下田の二日目は、バスに乗って駅まで戻り、そこから下田海中水族館というところへ行きました。私の希望ではなく、家族の希望です。
駅前の、観光地然とした風景を眺めながらバスを待つことしばし。
ちょうど、どこかの学生さんたちと行き当たったお陰で、窮屈な出発になりました。
出発してほどなくトンネルに入り、そこから出ると、もう水族館でした。徒歩で行くことも十分可能な距離ですが、帰りにどのみち歩く予定だったので、行きはバスにしたのです。おかげで随分とげんなりした気持で水族館に到着しました。
水族館というと、小奇麗な建物があり、その中で多様な生物が飼われている、という印象がありました。そのため、海中水族館という名称から連想して――海中の中に造られた建物などを想像していました。
が、最初に出迎えてくれたのは、入口脇にいた巨大な亀たちでした。どれも人間より大きく、本来十分な広さであろう住処の中を、肩身狭そうに動き回っていて、それが妙に印象的でした。
中に入ると橋があり、その橋を歩きながらいろいろな生き物を眺めていくという形式で、建物の中に入ることはさほどありませんでした。その点、海中水族館というよりも、海上動物園とした方がいいのでは、などと考えてしまいました。
ただ、私たちにとって不幸なことに、ここが下田の中においても格別に人気のある場所であるらしく、また見世物(ショー)などが中心であることもあり、あまりじっくりとイルカやペンギンを眺めることは出来ませんでした。ただ、一番奥にあるイルカとアザラシのショーでは席を確保することが出来て、のんびりとショーを見ることが出来ました。隣に座っていた弟は、やや退屈そうにしていましたが――。
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日暮の旅行記・伊豆下田/海中水族館
日暮の旅行記・伊豆下田/下田の海
寝姿を降りてから、宿に向かいました。駅からバスに乗って移動することしばし。その間、私は窓の外に見える下田の風景を眺めながら、やはりここは一種の秘境だったのだろう、などということばかり考えていました。
途中、白浜海岸の前を通り過ぎて、古代の風景を懸命に思い浮かべようとしましたが、どうしても出来ませんでした。風景と言えるようなものもなく、ただ生い茂る森林と、その隙間から覗ける海があった、という程度の想像しか働きません。
やはりこの地域は海運あってのものだと考えたとき、不意に日本の海運史についての興味が湧き上がってきました。
古代の日本は海外との交流があり、特に朝鮮半島との関わりは日本書紀等によく記されています。ただし技術力はそう高いものではなかったように思います。極東という位置にあったため、あまり遠方に船で繰り出すという発想が湧かなかったのかもしれません。
また、そういう事情から古来日本海側の方が船の往来は盛んだったのではないかと思います。関東の海はその点奥地であったと言ってよく、活躍の場に恵まれない時代が長く続きました。ただ、鎖国と言う方針のため、船というものが日本列島を沿うようにして動くものになり――多少の皮肉を感じますが――この近辺の海が賑やかになってきたのではないでしょうか。
宿に着くと、穏やかで愛想の良い老紳士が出迎えてくれました。疲れたので一旦部屋で休み、その後露天風呂に出向きました。
周囲に緑が多いせいか虫が多く、夜ということもあって、電気の点いている風呂の方に集まって来て辟易した記憶があります。昔から私は虫が駄目で、そのせいか折角の露天風呂も、あまり楽しめずに終わりました。
日暮の旅行記・伊豆下田/ペリーと下田その2
犬走島という、現在は下田市内から橋でつながれた小島があり、その近くまでやって来たときの船内アナウンスが妙におかしかったのを、一月近く経った今でも覚えています。
「あの何の変哲もない島のところで、ペリーは錨を降ろした」
このアナウンスを考えた人にとっては、下田という土地とペリーという歴史とを結びつけることが第一であり、犬走島はその煽りを喰らったような感じがして、ちょっと気の毒でもあり、またおかしくもありました。
しかし逆に考えてみると、その変哲もない島にまで名前があるというのも不思議な感じがします。
