遠い風景

 黄昏の町は、別世界だった。
 朝のような光、夜のような闇が同居している。
 その境界のような場所を、俺は歩いていた。
 買い物袋を手に持ちながら、子供と一緒に歩いていく主婦。
 1日の仕事が終わって、これから帰ろうとする男。
 遊び足りず、けれども夕食が楽しみで家に向かう子供。
 いろんなやつが、いろんな表情をしている。
 やがて闇が濃くなり、夜が訪れた。
 気晴らしにと自販で煙草を買って、公園に向かう。
 公園に到着すると、誰もいないのを見計らってジャングルジムに登る。
 子供じみた真似だとは思うが、俺はこの特等席がそれなりに気に入っていた。
 いくつもの暖かな光が町に点在している。
 見ていると不思議と気分が穏やかになり、同時に少し悲しくもなる。
 闇に紛れて煙草の煙が黙々と天へと上っていく。
 お前はどこにいくんだ。
 見晴らしがいいとこなら俺も行ってみたいぞ。

 しばらくすると、珍しいことに客が来た。
 あまり格好いい男ではない。
 着ているものはデザインもいまいちだし、本人にも似合っていない。
 ただ、そんなことよりも目を引くものがあった。
 そいつはギターを持っていた。
 俺は楽器にはとんと縁がなかったんで詳しいことは分からない。
 しかし、なんとなくそのギターはよく使い込まれているような感じがした。
 男は俺に気づかずに、ベンチに座ってギターを静かに奏ではじめた。
 せっかくなので、俺も静かに聞かせてもらうことにした。

 また今日もあいつはやって来た。
 例のギター男だ。
 正直、あいつは上手くなかった。
 と言うか下手糞だった。
 お世辞にも上手いとは言えなかった。
 それぐらいのレベルだ。
 素人の俺がそう思ったのだから、音楽をかじっている人間の評価はもっと酷いものになっていたんだろう。
 それでもあいつは毎日やって来て、ここで練習していく。
 もう2年目に突入する。
 そう、あいつは2年間、毎日欠かさずここで練習していた。
 俺はいつもジャングルジムの天辺からあいつを見下ろす。
 2年前と背格好は変わらない。
 相変わらず冴えないやつだった。
 だが中身の方は違っていた。
 これだけしつこく続けてれば、当然だろうが上手くなる。
 その度合いは人によりけりなんだろうが、あいつは十分上手くなった。
 素人の俺からすれば、惚れ惚れするぐらいだ。
 だからか、ほんの気まぐれか——その日の演奏が終わった後、拍手をしてやった。
 どんな反応を示すか、少し期待していたのだが……あいつはあまり驚かなかった。
 それどころか、俺が拍手するといきなりこっちを見て笑いやがった。
 まぁ、2年もすれば途中で気づいていてもおかしくはなかったか。
 ただ驚かし損ねたということで、ちょっとがっくりきた。
「やっと、聞けました」
 俺が拍手を終えると、あいつはそんなことを言ってきた。
「毎日見てましたね」
「その言い方だと俺がストーカーみたいだろ。俺が毎日来てた公園にお前さんも来るようになった。それだけじゃねぇか」
「ああ、そうですね。僕は後輩ってことか」
 なんてことを言いながら、あいつはジジャングルジムを登ってきた。
 俺の足元のあたりまで登ってくると、そこに腰を下ろす。
「で、聞けたってなにがだ?」
「あなたの拍手——かなぁ。うん、まぁそんなもんです」
「……全然意味が分からん」
「ええとですね、言い方を変えると……僕はあなたに認められたのを喜んでるんです」
「ふぅむ?」
 よく分からなかった。
 いや、認められて嬉しいのは分かる。
 そして俺がこいつのギターを認めているのも事実だ。
 だがなんで俺なんだ?
 それを尋ねると、やつは困った様子で作り笑いを浮かべていた。
「僕は、今までギターを認めてもらえなかったんです」
「誰にもか?」
「ええ。親や友人、果ては彼女にまで認めてもらえなかったんです」
 この野郎彼女持ちかよ。
 俺的殺害リストに加えてやろうか。
 なんてことを真剣に考えている間にも、やつの話は続く。
「どうすればいいか、悩んでいました。結局練習するしかないだろうって、ここに来たんです」
「ふむ」
「そこにあなたがいたんですよ」
 俺の存在に気づいたあいつは、俺に聞かせることを念頭に置いてギターを弾いていたという。
 他には誰も、まともに聞いてすらくれなかったらしいのだ。
 一夜目はそれで終わり。
 次の日、俺がいなかったら夢を諦めるつもりだったらしい。
 が、俺はいた。
 まぁそりゃそうだ。
 暇人なんだし。
 ここが俺の居場所だったんだから。
 しかもすることがなかったからか、あいつのギターをこれでもかってぐらい聴いていた。
 で、結局聞いてくれるのは俺だけというギター。
 あいつは一歩踏み出すために、自分にルールを作った。
 俺に、自分の腕を認めさせること。
 それだけを目標にして、あいつは2年も頑張ったのだという。
 信じられない。
 俺のようなぐーたら人間にはとてもじゃないが、真似できない。
 けれど、俺が拍手したときこいつは確かに……
 ————本当に嬉しそうに笑ってたな。

 俺にお礼と、缶コーヒーを渡してあいつは帰っていった。
 もうここにはこないだろう。
 ここはあいつにとって長い階段の一段に過ぎない。
 いちいち降りてくる馬鹿もいないだろう。
 ……いや、いたか。
 俺だよ、それ。
 ふと、あいつが残した缶コーヒーを見てみる。
 そこには冗談半分で書いてもらった、あいつのサインがあった。
「あいつが有名になったら自慢してやる」
 そんなことを呟きながら、俺はジャングルジムを降りた。
 なぜだろう。
 あの一直線な馬鹿の影響でも受けたのだろうか。
 もうちょいと頑張ってみようという気持ちが湧き上がってくる。
 今まで自分の特等席だったジャングルジムを見上げる。
「今までお世話さんでした」
 そう言い残して、俺は公園から出る。
 どんな遠い風景でも、いつか届くと信じていた頃。
 そんな場所を、もうちょい馬鹿みたいに目指してもいいと思った。