 永久の真顔の冗談に、ベランジェールは嬉々として応じた。
 すかさず、永久は口を開く。
「貴方ね? アレを奪い返そうとしてるのは」
「その通りですわ、ミス・倉凪。我らが王の腕、返していただけません?」
「こちらとしても、そういうわけにはいかないのよ」
「……でしょうね。貴方の気質は、私の子供たちを通じてよく理解したつもりです」
 困ったように肩を竦めると、ベランジェールは一気に眼光を鋭くした。
「では、少々強引にやらせていただきます」
 ベランジェールが宣言した瞬間、彼女の身体から黒い霧が噴出した。
 それは瞬く間にベランジェールの手に集まり、黒き爪へと形を変える。
 しかし、それは爪と呼ぶにはあまりに長く、そして鋭すぎた。
 指に直接装着した大型ナイフといった方が相応しい。
 対する永久も、手先に白き光を発生させていた。
 以前と同じように、そこから『翠玉の太刀』が現れる。
 しかし今回、それとは別の武装も現れていた。
 刀身がそれぞれ紅と蒼に彩られた、二本の短刀だ。
 永久はそれを彰に手渡した。
 直接手にしてみて分かったが、見た目から想像していたよりも重い。
「自分の身を守ることを第一にして」
 永久がそう呟くと同時に、ベランジェールと五人の男たちが飛び込んできた。
 誰もが斑目と同じぐらいの速度。
 しかし、その中にあってベランジェールは頭一つ分抜きん出ていた。
 他の誰よりも先に二人の元へ到達する。
 永久は迎撃の構えから一気に刀を抜き放つ。
 ベランジェールの胴体を一太刀で真っ二つにするための一撃である。
 刀が放つ輝きが爆流となり、高速でベランジェールに迫る。
 これまで悪魔たちを打ち倒してきた、永久の必殺。
 童女のときのような戸惑いやためらいもない。
 それだけで、彰は永久の勝利を半ば確信した。
 しかし、刃はベランジェールを切り裂くに至らなかった。
 ベランジェールの黒き爪が、がっちりと永久の刀を押さえている。
 刀身と爪が触れている箇所からは、絶えず火花が飛び散っていた。
「大した獲物をお持ちね、ミス・倉凪。こんなのでまともに斬られたら大火傷してしまいそうよ」
 ベランジェールは冷や汗を浮かべながらも、より腕に力を込めた。
 永久が顔をしかめ、強引に刀を振る。
 黒き爪の数本を斬り飛ばし、永久はベランジェールから距離を取った。
 一瞬遅れて、永久が立っていた場所に二つの腕が殺到した。
 ベランジェール配下の悪魔たちである。
 永久に背後から奇襲をしかけるつもりだったらしい。
 虚しく空を切った腕は、階段をかすかに抉り取った。
 彰も永久の戦いを呑気に観戦している場合ではなかった。
 彼も三人の悪魔に囲まれている。
 壁に背をつけながら、彰は階段をゆっくりと昇っている。
 細かい段差がある場所では、まともに戦うことすら難しい。
 悪魔たちはそれぞれ彰に明確な敵意を向けている。
 しかし、積極的に跳びかかってこようとはしない。
 だからと言って安心出来るわけでもないが、彰はふと違和感を抱いた。
 ……こいつら、何か妙だな。
 斑目や童女は外見通り、人間のように振舞っていた。
 しかし、今目の前にいる連中は違う。
 先ほどから一言も喋らないし、その顔には感情というものが見当たらない。
 敵意の形も単純すぎる。
 普通、敵意や害意、殺意などの『線』は荒々しい形をしているか、一点の無駄もなく研ぎ澄まされているかのどちらかである。
 しかし、この三人が向けてくる敵意の『線』はどちらでもない。ひどく単純なのである。
 ……まるで、命令に従っているだけのような――。
 と、彰がまた一段昇った瞬間。
 動作の隙を狙うようなタイミングで、悪魔の一人が跳びかかって来た。
 彰は無我夢中で永久に渡された短刀を振るう。
 右手に持った紅の短刀が、偶然にも悪魔の顔面を斜めに斬った。
 間髪入れず、残りの二人も襲いかかって来る。
 それも、無表情のままで。
 今度はきちんと相手を見た。
 そのうえで、それぞれの敵を両腕の短刀で斬りつける。
 人肌を斬り裂く嫌な手応えに彰は顔をしかめた。