この島は現代人の視点から捉える限り、本当に何の変哲もなく、そういう意味でこのアナウンスは現代的です。しかし島に名前が与えられた時代はそうではなく、例えば島に何かしらの神性を感じていた、というようなこともあり得たのではないでしょうか。
そう考えると、上記のアナウンスは時代の移り変わりを短いながらも表しきっているようであり、なんとなく名文のような感じがしてきます。
天気予報では翌日以降、雨が降る可能性が高くなるということなので、船を下りた後は山へ行きました。下田駅前にあるロープウェイで登ることが出来る山で、名を寝姿山と言います。
名前の由来は「夫人の寝ている姿に似ている」とのことですが、どの角度から見ても私にはそのように見えず、寝姿山のマップを見ることで、ようやくそれらしき形として捉えることが出来ました。私の感性がよほど鈍いのか、もしくは昔の人と今の人間との感性の差なのか、どちらなのでしょう。
花に彩られた階段を歩いて行くと、左に逸れる道があり、その先を進んで見ると黒船見張所というものがありました。
見張所と言っても大したことはなく、数人が入れるかどうかという程度の小屋でした。傍にはベンチと大砲があり、ベンチでは理知的な印象のある西欧人らしき青年が本を読んでいました。
ベンチと大砲の向いている先には、下田港があり、ここからはそれを一望することが出来ます。ただ、あまり開かれた場所ではないため、やや窮屈な感じがします。そして振り返ると、即席で作られたかのような小屋が一つ。当時の光景を想像すると、いかに江戸幕府が外国に対し小心であったか、ということが伺えるような気もします。
ちなみに、私は最初、設置されている大砲は、異変があったときに鳴らすものとばかり思っていました。が、実際はアメリカの艦隊に積まれていたものを後から置いただけらしく、すると見張所の人というのは、何のためにここに置かれていたのだろう、という疑問も出てきます。
日暮の旅行記・伊豆下田/ペリーと下田その1
下田駅を降りると、開けたバスターミナルに、南国風観光地といった感じの町並みが出迎えてくれます。もっとも、そのすぐ近くには険しい山々が連なっていて、少々不似合いな印象が拭いきれません。
旅行を予定していた日程は、予報によると天候が下り気味で、幸い到着直後は晴れ間だったので、まずは船に乗ることにしました。船の名前は黒船サスケハナ号。ペリー艦隊の船の一つで、ペンシルバニア州の川の名前が由来になっているのだそうです。日本語にしか聞こえない響きなのですが、これは何かの偶然なのかと思ってしまいます。
その遊覧船に向かう途上には、松陰の小径と呼ばれる道があります。無論これは幕末の長州藩志士の、形としては先駆者になった吉田松陰のことです。彼には並外れた探究心と行動力があり、国が開国するか否かで頭を抱える時勢の中、脇目も振らずにアメリカに向かおうと考えます。今は観光地らしく舗装されていますが、当時は暗く深い木々の間から、波の音が断続的に聞こえてくるような道だったのではないでしょうか。その音を聞きながら、松陰はまだ見ぬアメリカの地をどのような場所だと捉えていたのでしょう。
さて、遊覧船に乗り込むと、カモメが元気に飛んでいる様が確認出来ました。追加料金を払うことで餌やりも出来たらしいのですが、私はそういうことには興味がなく、ただぼんやりと船上からの風景を満喫していました。
ペリーがこの下田に訪れたのは、二度目の来航のときであり、しかも彼の目的である日本の開国及び日米和親条約はほぼ成った状況でした。正直なところ、ここを訪れた際の彼は感慨も何もなく、ただ使命を達成し得ることによる安堵や満足感があったに違いない、というのが私の推測です。あるいは、任務を果たす寸前だからと気を引き締め直して挑んだ可能性もありますが、どうしてもこの景色に特別な何かを感じていたようには思えません。
日暮の旅行記・伊豆下田/流刑のこと
中世以前、下田には穏やかな時間が流れていました。中央政権が興味を持たなかったからでしょう。
日本は農耕を中心として歴史を重ねてきました。江戸時代から経済が大きく発達するのですが、それまで貧富の基準は米がいくら取れるか、ということだったと思われます。
その点、下田というのは山だらけで、開墾するのも相当の手間だったのではないかという気がします。海が近いのだから漁業が盛んだったのかもしれません。それで自給自足することは出来たのかもしれませんが、領主の立場からすれば、そうした収穫の不安定な地には興味を持ちにくかったのではないでしょうか。
