不思議人

 桜も散り、次第に暑さを感じるようになった季節。
 海もなく山もなく、特徴と言えるものがない町に、妙な男がやって来た。
 男は端正な顔つきをしているものの、常にその表情は冴えない。
 暗い、というわけではない。
 常に何か、思案しているような顔つきなのだ。
 何を考えているかなどはその当人以外は誰も知らない。

「いらっしゃいませぃ」
 店の扉を開けて客が入ってくるなり、愛想良く答える。
 それは習慣となっているものだった。
 なにしろこういった客商売は好印象を残すことが大事だからだ。
 今朝焼いたパンやクッキーの香りが店内に程よく漂っている。
 今日も出来は良い。
 そのことには彼——土岐満晴は満足している。
 ただ、問題なのは————。
「なによっ、お母さんの分からず屋っ」
「あなたのほうこそ、何度も何度も我侭言わないの!」
「我侭言ってるのはそっちでしょっ!? 私は前々から言ってあったじゃない!」
「……」
 カウンターの奥にあるリビングから、怒声が響き渡る。
 かれこれ30分はあの調子だった。
 常連の客などは、
「またですか」
 などと笑いながら買って行ってくれるが、そうではない客は驚いてそそくさと出て行ってしまう。
 はっきり言って商売の邪魔である。
 それでも満晴はよほどのことがない限り、彼女らの喧嘩には口を挟まない。
 と言うよりも、挟めない。
 生来強気になれない性質らしく、とても喧嘩をしている妻と娘を止められる気がしないのである。
「はぁ……」
 そんな理由から、彼は客が店内からいなくなるとため息をつくのが癖になってしまっていた。
 今日の喧嘩の原因はなんだったか。
 妻の予定に付き合わされることになって、娘が友達と遊びに行く日を潰されたんだったか。
 しかし妻は妻で止むを得ない事情があったのだとか話していたような……まぁ、どうでもいいことである。
 そんなことを考えていると、再び店のドアが開いて客が入ってくる。
「いらっしゃいませぃ」
 条件反射によって、つい答える。
 しかし客の姿を見たとき、満晴はさすがに怪訝な表情をした。
 客は男だった。
 見た目は20代半ばぐらいであろうか。
 端正な顔つきで、アイドルにでもなれそうな男だった。
 しかし表情が固い。
 緊張しているとか、そういった固さではなく、何か……思案しているような表情なのだ。
 おまけに服装がぼろぼろだった。
 浮浪者のよう、とまではいかないが、随分とくたびれた服を着ている。
 貧乏人なのか、それとも面倒くさがって洗濯などをしていないのか。
 男は入ってくるなり、店内をぐるりと見回した。
「ここは、お菓子屋ですか?」
 その質問をされ、満晴は呆気に取られた。
 そんなことを聞かずとも、表にある看板を見ればここが何の店かなど、分かるであろう。
 と言うよりも、何の店かも分からずに入ってきたというのか。
 いろいろと言いたいことはあったが、一応客は客なので愛想笑いを浮かべながら、
「はい、そうですよ」
 と言っておく。
 その答えを確認したのか、していないのか。
 取り立てて反応もせずに、店内をぐるぐるとせわしなく動き続けている。
 やがて男はピタリと立ち止まり、小さなショートケーキを指差した。
「すいません、これをお一つ——」
 言いかけたところでその男の顔面に、
 べちゃっ。
 ——唐突に、ショートケーキが叩きつけられた。
「えっ」
 満晴が投げつけたわけではない。
 人の良いおじさんを地でいくこの男は、そんな真似などしようとしても出来ない。
 逆に、ケーキを顔面に投げつけられた当人よりも驚いている。
 背後の喧嘩がエスカレートしたのが原因のようだった。
 テーブルの上に置かれていたケーキを、妻か娘のどちらかが横に投げつけたのだろう。
 それが偶然、隙間を通って店内にいた男の顔面に直撃したらしかった。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
 慌てて駆けつける。
 男は顔だけではなく、服までベチャベチャの状態だ。
 元から貧相な身形だったが、余計酷いものになっている。
「も、申し訳ありません」
「いやいや」
 平身低頭、謝ろうとした満晴を男はやんわりと制した。
 そのくせ顔は、例の固い表情のままなのだ。
 怒っているようにしか見えない。
 思わず後ろを振り返って、まだ喧嘩を続けている2人を見る。
 さすがにやり過ぎだと思ったのだろう。
「こらっ」
 と注意しようとしたところを、
「待たれよ」
 再び男が制した。
「見たところあちらの御二人は喧嘩の最中のようです」
「は、はぁ……」
「それも相当鬱憤が溜まっているようです。なにしろ顔が真っ赤になっている」
 確かに。
 いつもの喧嘩よりも、さらに凄まじいことになっている。
 その怒声は近所に響き渡っているのではないかと思えるほどに。
「そういうときは下手に喧嘩を止めないほうが良いでしょう」
「し、しかし」
「私は結構ですよ。ケーキを食べることが出来ましたし」
 見ると、顔面にぶつけられたケーキは先ほど男が注文しようとしていたものと同じものだった。
「これの御代をまけていただく、ということで」
 例の表情のまま、指で顔からケーキを取っては食べている。
 不気味なことこのうえない。
「あ」
「な、なにか?」
「すみません、もう1つ……タオルか何か、貸していただけませんか」
 変人だ。
 満晴はそう確信した。