 命を賭けて戦っている最中だということは分かっている。
 それでも、人の姿をした者を斬ることには強い抵抗感があった。
 斬り裂く感覚も気持ち悪さばかりが目立つ。
 唯一の救いは、相手が流すのが赤い血ではなく黒い霧であるということだろう。
 永久がためらうのも無理はない。
 その迷いがあるせいか、彰の攻撃は致命打にはならなかった。
 悪魔たちは斬られた場所からわずかに黒い霧を漏らしているが、動きを封じるには到底至らない。
 しかし相手も今の攻防で警戒したのか、彰から一定の距離を保ったまま必要以上に接近しようとはしてこない。
 左右に手にした短刀は彰によく馴染んだ。
 紅の刀からは熱が、蒼の刀からは冷気が発している。
 軽すぎず、重すぎず。
 彰にとっては非常に使いやすい武装だった。
「……永久!」
 短刀で相手を牽制しつつ、彰は永久の方を見た。
 彰だけでこの局面を打破するのは難しい。
 早く永久と合流し、この場から離脱するのが得策だろう。
 永久は彰よりも苦戦しているようだった。
 二人の悪魔を牽制しつつ、ベランジェールと打ち合いを続けている。
 永久の刀とベランジェールの爪が奏でる音は、先ほどから絶え間なく続いていた。
 ベランジェールは他の悪魔よりも数段上手らしく、永久の表情には焦燥が浮かんでいた。
 永久の背後から、一体の悪魔が足払いをしかける。
 永久は跳躍しつつ、その足めがけて刀を振るう。
 悪魔の足が、膝元から切断された。
 途端、そこから一気に黒い霧が噴出する。
 それは一気に周囲へと広がり、永久やベランジェールを覆い隠す。
「くっ……」
 あれでは永久たちの様子が見えない。
 眉を吊り上げながら、彰は自分を囲む悪魔たちを見据える。
 どうもこの悪魔たちには、それほど強烈な殺意はないようだった。
 動きの一つ一つが消極的である。
 ……こいつら、足止めが目的か……!
 永久を殺してしまえば、『天魔の右腕』の場所が分からなくなる。
 かと言って、永久を生け捕りにして腕の隠し場所を吐かせるのも簡単なことではない。
 それならば組みしやすい彰を生け捕りにして、居場所を捜させる方がいい。
 おそらくこの悪魔たちは、ベランジェールの命令に従って動いているのだろう。
 おそらくその内容は『捜し屋を足止めするか、生け捕りにせよ』といったものに違いない。
 彰はそう判断すると、一気に悪魔たちの元へ駆け込んだ。
 殺される可能性は低い。
 それならば大人しく相手に付き合うよりも、悪あがきをしてみた方がいいに決まっている。
「おおぉッ!」
 吼える。
 相手を威圧するように。
 そして、自らを奮い立たせるために。
 余計なものを視界から省く。
 意識の外に放り出す。
 恐れは捨てる。
 相手は悪魔であり、人間ではない。
 ……ためらうな!
 彰は腹に力を込め、正面にいた悪魔の懐に入った。
 紅の短刀を相手の胸へと突き立てる。
 すぐさま短刀を引き抜き、その反動を利用して後方に右腕を振るう。
 迫って来ていた悪魔の首を斬り、そのまま壁際に飛び退いた。
 即座に視界内に二人の悪魔を確認。
 胸を刺された方はかろうじて動いていたが、首を斬られた方は地に倒れた。
 殺したのか、という恐怖に包まれそうになったとき、彰の右眼が上空からの『線』を捉える。
 彰が顔を上げた瞬間、残っていたもう一人の悪魔が階段の手すりから飛び降りた。
 彰は紅と蒼のナイフを頭上で交差させ、相手を待ち構える。
 飛び降りてきた悪魔は両腕を反らし、彰の顔めがけて振り下ろしてきた。
 彰はそれを二つの短刀で受け止める。
 凄まじい衝撃が両腕に走り、彰は呻き声を上げた。
「彰!?」
 霧の中から永久の叫びが聞こえた。
 彰の異変を察したのだろう。その声には、焦りが色濃く表れている。
「ぐ、く……!」
 上から物凄い力で押さえつけられそうになる。
 彰は必死に抵抗するが、徐々に両腕の限界が近づいてきた。
 純粋な腕力勝負では、彰が圧倒的に不利である。
 少年の姿をした悪魔の腕が、彰の前髪に触れた。
 その瞬間、黒い霧の中から永久が飛び出してきた。