そもそも伊豆の地自体が流刑の地とされていたぐらいですから、当時の人々には人里離れた辺境という意識があったのでしょう。すぐそこに出来上がった武家政権である鎌倉幕府ですら、伊豆を流刑の地にしています。
もっともこれは、北条氏が伊豆出身のため、罪人の監視等で都合が良かったから、と考えることも出来ますが……。
それだけに、この伊豆で源頼朝の挙兵、北条早雲の堀越御所急襲、下田条約と、歴史の転換期における重要な出来事が起きたのは、何やら不可思議な思いがします。
伊豆全体の話に移ってしまいました。少し話を下田に戻します。
ここで暮らしていた人々は相当に大変だったのではないかと勝手に推察してしまいます。湾岸沿いには波に削られて岩肌を剥き出しにした景色が多々あり、陸地は陸地で山脈が連なっています。津波や土砂崩れなどの災害に襲われた場合、相当な被害が出たのは間違いないと思われます。こうした厳しい環境から海賊行為に走る傾向もあったかもしれませんが、下田の辺りでは獲物となる商船もさほど通らなかったのではないか、という気がします。伊豆の海賊衆については寡聞なので、あまりはっきりとしたことは言えないのですが……。
電車で向かう途中、何度もトンネルを通過しました。また、トンネルを抜けたとしても、視界には波打つ海か山脈ばかりが入り込んできます。昔は交通も不便だったでしょうし、他所の地域との交流はあまりなかったのではないでしょうか。
中世に入ると戦略上の都合からか城が築かれ、後北条氏の家臣・清水氏が城主として置かれますが、下田の地が発展したから、というわけではないでしょう。人々の生活が変わり始めたのは、江戸時代になり港町として多くの商船が訪れるようになってからのように思えます。下田という地は、経済発展の効果をよくよく表しているのではないでしょうかね。
日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008/最終話「一つの時代の終焉」
今日は大学の友人ピーター(日暮の京都旅行記2008参照)と一緒に、さいたま新都心で映画を見てきました。隠し砦の三悪人とコナンの二点。前者は、内容が面白かったんですが、エンディングがちょっと雰囲気違ってたような……。逆にコナンは、内容今一つでしたがエンディングが良かったですね。懐かしい。
しかし、仕事のこととかで説教臭くなってしまったのはいただけないなぁ。反省しないと、そのうち自分がどつぼにはまって地獄を見ることになりかねません。ゆめゆめ油断しないよう気をつけねば。
さて、これで終わりの日暮の旅行日記・伊豆&箱根。
前回は小田原城の本丸付近に突入した辺りまで。
比較的来訪しやすい場所にあるからか、賑わっている城内。ひとまず昼食でも取ろうと思った矢先、またもやはぐれるバスターズの面々。本当に協調性がまるでない連中です。まあ私もその一員なんですが。
[小田原城天守閣]
昼食を取り終えて無事合流を果たした後、今度は天守閣の中へ。
一時間もあれば見終わるだろうと見てたのですが、じっくり見てたら数時間はかかりそうな規模。中にはたくさんの史料がありました。出来ればゆっくりと見て回りたかったものの、ここで時間を使うと帰宅時間が遅れ、翌日に控えていた研修に差し支えが出てしまう、との理由から、割と急ぎ足で見て回った気がします。消化不良にも程がある!
ちなみに、この天守閣見学もばらばらで行動。気づけば私はひとりぼっちでした。……もしかしたら一番協調性ないのは私かもしれません。
[天守閣からの風景]
石垣山一夜城の方角を天守閣から眺めた図。壮観かな壮観かな。
この辺りから氏政らは突如出来上がった城を呆然と眺めてたんでしょうかねえ。そりゃびっくりもするわ。
そして、天守閣最上階でお土産を買った後は車に乗って東京へと帰還。
途中用事があるというGUCCIを途中で降ろし、残りの四人で割と危険な会話をしながらレンタルした店へ。
それからは特に何があるわけでもなく、普通に分かれて旅行は終了しました。京都旅行のときとはえらい違いだ……。まあ時間なかったので仕方なかったんですけど。日記的には微妙な終わり方で面白くありませんよ!