「すみませんでした……」
 土岐家のリビングにて、頭を下げて謝る姿が3つ。
 満晴、その妻である貴子、そして娘の佐奈である。
 3つの頭を見ながら、やはり男はあの表情のまま、
「いえいえ、お気になさらずに」
 と言った。
 表情は恐いが、そこから発せられる声はひどく穏やかで柔らかい。
 服の汚れがタオルだけでは取れなかったため、洗濯に出した。
 そのため彼は今、満晴の衣服を借りている。
 普通の服を着せてみると、やはりそこそこ格好良い部類に入る男だった。
「はぁ……まったく、お母さんってば」
「む」
 先ほどケーキを投げつけたのは母親の貴子であるらしい。
「まぁまぁ、ご両人共折角落ち着いたところをまた蒸し返しても仕方ないでしょう」
「うっ、そうでした」
 あれから30分以上も喧嘩をして、ようやく喧嘩は収まった。
 この2人が男に気づいたのはその後のことである。
「でもさ」
 佐奈は、喧嘩のことなどもうどうでもよくなったのだろう。
 男に興味を示したのか、なにやら物珍しそうに見ていた。
「なんであんなぼろい服着てたのよ?」
「ぼろいでしょうか、あれ」
「どう考えてもぼろいわよ。何処からか旅してきたみたいな感じじゃない」
「おや、鋭いですな」
 と、男の方が感心したように佐奈を見た。
「確かに私はここまで、一部を除けば徒歩でやって来ました」
「……何処から?」
「さぁ、各地を転々としてましたからね。ここに来る前は山形にいましたけど」
「よくそんな遠いところから……」
 満晴は感嘆の息を漏らした。
 なるほど、ますます変人のようだ。
「なんでそんなことしてんの? 電車とか使えば良かったじゃん」
「人を探していまして。探しながら来たのですよ」
「誰?」
「母です」
 うわっ、とその場にいた全員が、男から少し離れた。
 母を訪ねて旅を続けるなどと、まるで漫画やドラマのような話ではないか。
 ひょっとしたらこの男、そういった妄想を抱いているのでは。
「……私とて不自然な行為とは分かっているのですが」
 土岐家の反応を見て、重々しくため息をつく。
 どうやらこの男自身、自分のしていることが変だと言う自覚はあるらしい。
「何分父が存命していた頃からやって来たことなので、今更止めるのもなんだか中途半端かな、と」
「お父さんと旅をなされていたんですか」
「ええ、母に逃げられた、だらしない父です。去年エジプトの砂漠で私一人を残して息絶えました」
 なんだかとても凄惨な過去のようだが、この男が語るとなんてこともないように思えてしまう。
 それほど男の話は、現実味を帯びていない。
「ねぇ、じゃこの町にもお母さん探しに来たの?」
「いえ、この町に来たのは父の遺言に従ったまでのことです」
「ふむ? この町に来るように言われたのかな」
「ええ、正確に言うならば“帰れ”と言われたのですが」
 出された茶を静かに飲み干しながら、男は告げた。
「もともと私はこの町の出身なのだそうです。私は物心ついた頃から父の旅につき合わされていたので、ここにいた記憶は全くありませんが」
「そうなんですか……では、町のどこかに生家が?」
「隣です」
 えっ、と3人は驚いた。
 まさかこの奇妙な男が、隣の家に住むなどとは思ってもみなかったのである。
「隣って……あのボロ屋?」
「そうです。廃屋と言ってもいいでしょうね、あれは」
 窓ガラスはいくつも割れ、庭は雑草に覆われている。
 蔦が覆い茂り、家は幽霊屋敷などとも噂されるような有様だった。
 ちなみに土岐家は15年前にこの地へ越してきた。
 その頃には、その幽霊屋敷は既に今のような状態だった。
 当然、彼らもその家の住人など見たことはない。
「父は、母が戻っているかもしれないから家に帰れと言っていましたが……」
「あの様子じゃ、いないでしょ。さすがに」
「ええ」
 と、そこまで言って、男は立ち上がった。
「思ったよりも長居してしまいましたな。引越しの挨拶を、と思って来たのですが」
「いえいえ、もう少しゆっくりしていかれたらどうですか。長旅で疲れたでしょう」
「まぁ疲れてはいますが、家の手入れをしないと夜休むことも出来そうにないですし。ああ、服はきちんと洗ってからお返しします」
 そして出て行きかけたところで、貴子が佐奈を肘でつついた。
「あんた、今日は暇なんでしょ。手伝ってあげなさいな」
「えぇっ」
 とても嫌そうな顔をする。
 こんな休日に、何故そんなことをしなければならないのか。
 そう思ったが、男が姿を消すと不意に追いかけたくなった。
「ああ、もう……分かったわよ、行けばいいんでしょ!?」
 半ば八つ当たり気味に言い捨てて、佐奈は男を追って行った。
 その後姿を見届けてから、満晴は妻を苦笑しながら見た。
「怒りさえしなければ、普段は良い人なんですよねぇ」
「誰のことかしら?」
「すいません、今の言葉なかったことにしてください」
 妻には絶対に頭が上がらない夫だった。

