善意と報い

 それは、いつかどこかであった話。
 
 あるところに、人の良い女がいた。
 困っている人間を見かければ手を貸し、泣いている人間がいれば慰めてやった。
「あの人は気が利く人だ」
 周囲の人間の評判もよく、彼女のことを悪く言う人間はほとんどいなかった。
 皮肉者は彼女を偽善者と呼んだりもしたが、概ね、彼女は良い人として見られていた。

 実際、彼女は善意が人より多めにある性質だった。
 何か見返りを求めて『良い人』をやっているわけではなかった。それが自然体だったのである。
「よう姐さん、うちの子どもがいないんだ。悪いけど探すの手伝ってくれないか」
「姐さん、ちょっと俺出かけなきゃいけないんだわ。店の留守任せてもいいかな」
 街の人は、親しみを込めて彼女を姐さんと呼ぶ。彼女自身、そうやって呼ばれるのは嫌いではなかった。
 いなくなった子どもがいれば心配になったし、店の留守番は新鮮で面白かった。
 そうして何年も何年も経っていった。

 彼女は相変わらず善意溢れる人間だった。
 周囲の人間も変わらず彼女を姐さんと呼び親しんでくれた。
 ただ、年月が経った。
「やあ姐さん、今日もちょいと店番頼んでいいかな。子どもの演劇会に行きたいんだ」
「ああ、いいよ」
 そう言いつつ、彼女の表情は若干曇っていた。
 ずっと姐さんと呼ばれて親しまれていたが、そのことに少し疲れてきたのである。
 子どもがいなくなれば、心配はするものの、なぜ私ばかりに手伝いを頼むのかと思うようになった。
 店の留守を任されれば、応じはするものの、前ほど新鮮味はなくなったし、何で私がと思うようになった。
 しかし、今まで親しまれてきた以上、どうにも断りづらい。その積み重ねが、余計に彼女を疲れさせていた。
 周りの人間は気づいているのかいないのか――彼女への接し方は前とほとんど変わらない。
「皆にとって、私はただの『良い人』なんじゃないか」
 そんな疑念が胸中に湧き上がった。

 良い人が常に良いことをするわけではない。逆に、悪人だって良いことをするときもあるだろう。
 彼女は、どちらかと言われれば、間違いなく善人であった。
 しかし、ただの『良い人』などいないのである。
 それは裏があるという意味ではない。人間はその時々で、表情を変えるものなのだ。
「なんか、厭だな」
 彼女はその日、いつもと違う表情だった。
 街に出たくなくなった。出ればまた親切心を出さねばならない。それが、そのときだけで終わればいいが、きっと終わらない。
 良いことをすればまた次も良いことをしなければならない。皆もそれを期待している。期待に応えなければ、きっと厭な顔をされるだろう。
 だから、いっそ誰とも会わずにいたかった。
 しかし彼女は人気があった。周りの人は放っておいてくれなかった。
「やあ姐さん、今日はどうしたんだい? 店の手伝いしてもらいたかったんだけど……」
「姐さん、酒場の親父が俺のこと悪く言うんだ! 話をちょいと聞いてくれないか」
 家のドアをノックしながら、そんな声が聞こえてくる。心配してくれているのか、親切にしてもらいたいがためにわざわざ押しかけてきたのか。
 そんな風に考えちゃ駄目だと思いながら、彼女は息を潜めていた。
 やがて人々は、口々に何か言いながら帰っていった。

 そんなことが何度か繰り返されるうちに、街の人々は彼女から少しずつ離れていった。
 たまに外に出ても、あまり呼び止められることがなくなった。
 何かを頼まれることも減った。その分気は楽になったが、寂しさは増した。
 やがて、あらぬ噂が広がるようになった。
「姐さんは人の話を聞いてくれない」
「親切じゃなくなったよな」
 その噂は彼女自身の耳にも届いた。
「今まで親切にしてきたのに、そんな風に言うのか」
 街の人々は、彼女を頼りにしたが、報いるところがなかった。それでも構わないと思っていたが、こんな仕打ちをされれば話は別だった。
「何が不親切だ。今まで一方的にこちらにいろいろ押しつけてたくせに。私は疲れてたんだ、あんたたちはそれにも気づかず、ただ私を非難する!」
 そう言われた人々は、一斉に激怒した。
「なんだと、今になって好き勝手言いやがって! あんたが親切にしてくれたから、俺たちにとってはそれが当たり前になってたんだ! それが不満なら言えばいいじゃないか。察しろだなんて勝手が過ぎるぞ!」
「ふざけるな! 言ったら言ったであんたら失望しただろう! え、今まであんたたちは私に何をしてくれたよ。一方的に頼って、何をしてくれたわけでもない! おかしいと思わなかったのか、悪いと思わなかったのか! いつもの御礼に何かしてやろうとか、考えなかったのか! こっちの気持ち、考えたことあるのかよ!」
 こうなれば売り言葉に買い言葉。
 どちらも馬耳東風、善人と呼ばれた彼女は俗物扱いされ、町の人々は心のなかに妙なしこりを残すことになってしまった。

 それから――。
 その町は、近隣の人々から『不親切な町』『勝手な町』『報いぬ町』などと揶揄されるようになった。この評判がますます町の人々の心を捻くれさせたことは、言うまでもないだろう。
 一方の彼女もまた、『偽善の俗物』として扱われ――誰とも関わらずに生きるようになったという。