とりあえず、旅行は時間に余裕を持って、三ヶ月くらい前から準備せんとなあ、ということは身にしみて分かりました。
ではでは、ぐだぐだな終わり方ではありますが、日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008、これにて閉幕でございます。
日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008/第十二話「天下の名城ここにあり」
さて、この旅行日記も今回を含め、あと二回(もしくは三回)で終わりを迎えることになります。大分うろ覚えになってしまいましたが、ここまで来たら最後までちゃちゃっと書ききってしまいますかね。
ポーラ美術館を後にした我々バスターズの面々は、再び東進、箱根湯本を通り過ぎて一路小田原へ。この旅行最後の名所、小田原城の観光のためです。まあ何人かは高校のときの修学旅行で来てたらしいんですけどね……。俺も出来れば行きたかったさ!
ちなみに小田原城は、戦国時代の後北条氏が誇った天下の名城。武田信玄や上杉謙信らと後北条氏が渡り合えた要因の一つは、間違いなくこの城にあったと言ってもいいでしょう。
その規模は信長の安土城や秀吉の大阪城と比べても引けを取らない程度のものだったらしく、江戸時代になると、その規模の大きさを危惧した徳川家によって改修工事がなされました。現在の小田原城は後北条氏時代のものではなく、江戸時代の大久保氏時代のものが基礎となっている模様。
[城前は憩いの場に]
小田原城近くの駐車場に車を停めて早速城へ。
城門前の辺りは広場っぽくなっていて、のどかな憩いの場になっています。まあ時間の都合もあり、あまりここでのんびりもしてられなかったので、我々はすぐに中へと進んでいったのですが。……本当、この旅行もうちょい時間欲しかったよなあ。
[いざ門の先へ]
門の内側に入ると、会談らしきものがあったので興味本位で登ってみることに。そこにあったのはいくつもの穴でした。外敵が来たらここから弓とか鉄砲で応戦するつもりだったのかなぁ……。大久保氏時代に造られたものだとすると、実際に用いる機会はなかったんでしょうけど。
[城の中に畑が]
いやまあ別におかしくはないんですが、ここって誰が作業してるんだろう……。観光客の視線が集まって、結構精神面で疲れそうな感じがするのですが。
[そしてなぜか猿]
って、これはさすがに意味が分かりません!
後々になって分かったんですが、小田原城内って動物園や遊園地があるんですねえ……。しかしなぜ城の中に。悪いとは言いませんが、ちょっと期待と違っていて肩すかしを食らった気分です。
というわけで、今日はここまで。
続きは明日。多分それで、この旅行日記もおしまいです。
日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008/第十一話「ポーラ美術館」
さて、久々の伊豆旅行日記です。気づけば一週間が過ぎ去っていくばかりな日々なので、休日ぐらいはこうして更新していきたいところ。
早雲寺を後にした日暮は部屋に戻り、まだ寝こけているバスターズの面々を目にする。「ああ、このタイミングで早雲寺行ってて正解だったなあ」などと思いつつ、各々が起きるのをのんびりと待つことに。
早めに起きるのが私、適当な時間に起きるのがゴリ、起きることは起きるけどまた二度寝するゴッド、起きても超テンション低い江頭、完全に爆睡しているGUCCI。
朝弱い人間多過ぎますよ!