 なんだか蒸し暑い。
 隣家の庭先に来てみると、男は既に草むしりを開始していた。
 庭は見渡す限り、小さなジャングルのようになっている。
 これでは庭を綺麗にするだけでも3日はかかりそうだった。
「ねぇ、ちょっと」
「む?」
 例の表情のまま、男は佐奈を見据えた。
 当人にはそのつもりはないのだろうが、睨まれているようで恐い。
「……もうちょっと表情柔らかく出来ないの?」
「ふむ」
 何気なく発せられたその言葉を、意外と真面目に受け止めて、男は表情を柔らかくしてみせた。
「こんなものではどうだろう」
「ああ、いい感じじゃない」
 こうした優しい顔の方が、佐奈には自然体に見えた。
 しかし、伸ばしたゴムが縮むように、男の表情はあっという間に元に戻ってしまった。
「駄目じゃん」
「申し訳ない」
 頭を下げて、律儀に謝る。
 やっぱりこの人、変だ……と、佐奈も改めて実感した。
「して、君は何用でこちらに?」
 口調もおかしい。
 そのことに苦笑を浮かべながら、佐奈は胸を張って告げた。
「1人じゃ大変そうだから手伝ってあげようかと思ったのよ、ふふん」
「ああ、それなら構わないよ」
 やんわりと、だがあっさりと断られた。
 佐奈はそのことに少なからずともショックを受けた。
「ちょ、ちょっと待ってってば。こんなの1人でやってたら、いつまで経っても終わらないじゃない」
「いや、いつかは終わるだろう」
「そういう返答をするかっ」
「いけないかな?」
 素で聞き返してくる。
 間違いなく天然系の人間だ。
 相手をしていると無意識にペースが乱され、気づけば自分も似たような状態になっていく。
「……っていうか」
 不毛な会話を続けても仕方がないので、話の方向性を変える。
「草刈鎌とか、芝刈り機とか。そういうのないわけ?」
「あ」
 忘れていたらしい。
 よく見てみると、男は軍手などもしていない。
 素手でやっていたせいか、少々泥がついている。
「あ、あんた馬鹿でしょっ!?」
 相手は自分より年上だったが、思わずそんなことも忘れてそう言ってしまった。
 言わせるだけの、馬鹿さ加減がこの男にはある。
「失敬な」
 男は不満に思ったらしいが、それ以外は取り立てて反論することもなく、道具を取りに庭の隅にある倉庫の方へと行ってしまった。
 この家をまともに人が住めるような状態にするよりも、あの男の相手をする方が疲れそうな気がする。
 佐奈はそう思ったが、同時に日常にはない、新鮮なものも感じていた。

