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日暮の旅行記・伊豆下田/流刑のこと

 中世以前、下田には穏やかな時間が流れていました。中央政権が興味を持たなかったからでしょう。
 日本は農耕を中心として歴史を重ねてきました。江戸時代から経済が大きく発達するのですが、それまで貧富の基準は米がいくら取れるか、ということだったと思われます。
 その点、下田というのは山だらけで、開墾するのも相当の手間だったのではないかという気がします。海が近いのだから漁業が盛んだったのかもしれません。それで自給自足することは出来たのかもしれませんが、領主の立場からすれば、そうした収穫の不安定な地には興味を持ちにくかったのではないでしょうか。
 そもそも伊豆の地自体が流刑の地とされていたぐらいですから、当時の人々には人里離れた辺境という意識があったのでしょう。すぐそこに出来上がった武家政権である鎌倉幕府ですら、伊豆を流刑の地にしています。
もっともこれは、北条氏が伊豆出身のため、罪人の監視等で都合が良かったから、と考えることも出来ますが……。
 それだけに、この伊豆で源頼朝の挙兵、北条早雲の堀越御所急襲、下田条約と、歴史の転換期における重要な出来事が起きたのは、何やら不可思議な思いがします。

 伊豆全体の話に移ってしまいました。少し話を下田に戻します。
 ここで暮らしていた人々は相当に大変だったのではないかと勝手に推察してしまいます。湾岸沿いには波に削られて岩肌を剥き出しにした景色が多々あり、陸地は陸地で山脈が連なっています。津波や土砂崩れなどの災害に襲われた場合、相当な被害が出たのは間違いないと思われます。こうした厳しい環境から海賊行為に走る傾向もあったかもしれませんが、下田の辺りでは獲物となる商船もさほど通らなかったのではないか、という気がします。伊豆の海賊衆については寡聞なので、あまりはっきりとしたことは言えないのですが……。
 電車で向かう途中、何度もトンネルを通過しました。また、トンネルを抜けたとしても、視界には波打つ海か山脈ばかりが入り込んできます。昔は交通も不便だったでしょうし、他所の地域との交流はあまりなかったのではないでしょうか。
 中世に入ると戦略上の都合からか城が築かれ、後北条氏の家臣・清水氏が城主として置かれますが、下田の地が発展したから、というわけではないでしょう。人々の生活が変わり始めたのは、江戸時代になり港町として多くの商船が訪れるようになってからのように思えます。下田という地は、経済発展の効果をよくよく表しているのではないでしょうかね。