こいつらの辞書には「早起きは三文の得」という言葉が入っていないのだろうか……。
で、のんびり朝食をとったあとは、箱根湯本から西進して山中のポーラ美術館へ。ここはGucciの希望で来ることになったので、私自身はどういう場所かさっぱりでした。
ちなみに、そこまでは江頭が運転。前日の箱根坂越えもそうですが、この辺りは本当にカーブが多くて大変だ……。
で、当の美術館は洋風の画展と和風の画展が両方揃っているという、なかなか充実した場所でした。さすがに館内は撮影禁止なので、今回はその場にあった絵をアップすることは出来ないんですが……。
絵だけでなく、それを描いた画家の話や絵の説明文などもありましたので、素人の私でも十分に楽しめました。
……んー。
さすがに一か月以上経ってるので、詳細な説明が出来ない……。結構良いところだったのは覚えてるんですけど。
まあとりあえず、次は小田原城。そろそろこの旅行日記も終わりが見えてきました。
日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008/第十話「新九郎」
明日むっつりバスターズのメンツと会うので、まだ旅行の写真渡してない連中にやろうと印刷していたところ、インク切れが発生(つい先程。午後十時過ぎ)。さあどうする。
そんなこんなで今日も相変わらずの旅行日記。
ゴールデンウィークに何か書くようなことはないのかと言われそうですが……
ありません!
基本的にいつもの土日と同じです! 家族でどこか行こうと考えたものの、遅すぎたのか宿の予約が取れなかったんですよ。なので出かけると言っても駅前の辺りまで行ったりするぐらい。
絶望した! 味気なさすぎるゴールデンウィークに絶望した!
来年は有給で有意義なゴールデンウィークを過ごしてやる……!
では気を取り直して旅行日記本編。
グロッキー状態から回復した私は、翌朝六時前後に覚醒。すっきり頭痛も治まっていました。しかし、周りはまだ皆ぐっすり熟睡。バスターズの連中は夜型が多いので、朝に弱いようです。
ここで脳裏に浮かんだ選択肢は三つ。
「皆のだらしない寝顔を激写して『寝起きスペシャルごっこ』を実行する」
「寝てる傍で変な言葉をささやいたら夢の内容が悪化する、という漫画でありそうなパターンを実際にやってみる」
「特に何もせず待つ。現実は非情である」
まあ一と二は実際にやったらえらいことになりそうなので、仕方なく三を選択。まあ考えるだけでこんなこと実際にやったりはしないのが紳士というものです。考えるだけならしょっちゅうしてますが。
しかし、待ってるだけというのも暇なもの。本でも読もうかと思った矢先、少しずつ皆が起きてきました。もっともベッドから出る気力はまだない模様。
このとき私の脳裏に、ある考えが浮かび上がりました。
(考えてみればこの旅行は今日で終わり。今日は一旦西に向かってポーラ美術館、その後再び東進し小田原城に向かう。そうなると時間は微妙っ……! 翌日に研修を控えている身としては、小田原観光を終えて帰宅するのも出来るだけ早い時間が良い……。どうなんだ、早雲寺ッ! 行く時間はあるのか!? ないなら今……行くべきじゃあないのかっ!?)
そう。この旅行、とにかくこちらの予測の斜め上を行くというどっかの王子並の厄介な性質を持っている、ということに、この頃私は気づきつつありました。特に時間関係。車での移動は電車などと違って正確に何分で着く、というのが予想出来ない。帰りのことを考えると、高速の出入り口で詰まる危険性も非常に高い。余裕には余裕を持って行動しないと、到底スケジュール通りには行きません。
修善寺も全て回れたわけではなく、蛭ヶ小島も足を運ばずじまい。それらはまだ良いのですが、この旅行で私が是が非でも足を運んでおきたかった「韮山城」「早雲寺」「小田原城」は譲れません。
(妥協はしないっ! 俺は……見に行く!)
決断するやいなや、私は起きかけていた皆に「ちょっと早雲寺行って来るわ」と言い残し部屋を出発。前日ぶっ倒れていた私が心配だったのか、ゴリも一緒に行くことに。
坂道が多い中「ツンデレがどうだ」の「ヤンデレがどうだの」という会話をしながら早雲寺へ。ちなみに私はツンデレは特に好きでも嫌いでもなく、ヤンデレは普通に怖いと思う人間です。互いに腹の探り合いとかするのはちょっと良いかな、という気もしますが(ぇ
[ゴリはいてつくはどうを使った!]