「ちっがーう!」
 そんな叫び声を上げること数十回。
 あれから3日経ち、ようやく人が住める程度のものにはなった。
 相変わらず汚いし、掃除もしなければならないのだが。
 とりあえず、男は土岐家の世話になっている。
 年頃の娘さんがいる家はまずいでしょう、と男は反対した。
 しかし放っておくのも後味が悪い、と言い続ける土岐家に負けて、
「それなら物置の中でなら」
 と、いうことで落ち着いた。
 翌朝佐奈が様子を見てみると、何故か中にあった自転車に腰を掛けながら寝ていた。
 本当によく分からない男である。
「君は文句が多いな」
「あんたがアホなことばっかりするからでしょっ!?」
「……確かに、庭の雑草に火をつけて一斉に処理しようとしたのはまずかった」
 まずいどころではない。
 危うく土岐家にも火が移るところだった。
 慌てて2人で火を消したために事なきを得たが、その後男は佐奈にアッパーを喰らっている。
「あれは痛かった」
「うるさいっ、この危険人物!」
 酷い言い様だが、下手をすれば自分の家が燃やされていたのだ。
 それぐらい言う権利はあるだろう。
 ついでに、お互い年も近いため敬語は抜きで話をするようになった。
 まず第一に、佐奈がこの男に敬語を使うのは何か馬鹿らしい、と思うようになったのだ。
 奇行のオンパレードのこの男に、敬意を表することのほうが難しい。
「まさか、雑草があそこまで勢いよく燃えるとは思わなかった」
「だったら最初から燃やそうとしないわよ、普通はっ!」
「うむ。しかし、ふと衝動に駆られてしまった」
 最悪である。
「申し訳ないとは思っている。お詫びに、この家の清掃が完全に終わったら、馳走を用意しよう」
「また変なものじゃないでしょうね」
「いや、寿司だ」
「それならいいけど」
 静かに家の中を歩き回る。
 埃だらけ、蜘蛛の巣だらけと嫌な家だ。
 おまけに、全体的に暗い。
 まるでホラー映画に出てきそうな印象を受けた。
 そんな家から抜け出し、再び庭へとやって来る。
「明日は雨になるようだから、今日中に庭をまとめて綺麗にしたいところだ」
「はいはい、それじゃ私が指示するからあんたはちゃっちゃと動いて」
「了解した」
 男は放っておくとどんな珍妙なことをしでかすか分からない。
 そのため、佐奈は監督役も兼ねているのだ。

「そう言えばさ」
「ふむ?」
「あんたのお父さんって、どんな人だったの?」
 こんな珍妙な男とともに、20年近く旅を続けてきた父親。
 どんな人間だったのか、ふと気になった。
 男は作業を続けながら簡潔に、
「変人だった」
「あんたがそれを言うか」
 即座に突っ込みを入れつつ、どこかで納得もしていた。
 物心着いた頃には父親と旅をしていたという男。
 幼年期からこんな性格だったとは考えにくい。
 この男の性格形成に一番深く関わっていたのは、この男の父親。
 そのことを考えると、まともな人間とは思いにくい。
(こいつの性格の基になった父親……まぁ、普通の人って感じじゃないわよねぇ)
 と言うよりも、家を離れて死ぬまで旅を続けるということすら、佐奈にとっては信じ難い。
 完全に未知の世界の話のように思えてくる。
「15歳くらいの頃に気づいたんだが」
「ん?」
「父はどうも、狂っていたのだろう。乱暴な男ではなかったが、酷く不気味な男だった」
「……そうなの?」
「私は父の微笑んでいる顔しか知らない。覚えていないというレベルではない。少なくとも、私が物心ついてからは父は微笑む以外の表情を一切していなかった」
「それって、なんか恐いわね」
「ああ、恐ろしい。笑うことしか知らないようだった。父以外の人間をよく見るようになってからはその感が益々強くなってきた。父が化け物なのではないかと思ったこともある」
 そんな環境など、佐奈には想像もつかない。
 彼女の父である満晴は、確かに微笑むことは多いが、場合によっては怒ったり、落ち込んだりする。
 それらが一切失われた人間。
 想像がつくようで、つかない。
「父は常々言っていた。“お前の母さんは何処にいるんだろうねぇ。元気にしているだろうか”と。その言葉を聞く度に、私はあることを思うようになった」
「どんなこと?」
 佐奈自身も作業をしながら答えている。
 なかなか目の前の雑草が切れない。
「既に母は死んでいるのではないか、と」
「————」
 危うく、自分の手を鎌で切るところだった。
「大丈夫か」
 硬直している彼女に気づいて、男は歩み寄ってきた。
 そして。
「む」
 佐奈の目の前にある、大きな石に気づいた。
 危うく佐奈が手を切りそうになったのは、男の言葉と全く同時に“それ”に気づいたからだった。
 男もそれに気づいたのだろう。
 心なしか表情を、より険しくしながらその石を覆っている草をどけ始めた。
 やがて。
「——ああ、やはりか」