 彼女は勢いに乗ったまま『翠玉の太刀』を振るい、彰と肉薄していた悪魔を斬り倒す。
 両腕にかかっていた負担から解放され、彰は大きく息を吐き出した。
「彰、無事ね」
 永久は彰の前に立った。
 彼女はあちこちに軽傷を負っているようだった。
 ところどころ服が裂かれ、血が滲み出ている。
 特に右肩からの出血がひどい。
 昨日の傷を塞ぐために巻かれた包帯が、再び血色に染まっていた。
 それでも、彰の無事を確認した彼女は、怪我のことなど忘れたように安堵の笑みを浮かべた。
 彰も顔をほころばせかける。
 しかしそのとき、彰は永久に向かって伸びる一本の『線』を見た。
 おぞましい殺意を感じさせる、毒々しい『線』を。
 そして――危ないと叫ぶ間もなく、永久の背中が切り裂かれた。
 彰の方へ倒れこむ永久の向こうに、長すぎる黒い爪を舐める悪魔の姿があった。
「戦闘中に余所見はいただけませんわ、ミス・倉凪」
「お前……!」
 崩れ落ちた永久を抱えながら、彰はその女悪魔を睨みつけた。
 永久の背中には四つの赤線が引かれていた。
 その線は、徐々に広がりを見せつつある。
「あら、〝骸〟を倒したのかしら。捜し屋さんもお強いんですのね」
 ベランジェールは余裕の笑みを浮かべる。
 気づけば、彰たちは囲まれていた。
 永久はぐったりとしたまま動かない。
 背中の傷が相当効いたのだろう。
 表情だけが、苦痛に歪んでいた。
「さて、捜し屋さんはどいてください。貴方は私たちにとって必要な存在ですから、殺したりはしません」
「永久を、どうするつもりだ……!」
 両腕の痺れは治まってきた。
 彰はそっと永久を横にさせると、再び二つの短剣を手に立ち上がった。
 ベランジェールはぞっとするような冷笑を浮かべた。
「殺します。『右腕』は貴方がいれば見つけられますし――」
 横たわる永久を見下ろしながら、
「所有者を殺さなければ、もう片方が手に入りませんしね」
 さも当然のように、そんなことを言った。
「……もう片方?」
「あら、知りませんでした?」
 ベランジェールはおどけたような仕草で、
「そこの彼女は……」

「――それ以上言ったら、殺すわよ」

 ベランジェールの言葉を遮るように、永久が重々しい声を上げた。
 彰の知らない声だった。
「永久……?」
 彰が呼びかけると、それに反応するように彼女はゆっくりと身を起こした。
 出血量が多いからか、顔色は悪い。
 しかし双眸だけが不気味な鋭さを帯びている。
 異様だったのは、彼女がベランジェールへと放つ『線』だった。
 その『線』は、彰が知る敵意や殺意とは全く違った、圧倒的な強さを内包している。
 殺そうと思えばいつでも殺せる、と言わんばかりの強さがそこにはあった。
 事実、ベランジェールの表情からは余裕が消えていた。
 それどころか、その場にいることだけでも辛いと言わんばかりに、苦しげな呻き声をもらしていた。
「……調子に乗りすぎたかしら。でも、ここでそれを使うつもり?」
 ベランジェールの『線』は、永久の左腕に伸びていた。
 そこから、灰色の霧が溢れ出ている。
 悪魔たちを構成する魔力――黒い霧よりも、遥かに禍々しさを感じた。
 永久はベランジェールの言葉に、苦々しい反応を示した。
「……ベランジェール。貴女はどこでその話を聞いたのかしら」
「あら、有名ですわよ。四年前の事件は」
 ベランジェールは動かない。
 ただ、彼女に従う虚ろ表情の悪魔たち――先ほど〝骸〟と呼ばれた者たちの『線』が、なにやら小さな変化を見せていた。
 より細く、そしてより鋭く。
 それが何を意味するのか、彰が気づいた瞬間――永久の左腕に、〝骸〟が跳びかかった。
 ベランジェールに意識を集中していたため、永久の反応が遅れた。
 意識を〝骸〟に移したとき、既に相手は眼前に迫っている。
 彰は咄嗟に、両者の間に割って入った。
「彰っ!?」
 永久が悲鳴をあげるのと同時に、彰と〝骸〟が衝突する。
 相手の勢いに負けて、彰は勢いよく後ろへ吹き飛ばされた。
 その先には永久が、そして彼女の後ろにはガラス窓がある。
 ……まずいっ!