ということで早雲寺の門前に到着。宿から歩いて六分程度で着きました。駅からも近いし行きやすい観光スポットですね。朝早いのでまだ誰もいませんでしたが。
ちなみに正門の写真、これしか撮ってませんでした。無人バージョン取っとけば良かった。まだ頭痛の影響が残ってたのかなぁ。
何日か前に雨が降っていたのか、寺の土は結構ぬかるんでました。入ってすぐに本堂、そこから左に進んで見ることに。少し進むと階段があり、そこを上ると……。
[北条五代の墓]
後北条氏五代の墓が並び立っていました。右から順に初代・北条早雲、二代目・北条氏綱、三代目・北条氏康、四代目・北条氏政、五代目北条氏直。初代から通して、皆通称は新九郎です。
関東一円を支配した大名家の墓としては質素に過ぎるんじゃないか、という印象を抱きがちですが、元々後北条氏は自分たちの贅沢よりも領国の安定を重視していた家柄。むしろ、こういう質朴な感じのする墓の方が似合うかもしれません。
[曲直瀬道三……?]
あれ、なんでこんなところに曲直瀬道三の墓が……と思っていたんですが、後々これは道三の養子の墓だということを知りました。確か直接見たときはゴリに対して偉そうに「道三ってのはだな」と語ってたような気がします。何この知ったかぶり。
他にも宗祇の墓があったらしいのですが、これは発見できず。あまりのんびりと見てたら朝食の時間になってしまうので、結構時間を気にしながらの観光でした。幻庵が作ったという庭園も見てみたかったのですが、それもまた今度の機会に。
ちなみに、宿に戻った私とゴリを待っていたのは、まだまだ爆睡してる他のメンバーの姿でした。いったい何時まで、どんな話をしてたのやら。
日暮の旅行日記・伊豆&箱根2008/第九話「お気疲れの紳士(偽)」
箱根の天嶮を超えたむっつりバスターズの面々は、箱根湯本駅に到着。坂道の多い宿場なので車での移動は難儀でした。人も結構多いし入り組んでるので。
どうにかこうにか宿に無事着くと、一行は部屋でぐだーっとしたりだらーっとしたり。ゴリは何か筋トレとかしてたような気がします。ふっ、ふっ、筋肉、筋肉が唸る!
しかしまあこの頃からちょいと頭痛に見舞われ始めていた人間が約一名おりまして。
まあぶっちゃけると私なんですが。
頭痛なんて放っておけばすぐ治る。そう思っていた時期が俺にもありました……(ぇ
その後、宿一番の目玉であるバイキングに出発。
一人九〇〇〇円で朝夕の食事つき、しかもどちらもバイキング!
バランスよくそこそこ食ってるのもいれば(江頭)、見てる方が気持ち悪くなるぐらい食べまくる奴もいました(ゴリとGucci)。ちなみに私やゴッドはひたすら好きなものばっか食べてました。マグロとかカニとかマグロとかマグロとか(をい
しかしその辺りが限界だったんでしょう。
夕食が終わる頃には頭痛が次第に悪化、私はえらくグロッキーになってました。ゴリ曰く「気疲れなんじゃない?」
確かに気疲れは結構ありました。特に時間のこととか観光地決めのときとかルートの都合とか宿のこととか。当初はそういうはずじゃなかったのに、いつの間にか私がほとんど幹事役やってんじゃん! というような状態でしたからねえ。車の運転という面ではゴリと江頭にお世話になりましたが。
あと今にして思えば、箱根越えのとき車の窓が思いっきり開けっ放しだったので、風邪をもろに浴びてたってのもあるかもしれません。閉めておけば良かった。
しかし時間が時間なので薬局が空いているわけでもなし。
とりあえず宿のフロントの方に尋ねてみたら、備えの薬を貰えました。計算通り……!(待て
どうにかこうにか、夜寝る前になると多少は回復。確かGucciと恋愛話をしてたような気がします。振り返ってみればこの旅行では彼とよく話したな。
回復した日暮には一つの懸念があった。それは"時間"の問題である。
念には念を。己の願望を満たすため、日暮は早朝、こっそり部屋を抜け出すのだった……!
次回、『雨上がりの朝の寺』
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