 それは、墓石だった。

 普通の墓石に比べれば、なんと簡素で味気ないものだろう。
 しかしそこには、確かに一人の女性の名が、刻まれていた。
「……」
 佐奈は言葉が出ない。
 男が生まれてからずっと、探し続けていた答えを、見つけてしまった。
 つい先日知り合ったばかりの佐奈でさえ、これだけの衝撃を受けたのである。
 当人である男は、どれほどの衝撃を受けたのだろうか。
「やれやれ」
 重々しくため息をつく。
 その態度が、ひどく投げやりなものに見えてしまう。
「この状態から察するに、もう20年以上前に用意されたものだな。大方父が用意したものだろう」
 墓石を撫でながら、男は淡々と語る。
「父にも困ったものだ。自身で墓を用意した相手を、死ぬまで探し続けていたとは……そして結局、私よりも先に会いに行ったわけか」
「あ、あのさ……」
 思わず、何かを言いかけた佐奈を、男はそっと制した。
「すまないが佐奈、今日はこれで帰ってもらえないだろうか。少し、やることが出来た」
「で、でもさ」
 この男を一人にしては、何をするか分からない。
 こんな状況ならば尚更だ。
 ————自分が生まれてからずっとし続けていたことが無意味だったと分かってしまったのだ。
 そのとき、この男ならばどうするだろう。
 不意に、これではもうすることがないな、などと言って自殺をする男の姿が思い浮かぶ。
 不吉な想像とは思うが、なかなかそのことが頭から離れない。
 この男なら、あり得る。
「私も、一緒に……」
「いや、構わない。——これは、私一人でやらせてもらいたい」
 そう言い切ると、男は作業半ばにして、薄暗い家の中に入ってしまった。
 後を追うことを躊躇い、結局佐奈は家に戻ることにした。
 ただ、胸の中には一抹の不安があった。

 翌朝。
 大雨が、雑音を生み出して土岐菓子店を包み込んでいた。
 あれから、男は土岐家に戻っていない。
 自然と、土岐家の人々の表情も暗くなっている。
「今日は客来ないわねぇ」
「そうだなぁ」
 夫婦の会話も、どこか上の空であった。
 窓を打つ雨の音は、次第に大きくなっていく。
「彼は、今頃どうしてるかな」
「さっき物置を見てみたけど、やっぱりいなかったわよ」
 それきり、会話が途絶える。
 そこにふと、佐奈がやって来た。
「私、ちょっと見てくる」
「……そうか。この雨だ、あまり無茶はしないでいいぞ」
「うん、分かった」
「彼を見かけたら、よろしくね」
「了解っ」
 そう言って、佐奈は急ぎ足で家を出た。
 途端、風によって軌道を変えられた雨が全身に襲い掛かる。
「うわっ」
 用意していた傘を差す暇もない。
 レインコートでも着てくるんだったかな、などと後悔する。
 とは言っても、向かう先は隣の家だ。
「これぐらい、なんてことない」
 そう自分に言い聞かせ、駆け足で隣の家まで向かう。
 家の中は暗い。
 この中に人がいるとは思えない。
 とは言え、相手はあの男だ。
 こんな、お化け屋敷じみた家にも、平気でいそうな気がした。
「おじゃまします!」
 扉を勢いよく開けて、すぐに閉めた。
 さすがに、家の中にまで雨は入ってきていない。
「ちょっと、いるー?」
 軽く声をかけてみるものの、反応はない。
 佐奈としても、あの男が普通に反応するとは思っていない。
 いわば、勢いで景気付けに声をかけただけにすぎない。
「よし、家中探し回ってやるわよ」
 この家の中ならば、あの男と共にあちこち探索済みだ。
 どこに何があるのか、大雑把にならば理解している。
(あいつめ、私ら一家をこんなに心配させて……会ったら何言ってやろう)
 そう思いながら、佐奈は男の探索を開始した。