 彰は顔をひきつらせた。
 次の瞬間、彰は窓ガラスを叩き割り、永久と共に空中へと放り出された。
 不意に感じた風と、遥か下に見える狭い路地。
 それを目にして、彰は言葉を失った。
 宙に放り出された二人は、当然のように落下を始める。
 それを止める手段などない。
「彰、動かないで!」
 永久は鋭い声を張り上げると、彰の身体を左腕で抱きかかえた。
 そして、右手に持った『翠玉の太刀』を建物の壁面に滑らせる。
 空気の抵抗を受けながらも、二人の落下は止まらない。
『翠玉の太刀』によってわずかに減速しているが、停止にまでは至りそうにもない。
 すぐに地面が間近に迫る。
「くっ……!」
 彰は身をよじった。
 このままでは二人とも無事では済まない。
 ならばせめて自分が下になろうと思ったのである。
 しかし、その心配は杞憂だった。
 永久は彰を抱えたまま、当然のように地面に着地する。
 どういう理屈かは分からないが、衝撃もほとんどない。
 着地の瞬間、永久が何かして落下の衝撃を和らげたらしい。
「……彰、大丈夫?」
 彰の身体をそっと下ろしながら、永久が弱々しく尋ねる。
 彰は彼女の顔を見てぎょっとした。
「大丈夫、じゃない。君こそ真っ青だぞ……!」
 永久の顔色は先ほどよりもさらに悪化していた。
 放っておけば今にも死にそうなぐらいに。
 彰は永久に肩を貸しながら、上を見た。
 ベランジェールたちが追撃を仕掛けてくる様子はない。
 もし相手がそのつもりなら、こちらへ伸びる『線』が見えるはずである。
「……よし、すぐに病院に連れて行く。救急車呼んだ方がいいか?」
「病院は、駄目」
 永久が小さく首を振った。
「詮索されると困るし、入院させられたらもっと困るもの」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「大丈夫。……どこかで簡単な傷の手当てをすれば、どうにか……」
 永久は懇願するように、彰の服をぎゅっと引っ張った。
 この様子では、病院に連れて行こうとしても抵抗されそうである。
 彼女にはなるべく大人しくしてもらいたかった。
「……分かったよ。ったく、君は強情だな。それだけ元気なら、大丈夫そうだ」
 永久を元気づけるためにそんなことを言いながら、彰は人目を避けて移動を始めた。

 ベランジェールは永久たちが飛び降りたのを確認すると、すぐさま引き上げにかかった。
 ここで無理に追ったところで、人目のある場所に逃げ込まれてしまうだろう。
 町中で戦うのはさすがにまずい。
 あまり大っぴらに暴れると、『九裁』が本腰を入れてくる恐れがある。
 ……もっとも、逃がすつもりはないけれど。
 王の復活は多くの悪魔にとって最重要事項である。
 人間に同調する者たちや、空いた王位を狙う野心家たちを除けば、ほとんどの悪魔が王の復活を望んでいた。
 第六天魔。
 人間との戦いに敗れた彼女たちの王は、優れた統率力で世界中の悪魔たちを一つにまとめあげた。
 そのことを危険視した退魔士たちに討伐されてからも、多くの悪魔は彼を慕い続けている。
 ベランジェールが彼と会ったのはただ一度だけ。
 そのたった一度が、六年経った今も彼女を動かしている。
 ……我らが王。貴方を復活させるのは、この私です。
 向こうはこちらのことなど覚えていないだろう。
 それでも良かった。
 相手にどう思われようとも、そんなことはベランジェールには関係ない。
 ただ彼を蘇らせたい。
 彼女の願いはそれだけである。
 それは純粋な思いだった。
 しかし、老いのない悪魔でも時間の流れは人間と同じように感じる。
 六年間ずっと抱き続けてきたことで、それは狂気を帯びつつあった。
 人込みの中に紛れると、ベランジェールは一目散にデパートの出口へと向かった。
 早々に次の手を打つ必要がある。
 あの退魔士、倉凪永久は一筋縄でいく相手ではない。
 かと言って、捜し屋の男も油断出来る相手ではなかった。
 戦いにおいてはどうにか〝骸〟と互角といったところだが、それだけではない。
 先日あっさりと『天魔の右腕』を見つけ出したのには、何か理由があるはずだった。
 慎重にいかねばならない。
 ベランジェールは気を引き締め、次の準備へと向かった。