 見つからない。
 家中探しても、どこにもいない。
 自分以外に、この家には誰もいないのではないか。
 そんな気さえしていた。
 あるいは、既に死体になっているか——。
「って何を考えてんだ私は」
 いけない。
 そんな弱気なことを考えては駄目だ。
 顔をぴしりと両手で叩き、気合を入れなおす。
 と。
 そこで、窓の外に人影が見えた気がした。
 雨はますます激しくなり、外の様子などろくに分からない。
「まさか、こんな天気の中外にいるわけないわよね……」
 普通ならば、そうだろう。
 しかし、あの男は——
「普通じゃない、か」
 濡れるのは正直勘弁願いたかったが、佐奈は意を決して再び外に出た。
 豪雨と言ってもいいだろう。
 台風の中にいるような心地だった。
「ううっ、くっ」
 前を見るのも大変な中、佐奈は一歩一歩確実に進んでいく。
 その先には、庭があった。
 昨日、墓石を見つけた場所。
 ————そこに男は、立っていた。
 見たところ傘も持たずに、ぼうっと突っ立っていた。
 その姿を見つけるなり。
 佐奈はたまらず、駆け寄った。
「あ、あんた何してんの!?」
 驚きの声。
 それに気づき、男はゆっくりと佐奈の方を向いた。
 こんなときでも例の表情のままだった。
「君か」
「君か、じゃないっ! 何してんのよ、風邪引くわよ!?」
「かもしれないな」
 言いつつ、男は再び視線を“それ”へと移した。
 つられて佐奈もそちらを向く。
 そこにあるのは墓石。
 ただ、その数は2つになっていた。
「あんた——」
 昨日、あれから。
 ずっと、もう1つの墓を作っていたのか。
「ふむ、まぁ我ながら酔狂だとは思うが……良い出来だ」
 その声は、ひどく満ち足りたもののように聞こえた。
 どこか、表情も柔らかい。
「父がどんな気持ちでこれを作り、そのうえで私を連れて旅に出たのか。結局、分からなかった」
 だが、と男は初めて、表情を歪めた。
 苦笑してみせたのである。
「よほど父は母を愛していたのだろう。詳しい経緯は分からないが、私は不思議と良かったと思えたよ」
「良かった……? だって、それじゃあんた今まで何のために旅してきたの?」
「ふむ、母を捜すためだが」
「それで、こんな結末が待ってたのを良かったなんて、私には分からない」
「……君が何を怒っているのか、よく分からないんだが。私の旅の目的は、果たされたんだ」
「それがこんな結末でもいいって言うわけ?」
 その言葉に、男は少し考えてから……ゆっくりと答えた。
「確かに馬鹿馬鹿しい話ではある。結末も最上のものとは言えない。しかし、得たものもある」
「……それは、何?」
「家族だ。私と父とが揃って失くしたものを……ようやくここで見つけることが出来た」
 言って、男はそっと新しい墓石を撫でる。
「父さん、お疲れ様。ようやく帰って来れたみたいだ」
 次に、古い墓石を撫でた。
「母さん、お待たせ。父さんと一緒に、仲良くやってください」
 そして、そっと墓石から手を離す。

「——旅は終わりました。私はそろそろ、自分の道を行くことにします」

 告げて、佐奈の方を向いた。
 既に表情はいつものものになっている。
 全て、終えたのだろう。
「君の方こそ、風邪を引きそうだぞ」
「……え、あ、その」
 突然、そんなことを言われて佐奈は戸惑った。
 男に何を言えばいいのか、よく分からなかったのである。
 そんな佐奈の頭に、男はポン、と手を置いた。
「ありがとう」
(——そんなこと言われたら、なぁ……)
 言い返さねばならない。
 それも、相手が言い忘れていることも付け足して。
「どういたしまして。それと、これからよろしくっ」
「————ああ、よろしく」
 一つの旅は終わり。
 新たな旅路は、どこからでも始まる。